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夏休みに入った。授業はなくなったが、あたしたちは三姉妹とも土日以外は学校に通っていた。演劇部の活動である。新学期が始まってすぐの文化祭で年に一度の舞台を上演することになっていたので、練習をする必要があったのだ。
この舞台に参加するのは三年目で三度目だったが、姉妹全員が揃うのは初めてだったので、今まででいちばん前のめりだった。恵子が戯曲を書いてくれていたし、智子も舞台監督をすることが内定していた。だから、あたしは絶対に主役をやりたかった。前年、前々年ともに主役はあたしに任されていた。あたしが一番演技が上手かったし、あたしが一番きれいで舞台映えするという自負があった。なお転移前の世界では、あたしはこの舞台での大成功をきっかけにして、本格的に女優の道を歩むことになる。その思い出はすごく大切だったから、この世界の舞台で再び体験できるのはうれしかったし、同じように主役を張り、自分の力で成功させたかった。
演劇のタイトルはもちろん「神様の葬式」。恵子が初めて書いた戯曲であり、追って恵子は同名の小説でデビューすることになる。ヤスさんが転生し、ゴルゴダの丘で殺されることなく、十二使徒に看取られる形で安穏ののちに人生を全うする、いうストーリーだ。このアナザー・ストーリーでは、ヤスさんの代わりにマリアが殺される。そしてこのマリアこそ「神様の葬式」の主役だった。
初日、まず役決めが行われた。これは部長を議長としてまずブレイン・ストーミング形式で自由に意見を言い合い、ある程度まとまった時点で全体の合意を得る。まとまらなかった場合は、挙手制で決めたり、もっと議論が白熱した場合や大役を決める場合においては、投票によって決着することもある。
部長は前世界と同じひとで、ほかの部員も覚えているかぎりみんな同じであり、議論は記憶に残すものと同じように進行し、軽めの役から順に決まっていった。たったひとつ、前世界とは決定的に異なる点があった。演劇部員のなかに、カンチヘこと、ババアもいたのだ。
ババアはみんなから少し離れたところに椅子を用意して腰かけ、窓の向こうを眺めていた。昼下がり、北東向きの窓から入ってくるひかりは若干弱く、ババアの整った顔にいわくのある陰影をもたらす。ババアの目線の先を追いかけると、聖堂の尖塔があるような気がした。ババアがふとした拍子にこちらを振り向き、うっかり目が合ってしまった。やはりババアの顔付きは怒っているように感じられた。
「ええと、これでほとんどの役が決まったよね。あと決まってないのは、主役のマリアさま役と、イエスさま役だよね?」
議長の子が教室を見渡し、そう声を張り上げた。
「それで、合ってます」
書記の子が手を挙げてそう応じた。
この流れも覚えているとおりだった。あたしの名前がまだ呼ばれていないのも想定どおりだった。けっして根回ししているわけではないのだが、誰が主役になるのか、というのは事前にある程度流れのようなものが決まっていて、議論もその通りに進み、役を当てはめていく。意外と揉めるのは瑣末な役決めのほうで、主役のような役は全員一致で合意されることのほうが多い。あたしが主役であるマリアの役をすることは、ふだんの会話のなかで匂わされていたし、事実上の既定路線だった。少なくとも前の世界ではそうだった。
たったひとつ、気になることがあった。たったひとつだが、何よりも気になることで、心配なことでもあった。あたしの名前と同じように、ババアの名前もまだ呼ばれてはいないのだった。ほかにも呼ばれていない子たちはいた。しかしその子たちは、あたしの記憶が確かならば、裏方を任される人々だったはずで、それ以外で名前を呼ばれていない人はといえば、あたしとババアのふたりしか残っていないのだった。
「やっぱり主役のマリアさま役は、カンチヘだよね!」
そして、あたしのもっとも恐れていた意見が後ろのほうから上がった。議論のなかではあまり発言していない、おとなしめな子が無邪気に放ったその一言は、場内の空気を代弁しているものであり、また多くの子が声にしないまでも頷いたり微笑んだりしてその意見に同調した。
前世界では、同じような雰囲気のなか、しかしあたしが主役をすることが提起され、自然と同意され、決められた。しかしこの世界では、その雰囲気は無常にも、あたしではなくババアを支持していた。それは単に劇の配役ではなく、それを包含する存在意義のようなものについて、あたしではなくババアを選んでいるように思われた。あたしは笑いたくなったし、泣きたくなったし、いまさらのように智子や恵子がババアを否定した気持ちを分かった。
「ごめん! あたしもマリア役をやりたいんだけど!」
