第229話
ぶちりと噛み千切られた琉希の右腕。
連続する極限状態での戦闘は絶え間ない傷を肉体に刻み込み、痛覚は溢れるほど湧き出した脳内物質に誤魔化されている。
漠然とした痛み、しかしそこに腕を失ったという現実感は存在しなかった。
ただ怪物の口元で、ぶらり、ぶらりと力もなく揺れる己の腕を眺めるだけ。
遂に正気すらも狂気に染まったのか? いや、違う。
『あ……ごめン、上手く調整出来ナくて……腕まで切っちゃっタ……』
本気でその意図はなかったのだろう。
心底悪そうな声音で語るフォリアは、噛み千切った琉希の腕をそっと地面へ置くと、その前脚でみちみちと体重をかけ始めた。
べきり。
作るのに多大な苦労を掛けた深紅の腕輪が、笑ってしまうほど軽い音を立てて砕け散る。
「なん……で……?」
琉希が切り口を抑え回復魔法をかけながら、混乱する思考の中絞り出せたのは僅か三文字ばかり。
あの腕輪さえあれば、あと一回だけでも『リアライズ』をすれば、きっと彼女を助けることが出来たのに。
意識を一度手放す前、フォリアも腕輪の力について多少は聞いていたのだから、自分が助かるため必死に守ることはあっても、こんな意志を持って破壊するなどあり得ない。
出血も収まり、無事な片手で『アイテムボックス』から予備かつ、本来己が今後使う予定であった腕輪を取り出すも、今度は巨大な尾を起用に振り回し琉希の手から弾き飛ばしてしまう。
腕輪が転がった先はやはりフォリア。
再び響く破砕音。
地面へ広がる深紅の欠片をフォリアは悲し気な瞳で眺め、声に後悔をにじませる。
『私が助けテ、なんて言ったかラ無理させちゃったンだよね。だから、ごめン』
「――! もしか……して……っ」
その言葉でフォリアの意図は全て琉希へ伝わった。
『……これ以上やったら、琉希も戻れナくなっちゃうよ。そんナの私はやだ、だからもウいい』
「やってみなきゃ……やってみなきゃ分からないじゃないですかっ!? あたしはまだまだいけると思いますよっ、だからっ」
食って掛かり足元へ進もうとする彼女を、フォリアはそっと翼で押し戻す。
たった数メートル、いつもならなんてことはない距離。
しかし疲労困憊状態の琉希にとってそれは驚くほど遠く、然したる力も込められていないであろうフォリアの翼すら、その体に押し返す力は残っていなかった。
『分かるンだ、なんというか……匂い? みたイなので、琉希はもウこれ以上耐えられナいって』
肉体の変容、それは決して容姿だけに限らない。
生物の生存を補助するために嗅覚や味覚がしたのならば、魔力を糧とする生命体へ変貌を遂げた彼女の感覚も、当然相応の移ろいを見せる。
既にフォリアの嗅覚は揮発性物質への反応から、魔力を鋭敏に嗅ぎ取る新たな器官としての変容を始めていた。
そしてその嗅覚が伝えている。
琉希の身体に限界まで詰め込まれた魔力は今にも決壊せんと渦巻いており、わずかにでも新たなものを注ぎ込んでしまえば瞬く間に全てが書き換わってしまうと。
時として動物の特性は、識者ですら説明がつかないほど鋭い察知能力を発揮するが、きっと彼女の嗅覚もその類だろう。
無数の記憶が暴走の果てに組み上げた怪物の肉体は、やはりどこまでも生物的であった。
『嬉しカった、ずっと不安だっタから。探索者ニなっテから仲良くしてくれてる人増えたケド、皆本当は私のコと嫌ってるんじゃナいかなって、鬱陶しく思われテないかなって。私空気読めなイみたいで、学校だと良ク虐められてたカラ……』
「違う……誰もそんなこと思ってない! そんなのあり得ないっ! 協会の
そこに剛力が含まれていないことにフォリアは、軽く目を細め悲し気な雰囲気を浮かべるも、すぐに再び頬を吊り上げた。
