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 新幹線のグリーン車で仮眠をとっているうち、目的の駅にはあっという間に着いたような感覚だった。時間は十時過ぎ。なんだかんだで四時間ぐらい眠っていたらしい。駅の周りの風景をうかがうかぎり、西日本の端にあるその駅はとんでもない田舎だった。ユダまではこの駅からさらに在来線に揺られる必要があるらしい。この在来線は単線で、各駅停車で、窓の向こうには頭わるいぐらい緑色に萌え立つ水稲を眺めながらごとごと進む。クーラーもろくに効いておらず、あたしはハンドバックからハンカチを取り出し、手首が痛くなるぐらい煽るはめになった。

 なによりもムカついたのは、車内であたしがものすごく注目されていたことだ。あたしは確かに美人だしそれなりに名の知られた女優ではあるが、サングラスで顔は隠しているし、東京では注目されることも声をかけられることもない。それがこの田舎の電車では、わずかに席を占める乗客みんなからの視線を浴びているような気がする。いかにも農家らしい粗野な白タオルを首元に巻いたおじいさんからの目、塾に向かっているらしき芋臭いセーラー服を着た女子高生からの目、夏休みを持て余してそうな真っ黒に日焼けした短パン少年からの目、目、目。そのどれも羨望の色合いを帯びていることは分かるけれど、レスペクトはそれなりの地位にある人間にもらえるから意味があるのであって、こんな田舎町の、無料販売所に並ぶ形のわるい野菜みたいな人間に注目されたからといって、なんの価値もない。

 あたしはいつもそう思っている。女優は仕事だから、大衆は大事なだいじなお客さんで、言葉を選ばずにいうと金ヅルだ。でもわたしは、そのお客さんに向かって演技をしたことは、少なくともデビューしたあとは一度もない。顔のない大衆に向かって演技することは、なんのリアリティだとか体温だとかも与えてくれないのだと、あたしはいつからか経験を通して知った。

 だからあたしはいつも特定の誰かに向かって演技をする。あたしの人間としての価値を認めてくれる特定の誰かだ。それは決しておとこではない。おとこは女としての価値をはかる公器ではあっても、人間としての価値を与えてくれるものではないから。それはときに智子であり、恵子であり、また特定の誰かではないが確かな存在、いわば抽象的具象とでもいえるものだった。彼女があたしの演技に生々しさを与えてくれて、あたしの存在に説得力を与えてくれて、それであたしは今ここにいる。彼女のイメージはいつどこにいても明確にある。だからいつどこにいてもあたしは女優だし、いつどこにいても彼女は分かる。今だってそうだ。この車内に彼女を見つけられなかったあたしは、生々しさと説得力を失わないため、しばし距離を取ろうと立ち上がった瞬間だった。


「あれ、やっぱ美子じゃん」

 耳に覚えのある声があたしにかけられた。振り向くと、連結の扉を開けて彼女が入ってくるのが分かった。

「あいかわらずすごく目立ってるなあ。まわり、人が近づいてないじゃん。オーラ持ってるよね。隣の車両にいてもすぐ分かった」

 彼女は言った。馴染みのある彼女の姿を見つけて、あたしはほっとする。彼女たちのなかで誰よりも宿している「智」も覚えているとおりだ。知らないうちに、知らない土地に足を踏み入れたあたしは、思ったより緊張していたのかもしれない。身体からするすると力が抜けていくのが分かる。

「いやいや、智子もたいがいでしょ。あんたも相当目立ってるよ!」

 宛てのなかった怒りもかんたんに霧消して、あたしは智子の背中を叩く。一歳下の妹である智子は、あたしよりも背が高い。ほそい身体にパンツスーツが似合っている。硬質的な銀縁眼鏡に、化粧をしてなくても透き通るような肌。昔から変わらないショートカット。あいかわらず、名前のとおり、「智」が服を着て歩いてるようだなあ、と存在感のある姿に苦笑する。ちなみに眼鏡は度が入ってないいわゆる伊達眼鏡で、視力は三姉妹で一番よい。感情がたかぶるとすぐ眼鏡をさわるので、わかりやすいし、「眼鏡が本体ちゃうか」と恵子がよく茶化していた。

「美子に会えて助かったわ。恵子ちゃんから病院の住所だけ送られてきたけど、ユダとか聴いたことないし知らんし全く道が分からんもん。日本自体もうずいぶん来てないしさ。どうしようかと思ってた」

 智子は淡々としゃべる。あたしの知るかぎり一番知性的な人間である智子は、あたしの知るなかで一番話すときに感情が含まれない。会話中、ときどき何かを思索するように沈黙を挟むため、ロボットみたいな話し方にも聴こえる。女性にしては声が低いからか、その沈黙はとりわけ重い。でもあたしはその沈黙が、彼女の真摯さを表しているようで好きだった。その知性のわりにひどい方向音痴であるのも昔から変わらないみたいで、そこもあたしは好きだったから、ますます安心した。

