第237話
ハンドミキサーが猛烈な勢いで生クリームを掻き混ぜていく。
先ほどまではとろりとした液体であったそれも、空気を抱き込みあっという間に立体的な構造を作り上げ、数分もかからずに私の知る『生クリーム』へと変化してしまった。
「もういいんじゃない?」
放っておけばいくらでも生クリームを泡立て続けそうだったので、カナリアの肩を叩いて制止する。
ほんのりと香る甘い乳製品の香りに、ごくりと誰かの喉が鳴った。
ボウルいっぱいに入っているふわふわとしたそれは正しく夢のような存在で、もうこれだけで舐めてしまいたいような気がする。
きっとスプーンいっぱいにすくって口の中に放り込めば、それだけで幸せになれることは間違いない。
四人の視線が交差した。
ここはリビング、キッチンから死角になっている。
スプーンだって机の上にある入れ物へ沢山入れられているし、きっとひとり一口食べたってこれだけの量だ、ばれやしないだろう。
『やるか』
そして全員の意思が一つになった。
.
.
.
ばれないように一人ティースプーン 一杯。
とはいえ皆一杯でも出来るだけたっぷり食べようという魂胆だろう、それぞれ思うがままの方法でこんもりとスプーンへ盛ろうと悪戦苦闘している。
なんて意地汚い奴らなんだ。
私は裏にクリームをへばり付けようと、スプーンを器へ擦り付けながら、呆れてため息を漏らした。
『いただきまーす』
それぞれ思うがままに掬い終わり、遂にその時が来た。
こんもりと盛られた乳白色のそれを、ゆっくりと口の中へ押し込み……
ん?
じゃりりとした奇妙な食感、しかし何より気になったのはもっと別の物で。
「――ねえこれ、砂糖足りな」
「甘っ!? 砂糖も融け残ってますし、貴女一体どれだけ砂糖入れたんですか!?」
「あはは! 昔食べたアメリカのお菓子並みだよこれ!」
「何言っている! 砂糖はケチらずたっぷり入れるべきだろう!」
口の中に広がる無味の、ねっとりとした物質。
鼻腔を擽るはずのミルクの甘ったるい香りすら、今の私にはわざとらしく感じてしまう。
思っていた物とはかけ離れた感覚。
気のせいじゃない。
繰り返し、繰り返し、何度も何度も口内を舌で拭っては『その味』を確かめんと味覚に集中するも、やはりだめ。
掌からすり落ちそうになってしまった金属を慌てて掴み、再びボウルの中へ差し込む。
「ちょっ、フォリっち!? アリアさんに怒られるよ!?」
「……っ、あぐっ!」
「お、おい貴様! ずるいぞ!」
カナリアが何か言いながら勝手にクリームを食べ始めたが、私にとってそんなことを気にする余裕はなかった。
ない。
ない。
皆が言う歯の融けそうな甘みも、乳脂肪の舌に張り付くようなコクも、スプーンの血にも似た鉄の味も、何一つ感じない。
味のしないガム? そんな生易しいものじゃない。
空気ですらまだ味があった、完全なる虚無だ。
ずん、と何かに引きずり込まれるような、足が恐ろしく重くて、胸が苦しくなるような感覚に苛まれる。
「ふ、ふふ……あは」
終わったと思った。
魔蝕なんて恐ろしい病気に知らず知らず蝕まれて、ママは恐ろしい存在に戻って、私自身化け物になって。
でもそれは幸せへ至るための苦境に過ぎない。
最後には友達の力で全て解決できて、カナリアとの出会いと共に真実は明らかになって、私の身体も完全に元に戻った。
そう思っていたのに。
「ど、どうしたんですか?」
笑い声をあげ、すぐぴったりと止まってしまった私へみんなの視線が突き刺さる。
全てが最後は上手く行くなんて、やっぱりそんな都合のいいことはない。
いや、むしろ生きているだけで私は幸せなのだろう。
目玉焼きが決して元の卵へは戻らないように、一度変異してしまった私の肉体はもう元の『人間』に戻ることは出来ないのだと、本能的に理解できてしまった。
「ひ……」
笑わないと。
ひとりでに零れた涙もそのままに、頬を無理やり吊り上げる。
今は幸せなパーティの準備中なんだ。
今はまだその時じゃない。いや、きっとそんな時なんて来てはいけない。
だからこれは
「久しぶりにちゃんとしたの食べたから、なんか安心しちゃって……あはは……」
ああ。
ぶつりと千切れた頬の肉から何か生暖かいものが零れるが、やはりそこに何かを感じることはない。
先ほど舐めたスプーン同様の錆臭い香りだけが鼻奥へ押し寄せ、しかしそれ以外の感覚に意識が逸らすことも出来ず、嗅覚へ集中してしまい、妙な陶酔感に思考が揺れた。
「フォリっちびっくりさせんなよー!」
「ごめんごめん。カナリア、冷蔵庫にもう一個パックあるから持ってきて。砂糖入れないで泡立ててこれと合わせよ」
「む……何故私が……」
こんなになるならもっと美味しいもの食べておけばよかった。
そうすればこんなに何も感じない舌へ怒りも、悲しみも感じずに済んだのかもしれないのに。
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