『私だってイヤだ!! 寂しくて……悲しクて……消えた私って……どうなっちゃうのカなってすごイ怖くって……っ、でもっ!』
小さな沈黙。
『それよりも、皆を殺しちゃうかもしれない方がずっと怖イ! 優シくしてくれタみんなを、皆の大事な人を、その大事な人を、誰かが悲しクなるような誰かを殺しちゃウ方が、ずっと、ズっと嫌だなって……!』
『――だから私を殺して、琉希だけにしか言えナいよ、こんなの』
「……っ! なんでっ!? こうならないようにっ、頑張ったのにっ、まだ、貴女に助けて貰ったお返しすら出来てないのにっ、なんで……!」
『ごめん、最期にこんなノ押し付けテ。早速友達失格かモ』
話し終えた彼女はそれ以上何かを言うつもりはないようで、そっと目を瞑るとその場に伏せた。
「理解できん……何故他人の貴様らが、家族ですらない相手にそこまで心を砕くのか」
頬に手を当て、心底不思議そうな表情を滲ませたカナリアが、俯き、座り込んだ琉希の元へ宙を浮かびやって来る。
しかし、琉希は彼女へ何かを言うことすら出来ず、ただ、食い縛った歯の隙間へとめどなく入り込んでくる、堪らなく苦い塩味を飲み込むので精いっぱいであった。
死にたくない、それはフォリアの願い。
だが同時に誰かを傷つけたくない、誰かへ手を掛けたくもない。それもまた、彼女の心の底からの願い。
生物としての本能と一人の人間としての理念がせめぎ、揺れ動き、悩んだ末の結論を、再び切り捨てることは琉希には出来なかった。
先ほどの諦めからくる選択ではない。
彼女の心の底からの願いは、切り捨ててはいけないものだから。
「やれ」
カナリアは虚空へ手を突っ込むと、すらりと巨大な深紅の剣を取り出し、ざくりと斜めに地面へ突き刺した。
全長おおよそ二メートルほど。
巨大な結晶から雑に削り出したかのように荒々しい凹凸、そしてその表面から作り出されるオパールのような極彩色の輝きを放っている。
もし、こんな場所ではなく、然るべき博物館等で目にしたのならきっと、誰もがその美しさに見惚れるだろう。
だが今の琉希にはその剣が、どこか退廃的で、吐き気を催すほど不気味な、絶望の具現に見えて仕方なかった。
「この……悪魔……」
なんて無様な姿だろう。
なんて愚かな姿だろう。
口だけ。
彼女は見知らぬ人々を何人も、何人も助けてきたというのに、自分は友人の命一つすら救えない。
手に握り締めた刃の柄は重く、恐ろしく冷たいもので……
駆けだした琉希に、真正面から受けると覚悟を決めたフォリアは、面を上げ、しかと動きを見据える。
そして薄く牙を剥き、ここを切れとばかりに首を天へ高く突き上げ……
「――ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああっ!」
だが、最初にフォリアが感じたのは小さく、温かな感覚であった。
琉希だ。
その首筋へ蓄えられた柔らかな毛へ、涙や汚れでどろどろになった顔をうずめている。
その手に刃は握られていない。
『琉……キ……?』
「……ごめんなさい。あたしにはっ、貴女を殺してのうのうと生きるなんて耐えられない……だからっ、それなら……いっそ……!」
走る途中、琉希が投げ捨てた深紅の剣がひとりでに宙を舞う。
輝く刃は凛、と天に延び、緩慢ながらしっかりと、己を操る少女の背中へ狙いを定めた。
「――これなら貴女も、きっと寂しくないですね」
.
.
.
「本当に理解し難い……私の知る友情とは全く違うじゃないか」
カナリアが呟く目線の先には、全身から
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