「智子、インドネシアにいたんじゃなかったの? ババアの葬式に間に合わないかと思ってた」

 脇に置いていたハンドバックを避けてあげると、智子はそこに座り、足を組んだ。すらっとした足がパンツスーツだとますます長く見える。

「インドネシアじゃなくて、マレーシアだし。確かにクアラルンプールにはいたけど、春の異動で、今は台北にいるよ。だから福岡空港経由で簡単に帰ってこれたわ。格安航空エルシーシーのエコノミーはやっぱキツいな。ていうか台北に越したって美子にメールしたじゃんか。美子、あいかわらず話聴いてないな」

 智子は昔から照れ屋の気があるため、言葉にこそ毒気があるけれど、バカにしているような口調だったことはない。小中高と校内どころか府内トップの成績で走り続けてきたにも関わらず、誰かを馬鹿にしたことは一度もなかったし、自分の知性を誇ったところも見たことがない。むしろ「わたしには知らないことがたくさんあるから」が口癖の、謙虚な子だった。無知の知ならぬ、無智の智、といったところか。

「台北? あいかわらずパソコンの開発してるの?」

 あたしが尋ねると、智子はおおきくあくびをした。

「……パソコンというより、CPUだけどな」

 智子はぽつりといい、それからこてっと首をあたしの肩にもたげた。

「……久々に美子に会ったら安心したわ。ちょっと寝ててもいい?」

 あたしは智子の頭をよしよしと撫でてあげる。

「いいよ、長旅で疲れてるでしょ。ユダに着いたら起こしてあげるから、ちょっと寝てなさい」

 そう伝えると、智子の左手があたしの右手をゆるく握った。

「……美子、あいかわらずいい声だね」

 その言葉を最後に、智子の口からはさやかな寝息がこぼれはじめた。


 智子を寝かしつけていると、昔のことを思い出した。あの頃、智子はいつも何かに追い詰められていて、その何かを与えていたのは、間違いなくババアだった。どれだけ立派な成績表とか模試の結果を持って帰っても、ババアは智子を褒めたことが一度もなかった。京大模試で一位を取っても、東大模試で一位を取ってすらも、ババアは興味がなさそうに必ずこう嘆くのだ。「この程度で仕方がない、井の中の蛙やね。私の若い時はもっと……」。プライドの高い智子は認めないだろうけど、彼女がケンブリッジ大学を目指した理由のひとつは、ババアに認められたかったからじゃないだろうか。あたしにも、そして恵子にもたぶん同じところはあると思うけど、その気持ちは智子がいちばん強かったと思う。智子は三人のなかで誰よりもマイペースで、奔放だったから、誰よりもババアといるとき息苦しそうだった。

 あの頃、智子はよく泣いた。ババアに聴かせたかったのかもしれない、声を大きくあげてのギャン泣きだった。あたしは智子を和室のいちばん端に寝かせ、寝つくまで歌を聴かせてあげるのが役目だった。恵子はそのとき部屋の片隅で小説を書いていた。「うるさくしてごめんね」と智子が涙ながらに謝ると、恵子はわらって「おもろいからええよ、小説のネタなるし」と独特の言い回しで智子を慰めるのだった。


 京都の端の一軒家の、あの四畳半の部屋で、あたしたち三姉妹は暮らしていた。あたしはよく怒ったし、智子はよく泣いたし、恵子はよく笑った。その全てがババアに反抗するためのやり方だったように思うが、結局誰もほんとうの意味でババアをこらしめることはできなかった。つまり、誰もババアに褒めてもらえることはなかった。そして誰も褒めないままババアは死んだ。

 今日、ババアの前で、久々に三姉妹が集まることになる。たぶん葬儀をして見送ることになるだろう。でもそのためのただしい心の持ちようを誰も分かっていないように思う。だってたぶんみんな、ババアを殺したいと思っていたから。


 「神様の葬式」という、恵子が初めて書いた戯曲にして、賞をとってデビューした小説のことを思い出す。小説版では、戯曲を演じる少女たちの姿が溌剌と描かれていた。恵子が書くのはたいてい三人称視点の私小説で、その小説の主人公はあたしだった。当時は気づかなかったけど、あの戯曲はババアを看取ることを予期していたのではなかったか。でもあたしは今となっては戯曲「神様の葬式」のストーリーをほとんど覚えていない。覚えているのは「最後、ヤスさんが燃え尽きる」それだけだ。ヤスさんとあたしがセックスをするのは、作品には書かれていない後日談。そして後日談というのはたいていアナザーすぎて、作品の本来あるべきエンディングを汚すものだと知っている。

 なんであのとき、あたしはセックスをしちゃったんだろう? その理由が分からないから、あたしは今もすべてのセックスにおいて、その理由が分からない。人生の意味も。後悔? ああそうだよ、あたしは後悔してばっかりだ。智子だって、恵子だって、そうだろう。

 もしも人生のいつかに戻れるならば、あのときの、「神様の葬式」の舞台に戻りたい、たぶんみんなそう思うんじゃないか。だってあの舞台が三人で協力して作った最後の作品で、それこそを何よりもババアに褒められたいと思っていたから。

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