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 土日、ババアは風俗が休みみたいで、行く場所もないのか、ずっと家にいる。この間だけは智子と恵子も勉強とか執筆はせず、みんなで野球観戦をすることが多かった。平成初頭は西武が強かった時代である。ババアは西武ファンなので、ごきげんだった。恵子が買い出しに行ってくれて、近所の酒屋からワイン、焼酎、日本酒、ウォッカ、それから干物のおつまみなんかを調達してくる。そのあとは飲みながらの野球賭博だ。打席毎に結果がどうなるかを賭け合うわけだ。当たったひとは指名した誰かにお酒を一気飲みさせることができる。あたしはババアを潰そうと躍起になるのだけれど、ババアはどれだけ飲んでも潰れるどころか、酔いを見せることもなかった。ティンキーウィンキーのグラスに入れた瓶のふた一杯分ぐらいのウォッカのストレートを、いつも威勢よくのどに流し込んで見せた。前の世界でババアが口にしたことのある、「酔うのは女としての敗北」という言葉を思い出した。


 だからババアが酔って帰ってきたときはびっくりした。あれは風俗のある日の早朝だったので、平日だったと思う。智子と恵子はまだ寝ていた。あたしはひとりでマリオカートの練習をしていた。いつもより弱々しい音を立てて引戸が開き、振り返ると、ババアが立っていた。

 見るからに異様な有様だった。足取りは怪しく、酒の匂いがきつく、ひどく酔っているのだと分かった。そして美しかった赤いワンピースは綻びが目立ち、あちこちが汚れ、手や足も土が付着し、痣のようなものが現れていた。特に左頬と右の目元に現れた痣は痛々しかった。あたしは弱いババアを初めてみた。しかし皮肉にもいつもよりずっと可愛く見えた。このババアをあたしは愛せる、そう思った。

 風俗の絡みなんだろうか、ババアが外で乱暴されたことは間違いなかった。あたしは風俗のことがよく分からない。たとえばむりやり乱暴されることと、お金をもらって身体をゆだねることと、他動的と自動的の差こそあれ、プライドを明け渡すという意味では変わらない。それは、あたしがセックスに奔放であったにも関わらず、そういうセックスをしたことがないからこそ言えることなのか。あたしはババアと近いようで遠い、ふたつのセックスのことを思った。重なっているようでまるで共有するもののない、ふたつのセックス観のことを思った。あああたしはババアのセックスをわらえない、そう思った。なくこともできない。おこることも。それはあたしがババアのことを分からないという事象の、包括的であり、包括される中枢としての要素であるんじゃないか、そんな気がした。つまり、それそのもの、ということだ。

「……マリオカート、する?」

 あたしはそう声をかけてみた。ババアは黙ったままあたしの傍に正座し、コントローラを手に取った。汗と酒とそれ以外のものが混じったような、生々しい匂いが鼻をついた。もし涙の匂いなんてものがあるとすれば、それが近いんじゃないかと思った。ババアが泣いているのを見たことはない、でも、いま全身で泣いている。そう思った。

 あたしは珍しく、マリオカートで圧勝した。でも、思っていたのと違い、ぜんぜん嬉しくなかった。ババアの手はひどく腫れていて、まともにコントローラを握れないようだった。あんなに速かったババアが、いまは振り返ってもそこにいなかった。

「いえーい! 勝ち~!」

 ババアに気を遣ってもみじめにさせるだけだと思ったから、あたしは喜ぶフリをした。とてもわざとらしかったと思う。恋愛ドラマで定評を博したあたしの演技はババアといるとき、あたしを助けてはくれなかったし、ババアを助けてもくれなかった。あたしはババアを助けたことがない。そう思った。あたしはババアを助けられる何かを持っていない。そのことに気づいた。マリオカートで勝ったいま、あたしはそのことがすごく悔しかった。


 ねえヤスさん、例えば、人生がマリオカートのようだとして。人が人を助けるなんて、そんなことはできるのかな。ただ前に走る。そのことしかできないんじゃないかな。直線ではアクセル全開にして、ヘアピンカーブではドリフトを決めて、時に緑甲羅で隣人を邪魔して、隣人が邪魔をしてくるバナナを避けて、隣人の投げる赤甲羅に追われながら。

 ねえヤスさん、あたしには、愛のことが分かんないよ。だってヤスさんは、そんなこと教えてくれなかったよね。ババアがそれを教えてくれなかった理由は分かるよ。ババアは、愛されたことがないからだよね。

 ねえヤスさん、あたしたちは、ババアに愛されてなかったのかな。おかしいよね。


 ババアはスーパーファミコンの電源を切り、震える指でカセットのイジェクトボタンを押し、マリオカートの代わりに別のカセットを挿した。いまも続編が出ている有名なRPGだった。当時出ていたそのバージョンをあたしはやったことがないが、珍しく勇者が主人公ではなく、魔物使いが主人公のゲームだと知っていた。倒した魔物が一定の確率で仲間になるのだ。

