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 入ったのはどこにでもあるチェーン店の安い居酒屋で、あまり流行っていないらしく、間の良いことに半地下にある個室に案内してもらった。あたしは赤ワインをデキャンタで、智子は芋焼酎をストレートで、恵子は日本酒を冷やで頼んだ。安い店でワインを頼むのは外れを引きやすいって知ってはいるんだけど、あたしはワインを飲みたかったし、悪酔いするほどあたしは弱くない。

 それからふぐ刺しの大皿とお造りの五種盛り合わせを頼み、乾杯をし、料理が出てくるまで付き出しの枝豆とお酒を減らしながら、恵子がババアの葬式について説明をしてくれた。

「ババア、カトリックやんか。せやからせっかくやしヤスさん式の葬式手配したろ思ってんけどな。ユダにはカトリックの葬式できる場所は聖堂しかないいうねん。あの山のうえのごっつい聖堂な」

 恵子の話を聴きながら、先ほど見たばかりのふたつの尖塔を思い出す。夜中にはライトアップされていて、田舎町らしいうすくらがりのなかに不気味なぐらいまっしろな姿を晒していた。恵子は片手で枝豆をつまみつつ、もう片方の手で親指と人差し指を合わせ、お金のジェスチャーを作った。

「こっちはええねん。んなもんいくらでもあるしな。せやけどなあ……、あんな、ものごっつでかい聖堂でやる? ふつう? 芸能人ならまあ分かるけどな。ババアの葬式なんかで使たら、罰当たりもええとこやで。天国いけへんのと違うか。ほんましょうもない」

 恵子はそこまで言い切るとぐいっと日本酒を飲み干し、店員さんに向かってグラスを持ちあげ、「おかわり」の合図をした。

「あ、わたしも! 麦、ストレートで!」

 いつの間にかグラスを空にしていた智子が乗じて手をあげた。あたしもそろそろおかわりをしようかと算段する。

 あたしたち三姉妹はお酒がすごく強くて、誰ひとり潰れたのを見たことがない。高校のときは月イチぐらいで晩酌をした。あのときから、あたしはワインで、智子は焼酎で、恵子は日本酒。ババアに怒られたことはない。未成年の飲酒なんかでババアは怒ったりしない。むしろお酒を買ってくれたのはババアだ。うちはお金がなかったにも関わらず、一緒にスーパーへ行くとたまに「飲みたい酒を選べ」と有無をいわさぬ口調であたしたちにお酒を持たせた。ババアいわく、酒で潰れるのは女としての負け、らしい。あたしたちがちょっとでも酔いを見せると、ババアは怒ったり嘆いたり嗤ったりした。それがムカつくから、あたしたちはどんどんお酒に強くなった。

 武勇伝なんかいくらでもある。あたしはヤリ逃げされた後輩の仕返しでホストクラブのおとこを全員潰したことがある。智子は学生御用達の安酒飲み放題のパブでブラックリストに載せられたことがあるらしい。恵子は缶詰状態で執筆していたリゾートホテルで飲みすぎたため日本酒の在庫を切らしたことがあるそうだ。

 ババアの言ったとおり、あたしたちは負けなかった。でも結果としてあたしたちは誰もまともな恋愛をしていないわけだから、勝ったとも思わない。結婚が女としての勝ちだ、なんて言ったら、それこそババアは激怒するだろうけれど。


「ババアの葬式、わたしたち以外に誰が来るの?」

 お酒が運ばれてくると智子はすぐにぐいっと杯を傾けてのどを鳴らし、グラスを置くとともに言った。入れ替わりにあたしは赤ワインのハーフボトルを注文する。料理が出てくるまでにそのぐらいなら空けられそうだ。