あたしはできるだけ悪びれない口調を作り、手を挙げて言った。議論のなかでこのように役の立候補があることは珍しくないが、主役級では珍しかったし、あたしがそうするのも初めてだった。場内の雰囲気をうかがうかぎり、このままではババアがマリア役に決まることは明らかだった。あたしはそれがどうしても許せなくて、突き動かされるまま、気がついたらプライドの高いあたしらしくもない主張をしていた。
「わたしもマリア役は美子がいいと思うなー」
後ろから智子の声がして、あたしの背を押してくれた。
「バ……カンチヘさんは、日本語よう使われへんやんか。台詞どうすんねん。脚本の立場から言わせてもろたら、そら美子のがええわ」
恵子もそう言ってくれた。
脚本家がそう言うのだから、というムードになるかと思えば、そうではなかった。
「台詞があるのはイエスさま役だって同じじゃん。そこは恵子が脚本を変えてなんとかしてくれないの?」
その提案が上がった。場のムードとしては、ババアを主役に据えることを必然として、周りはサポートに動くのが当たり前であるかのような、そんな流れで議論は進んでいた。
「いやいや、今さら脚本を変えるとか、そんな簡単に言わんといてくれへんかな。せやから、カンチヘさんは、裏方に回ったらええやん」
恵子のその提案は、あたしからしたら論理的に思えた。智子だってそう思っただろう。しかし、ほかの部員は違った。明らかに否定的な色合いを帯びた騒めきが教室中に広がった。
「カンチヘが裏方なんてありえないよ」
「カンチヘが演技しないなんてひどい」
「カンチヘがマリアさま役やるのがいいと思う」
声を大にして、小にして、あちこちからそんな意見が上がった。あたしたち三姉妹以外は完全にババア寄りで、このまま投票に移ったとしても大敗するのは確実だった。
議長がすっと手をあげると、場内は再び静かになった。議長は、どこか申し訳なさそうな表情をあたしに向けると、そのわりに圧の強い口調で、こう言った。
「ねえ、美子さん。イエスさま役だって大役だよ。だからマリアさま役は、カンチヘに譲ってやってくれないかな?」
その言葉を聴くなり、あたしの身体から力が抜けていくような感覚があった。何を言っても無駄だと察したのだ。
あたしは再び、ババアの顔に目を向けた。日本語が分からないのか、あまり興味がないのか、涼しげな表情で窓の外を眺めていた。いまは怒りを含まないそれは、悔しくなるぐらい可愛らしい横顔だった。
最後の抵抗とばかりに、あたしはこう尋ねてみた。
「なんであたしじゃなくて、カンチヘなんですか?」
その問いは直接は議長に向いていたが、実際はもっと多くに問いかけていたと思う。この教室にいる部員に、あたしじゃなくババアを選ぼうとする雰囲気に、あるいはこの世界に、本来あるべき元の世界に、「神様の葬式」に、あの葬式に、「どうしてあたしじゃなくババアなのか」と問いかけた。あたしは思う。それはあたしであるべきだったと。智子も、恵子もそうだったと思う。ババアじゃなく、自分であるべきだったと。死ぬのは自分であるべきだったと。それなのにどうして、ババアが選ばれたのか。あたしたちは信じてもいなかった神の存在を垣間見た。それは少なくともいまのあたしたちにとっては、「ババアを選ぶ世界の意思」そのものだった。
「なんでって……」
議長は言い淀んだ。教室内も再びざわつきはじめた。その答えがないからではなく、あまりに当たり前すぎて、言葉にするのがはばかられるような、そんな雰囲気だった。むしろそれを理解できないあたしたちを訝しんでるような、そのぐらいの明白さであたしたちは責められていた。たぶんきっと、ババアを理解できないことを責められていた。そのことは、この世界の構造の知るうえでのよすがになるかもしれないと、そのことだけは理解できた。
「……だってカンチヘには、神性があるじゃん」
やがてその答えが下された。
ババアに負けたとき、智子は笑った。恵子は泣いた。でもあたしは、笑わなかったし、泣かなかった。怒りもしなかった。こののっぺりした感情は、すなわち理解であり、受容なのだとあたしは知った。
あたしや智子や恵子にはなくて、ババアはそれを持っている。あたしはそのことを受け入れた。いつか恵子がババアを鬼神と呼んだことを思い出した。あれは鬼子母神の勘違いであり、本来は子どもを食う神なのだという。しかし本当に勘違いだったのか、いまはそれが分からない。ババアは子どもを食う、つまりあたしたちを食う、鬼子母神だったのか、それともそれ以外の神性を宿した鬼神だったのか、そのことが分からない。それでも確かにババアには神性があった。祈りの代わりに怒りを根拠とする神性が。
だからあたしたちはババアを恐れていた。祈りはしなかった。つまりあたしたちは、ヤスさん含め、ほかの一切の神を信じてもいないのと同様、ババアのことも信じてはいなかった。
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