 ふいにその主人公がババアに相似した。たとえばババアが倒した魔物を――美貌や智謀や恵俊彰のようなものを――仲間にした結果があたしや智子や恵子なんじゃないだろうか。あたしはどうしてババアが「ひかりの園」であたしたちを引き受けたのか、その理由をまだ知らない。それは恵子の言うような、鬼子母神的な利己心ではないかもしれない。神が優しいとあたしは思ったことがないし、これからも思えないと思う。それでもあたしは、怒りを由縁とする鬼神というものについて、その行動原理とか存在原理のうちのひとつは優しさなんじゃないかと、見たこともない弱いババアを見ているとき、思った。

 ただし、ゲームの主人公の名前は、「カンチヘ」、ではなかった。そのゲームではみっつのデータを保存できるようになっているのだが、どの主人公の名前も「つおいこ」だった。前の世界でババアの遺したゲームを検めたときも、あらゆるRPGの主人公の名前が「つおいこ」だったことを思い出した。

「なんで主人公が『つおいこ』なのよ」

 あたしは何でもない風を装ってそう尋ねてみたが、ひどい棒読みになってしまい、やはりへたくそだった。

 ババアは黙ったまま、じっと画面を見つめていた。夏の太陽もまだ上がりきっていない、ほんのりと暗い部屋のなか、ブラウン管のまばゆい光だけがババアの顔を照らす。うすぐらい瞳の奥で反射するひかりが明滅する。そのうつくしい瞳で、表情で、ババアは何を見ているんだろう。ババアは何を見ていたんだろう。ババアは何を見てきたんだろう。その答えはたぶん、あたしたちが知ってる。ババアが仲間にした、美子と智子と恵子だけが持ってる。

 ババアはおなかをさすり、こう呟いた。

「……strong child」

 ババアはゲームに記録されているデータをひとつずつ消していった。みっつあった「つおいこ」は全て消滅した。ババアはまるで作業のようにその行為を終えると、コントローラを置き、部屋を去っていった。ゲームの荘厳なオープニングテーマが鳴るなか、あたしは画面に残された「ぼうけんをする」の文字を見つめてしばらく固まっていたが、慌てて立ち上がり、ババアを追いかけた。

「ねえ!」

 引戸を開けて声を張り上げると、ババアは聖堂のある山へ向かうところだった。階段の前で立ち止まり、あたしを振り返った。面倒くさそうな表情にはわずかに怒りが戻っていて、すこしだけ安心した。

「……おなかに、子どもいるの?」

 あたしはそう尋ねた。ババアは怪訝そうに首を傾げた。

「……子ども、堕ろすの?」

 あたしは言った。堕ろしてほしいのか、堕ろしてほしくないのか、分からないのに言った。ババアもあたしが言った言葉の意味を把握しかねてる顔付きだった。それはババアが韓国人で、日本語が理解できないからか。それとも、あたしがババアに分かってほしい何かを持っていなかったからか。あたしはババアと会話しようと思ったことが一度でもあったんだろうか。分かってほしいと、分かりたいと、そう試みたことが一度でもあっただろうか。コミュニケーションは「言葉」ではない。すごく当たり前だけれど、「理解」のことだ。そんな当たり前のことを、あたしは分かっていなかったし、もっとも分かるべきババアの前で、あたしは当たり前にできていなかった。

 ひとつ、当たり前のことと、分かっていることがある。当たり前のこととは、ババアが妊娠してるってこと。そして分かっていることとは、「つおいこ」は、「強い子」だったってことだ。ババアはあたしたちに「強い子」であることを求めていたし、あたしたちもおそらく、その期待に応えた。そう思えば、元の世界に戻るためにはまだ不十分にしても、あたしたちとババアを巡る多くのことが説明づけられるように思った。

 ひとつ、気になったのは、ババアは妊娠した子を産むのだろうか、ということだった。ふつうに考えれば、それは風俗で妊娠した、父親知れずの子だろう。避妊せずにセックスすれば妊娠するのは当たり前だ。産むのも生理現象としては当たり前だ。堕ろすのは、当たり前ではない。前の世界でババアはその子を堕ろしたんじゃないか、あたしはそう思う。なぜなら、もしその子を産んでいたならば、その子こそがあるべき「強い子」であって、あたしや智子や恵子は必要ないからだ。つまり当たり前ではない因果によって、あたしたちは今ここにいる。もしもこの並行世界で、ババアが「当たり前である」ことを選んだとしたら、「当たり前ではない」あたしたちは、消滅してしまうのだろうか。

 あたしたちの世界は、ちっとも当たり前じゃなかった。あたしは本来あるべきである当たり前の、もうひとつの世界に気づいた。

 あたしはババアの葬式が元の世界に戻る鍵だと思っていた。それと相反する、元の世界に戻れない鍵となる、ババアの出産を見つけた。そしてどちらにも帰属しない、いや等しく両方に帰属する、ババアの堕胎についても。おそらくかつて、ババアが「強い子」を堕ろした瞬間から、全ては狂い始めた。ただしくあるべき、なんて思っていない。そもそもセックスをした瞬間から、矛盾しているに決まってるんだから。だからあたしは、元の世界に戻るためではなく、元の世界に戻らないためでもなく、たた単純に、素朴に、純粋に、こう思ったんだ。

「あたしはババアに強い子を、産んでほしい」

 その言葉も、ババアには通じなかったと思う。だからババアが微笑んだように見えたのは、夏のせいだ。うだるようなクソ夏の、焼けつくような太陽のひかりが、ババアの頬にわずか赤みを差しただけだ。

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