「誰もこおへん」

 恵子は枝豆をほおばりながら至極どうでもよさそうに言った。智子はしばらく絶句したのち、

「……もったいない。あんなでかい聖堂で、わたしたち三人だけで葬式?」

 と絞り出すように言った。

 智子の気持ちは痛いほどわかる。ババアの葬式に出るというだけで気分が悪いのに、あれだけ嫌だったカトリック式で、聖堂みたいな勘違いした場所で、三人だけで見送らないといけないというのは、人生最大の罰ゲームという気すらしてきた。ババアが最期にあたしたちに遺した罰ゲームだ。あたしのもっとも馴染んだババアの怒りの表情が思い浮かぶ。智子には嘆きの表情が、恵子には嗤いの表情が思い浮かんでいるだろう。そしてババアは決まっていうのだ。「私の若いときに比べたら、あんたらなんか、仕方がないよ」と。それがあたしたちを今も縛りつけている、呪いの言葉だ。

「しゃあないやん。うちかていろいろがんばってん。なんかババアが昔住んではった家がまだ残ってるんねんか。名義はババアのままでな。うち、今そこに一時滞在して、残ってるもんの整理してるねんけどな。あかんわ、ババアの人間関係なんか全然わからへん。ババアの部屋なんかひっどいで、後で見る? なんやようわからんふっるいゲームしか残ってへんねんもん。ほんま、うちもようやったわ」

 恵子がためいき混じりに言うと、智子がそれよりも大きなためいきを重ねた。

「そうだねえ、そういやわたしたち、ババアの人間関係なんか、なんも知らなかったもんね」

 ワインのハーフボトルがあたしの手元に届けられた。あたしは瓶のまま口にくわえ、勢いよくのどに流し込んだあと、おなじくためいきを零す。ババアに対しての呆れもあるし、あたしたちに対しての呆れもある。あたしたちは、ババアについて知ろうとはしなかった。


 あたしが小学三年生のときだったと思う。京都の、あの四畳半に三姉妹を集め、まんまるいちゃぶ台を挟んで、ババアは重々しくこう切り出したのだ。「おまえらの両親はとっくに死んだ」と。

 両親がいないことには早くから気づいていたが、ババアは怖かったし、訊けずにいたうえ、なにかよくない理由が隠されている予感がして、姉妹で話すこともなかった。それでも周りの子から「美子ちゃんちにはどうしてお父さんとお母さんがいないの」と尋ねられることはよくあって、答えに窮するのは気まずかったから、そのぐらいのかるい動機で理由を知りたいと思ってはいた。

 しかしいざババアに教えられたのは、その理由でもなんでもなかった。ババアはそれ以上なにも教えてくれなかった。あたしたちもそれを尋ねようとも、探ろうともしなかった。ババアの言葉にはよく分からない絶望のようなものがあって、そのことが分かれば十分だった。

 あたしたちはこの絶望を抜け出すため、生きていこうとした。あたしはよく喧嘩をするようになった。相手はおとこのこばかりだった。智子ははげしく夜泣きをするようになり、あたしはよく布団のなかで彼女を抱きしめたまま頭をさすってあげた。恵子が物語を作るようになったのはそのすぐあとだったと思う。まだ小さかったので、あの頃は絵本ばかり書いていた。

 あの頃からあたしは恵子の書く物語が好きだ。恵子の物語は、とてもまっとうだ。そのなかには、あたしと共有する彼女の人生が描かれている。そして智子とも共有するみっつの円の中心部にはババアがいる。あたしはあのひと自体を、絶望と呼んでもいいと思っている。

 だからあたしは、あたしたちは、ババアの身内なんて知らないし、知ろうともしなかったし、それはババアの人生についてもおなじだ。あたしたちの知っているババアは、「美智恵」は、あたし以上の「美」があって、智子以上の「智」があって、恵子以上の「恵」がある、そういうものだと教えられて、刷り込まれて、どうしてだか一度も疑おうとはしなかった。疑ってしまえば、あたしが追い求めてる「美」すら、嘘になる気がしたんだ。それは智子も恵子もそうだろう。


 三人とももう一杯のおかわりを飲み干したころ、ふぐ刺しとお造りが運ばれてきた。あたしたちは昔のとおり、示し合わせたようにいただきますをして、同時にわりばしを割り、小皿にしょうゆを貯めてわさびをたっぷり混ぜ込み、いっせいに箸を伸ばした。

