16
「――板付きや」
聖堂に入ると、ちいさく呟いたはずの恵子の声が、しんと静まりかえったましろい空間をたしかな語彙によって表現した。あたしたちはこの風景をよく覚えていた。一面のしろい壁。その手前には高々と掲げられたしろい十字架と、それに打ち付けられたマリアのしろい裸体。そのしたにはしろい花にあふれた祭壇と、しろい床。床に置かれた棺だけがくろい。このコントラストは、あたしたちが作ったものだ。この風景は、いや舞台は、あたしたちの「神様の葬式」のものにそっくりじゃないか。
板付き、とは、明転したとき既に舞台が準備されている状態をいう。そうだ、あの「神様の葬式」は、ちょうどこの絵面によって始まったんだ。呼吸ひとつ聴こえない静けさまで同じだ。ヤスさんに向かって並ぶ座席のひとつひとつに聖書が置かれている。それはちょうどあの舞台を観てくれたお客さんを思わせる。そして一番後ろでこの景色を俯瞰しているあたしたちは、あのときのババアと同じだ。いまあたしたちは、あのときのババアと全く逆の関係として存在している。
あたしはしろい床のうえを歩き、棺に近づいていった。必然的にくろい棺は顔のところにだけ窓があって、ババアの死に顔を見ることができた。
これが「神様の葬式」の最初の場面。史実とはことなり、棺に眠っているのはヤスさんという設定だった。観客からその表情はうかがえない。だから観客は、あくまで死に顔を見つけたイスカリオテのユダの微笑みで、その死に顔がどういうものであるかを知る。「神様の葬式」の幕が上がってすぐの印象的なシーン、あのユダ役の子は決してうまくはなかったと思うが、それでも過去見せたことのない妖艶な微笑みでほとんどがカトリックであっただろう観客の羨望や嫉妬を焚きつけた。
いまあたしはあのときの彼女よりずっと経験豊かな女優だが、同じような笑みができるとは思えない。昨夜はろくに向き合わなかったババアの死に顔をいま初めて注視したリアリティは、なんの感情も感動も感覚すらも与えてくれなかった。あたしはいつかどこかのだれかが見せたようなのっぺりした表情で、こう思ったのだ。――これが死か、と。
智子がマリア像に近づいていった。「神様の葬式」では十字架で処刑されるのはヤスさんではなくマリアという設定で、彼女がいきなり十字架で磔にされているというショッキングな絵面で始まる。
これは舞台監督を務めた智子の賭けだった。もしかすると観客の心はこの図をみて一気に離れてしまうかもしれない。だとすれば、同じぐらいの確率で、その逆もあっていいはずだ。かくして智子はその賭けに勝った。
あの「神様の葬式」ではそうだった。いまはどうだろうか。どうしてユダの聖堂ではマリアが磔にされているのか理解できない。信心深い信者であればあるほどそうだろう。
だとすればこの場でいちばん「磔のマリア」の理解に近いのはあたしたちのはずで、それなのに、どうしてか棺のなかのババアには勝てない気がする。今までずっとそうであったように。ババアはこの聖堂に通っていたとシスターは教えてくれた。ババアは「磔のマリア」を見て何を思っていたのだろうか。ババアは何を信じていたのだろうか。
「こんな美しいマリア像、思いつくのはわたしだけかと思ってた」
磔のマリアを見上げ、智子は言った。泣いてばかりだった彼女が今まで口にしたどんな声よりもそれは弱かった。一度もまともに神を拝んだことのない智子が、自然と両手を組み、慣れない動きで十字を切った。
「磔のマリア、わたしの自信作だったんだ。覚えてるでしょ。『神様の葬式』の最後、磔のマリアは雷に撃たれて、よみがえる。あの雷はね、工作機械の会社に頼み込んで貰ってきた、大容量のコンデンサを使って発生させてたんだけど、電流が大きすぎるとマリア役の女の子が燃えちゃう。そう、美子が燃えちゃうところだったんだよ。だからそうならないよう、わたしは回路を必死で設計したんだ」
智子の告白を聴いて、あたしはずっと尋ねてみたかったことを訊いてみた。
「……智子。あたしが死んだらいいって、思ったことある?」
智子の答えはすぐだった。まるで迷いがなかったんだと分かった。
「一度もない。恵子ちゃんもそう。わたしは、ふたりが死んだらいいって思ったことは、一度もない。神に誓ったっていい」
そうだと思った。あたしも、智子と恵子が死んだらいいと思ったことは一度もないし、これからだって絶対にないと思う。
だからあたしは分かるんだ。智子がどうしてあたしを燃やすかもしれないぎりぎりの設計をしたのか。恵子だってどうしてそんな脚本を書いたのか。ふたりはあたしを殺したかったんじゃない。生かしたかったんだ。「神様の葬式」であたしはマリアの役だった。そして智子と恵子にとってヤスさんの役はババアを意味してたってことも分かる。あの芝居で、ふたりはあたしを生かすことで、ババアを殺そうとした。
「神様の葬式」が終わったあと、打ち上げの帰り道、あたしはヤスさん役の女の子とセックスをした。雑木林で、無理矢理だった。あたしも同じだと思う。殺したかったんだ。草食系ミュージシャンのいったことは確かにただしい。あたしは死とセックスのことを分けて考えることができない。セックスのとき、死のことを考えてる。だから死のときも、きっとセックスのことを考える。
棺の揺れ方で、ババアは人生の意味に気づくだろうか?
恵子が歩み寄ってきた。あたしたち三姉妹は並んで「磔のマリア」を見上げた。
「うちはずっと美子のことを書いてきた。そう思っててん。『神様の葬式』かてそうやった。ちゃうな、『神様の葬式』が頂点やった。作家にはようあるねんそういうことが。デビュー作が頂点ていう、そんなことが。だからうちはあれ以来、美子のことを書いてるフリをして、本当は何を書いてええか分かってへんかった。どれだけ売れても、賞を取っても、関係あらへん。分かってへんかった」
あたしと智子は黙ったまま恵子の話を聴く。続きを窺う。あたしたちも等しく分かっていなかったことを、恵子の分かっていないことに重ねようとする。
「いま分かった。うちがほんまに書きたかったのは、神様のことや。ババアのことやった」
――あたしもようやく分かった。あたしが生きてきたのは、ババアのため、それだけだったんだって。
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