「おいひー!」

 智子がふぐ刺しを口に含んだまま頬をほころばせて言う。あたしも食べてみたが、なるほど、たしかにこれは美味だ。夏はふぐの旬ではなかったと思うけれど、ぷりぷりに脂がのっている。奥歯で噛みしめると、ぢゅう、という肉感のある歯ごたえが口のなかで弾ける。舌のうえでとろけるような甘みがおどり、冷んやりとしたのどごしが真夏のねつっぽい身体にしみる。同じだけのものを東京で食べようと思えばいくらかかるだろう。それがここでは粗野な居酒屋で気軽に楽しめるのだから、やはり名産地というのはあなどれない。

「ちょお智子さんのふぐ刺しのが大きいやんか。ちょうだいよ」

 恵子が箸を伸ばして智子のふぐ刺しを奪い取ろうとした。智子は箸で器用に払いのけるとそのままふぐを口に含み、箸を恵子に向けて言う。

「恵子ちゃんやめて。迎え箸なんて下品な」

 恵子は「きゃあ」とわざとらしい悲鳴をあげ、

「智子さんきたない! 指し箸とかやめて!」

 と強い口調で応じた。

「どっちもどっちじゃん」

 あたしは鼻でわらい、ふぐを皿ごと自分のほうに寄せた。

「美子、そんなんいうてるけど、自分さっきからさんざん寄せ箸してるの気づいてる? 食べすぎやで」

 ふぐを取られた恨みもあるのか、恵子がじっとりとした目であたしを睨んだ。智子も同じ目線であたしを見つめ、頷く。

「はっはっは、合コンならあたしらみんな失格だね」

 うちの食卓は昔から早いもの勝ちだ。あたしは寄せた皿にのっているふぐ刺しを全部とりあげた。これがあたしたちの食べ方。欲しいものが食べられそうになったら、指し箸、寄せ箸、迎え箸、上等なのだ。

「美子、合コンとか行くの?」

 智子はそう言うと同時に箸をついーっと動かし、今度はお造りの皿を攻める。彼女が好きなサーモンを三枚同時にかっさらう。

「あっずるい!」

 恵子が叫ぶが、サーモンはすでに智子の口のなかだ。

「まあ合コン行くけどさ、付き合いで。まったく楽しくないね。ごはん美味しくないもん」

 あたしはそう答え、甘エビをがっつり奪ってやった。恵子の、ああっ、という悲鳴が気持ちいい。

「わかるわかる。おとことごはん食べても食べた気しないよね。マナーみたいなの気にされてばっかりで」

 智子の言葉にあたしはうんうんと頷きながら甘エビの歯ごたえを愉しむ。

「知ってる? マナーって愛されるやり方やねんて」

 ようやくいくらの醤油漬けにありつけたらしい恵子がくちゃくちゃしながら口元も隠さずに言った。

「『愛』っていう字、『まな』って読むやんか。せやからマナーいうんはな、これをやっといたら誰からも嫌われへんいう決まりごとで、それはつまり、愛されるやり方のことやねん」

 それを聴いたあたしと智子は、同時にはっはっはと声を出してわらい、お酒のお代わりを注文した。恵子もあわててお代わりを申し出た。

 誰も何も言わなかったけれど、考えてることは分かる。あたしたちにマナーなんてない。そんなこと、ババアは教えてくれなかった。ババアはあたしたちに、愛されるやり方なんて与えてくれなかった。あたしたちは人生に愛なんていらないと証明している。証明しつづける。愛の空白を愛ではないもので埋めようとする行為は、どんな行為よりもタフだ。あたしたちは誰よりもタフな「ハイスペックシスターズ」。愛ではないアイデアで愛であるべきものを解決するヒロインだ。もちろん、愛するやり方もしらない。ババアを見送るためのただしいやり方も。きっとただしくないやり方であたしたちはババアとさよならをする。すくなくとも、愛ではないアイデアで。

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