第175話
「後回しにするのはいつでもどれだけでも出来る、ただ先延ばしにした結果なにもできないってことも当然起こる。それなら機会があったらぶつかっていった方が、きっと後悔は少ないんじゃねえかな」
後悔の少ない選択。
言葉で表せば単純なことだが、それをできるのはきっと
「――筋肉は強いからそんなこと言えるんだよ、そんなの普通は無理」
「かもな。ま、人生何があるか分からん、やるならなるべく早めにやっとけ」
私宛に買ってきたといったおにぎりの半分ほどを食いつくした筋肉。
彼はフィルムをわしゃわしゃと集めて『アイテムボックス』へ放り込むと、私の頭を一撫でして立ち上がり大きくあくびをした。
音もなく入口へと足を運ぶその背中に投げかけるのは、あまりに早過ぎる出会いの終わりについて。
「もう行くの……?」
「ああ、もう少しで掴めそうなんだ。今度会う時までにはお母さんと仲直りしとけよ?」
黒い小さな手帳を軽く揺らすと、筋肉は振り返ることなく部屋を出て行ってしまった。
彼なりの発破はどこまでいっても雑なところが見え隠れしていて、はっきり言ってあまりあてにならない。
一体何歳なのかは知らないが、少なくとも私の倍は生きてきた筋肉。
その間に乗り越えてきたもの、背負ってきたものは当然比べ物にならない量で、それがきっと彼の強さの一端なのだろう。
まだアリアと顔を合わせて話すことは出来そうにない。
何を言えばいいのだろう、何をすればいいのだろう。
長い間をかけて固まった淀みを流すには、もう少しだけ時間が必要だった。
「三個か……もう少し欲しいな」
軽快な音を立てて剥かれたフィルムから漂う磯の香り。
パリッと乾いた濃緑の海苔と白のご飯が作り出すコントラスト、シンプルながらも、暫く食事をとっていなかった私には猛烈に食欲を掻き立てるものであった。
「……うわ、梅干しじゃん……梅干し嫌いなんだけど……」
まあ、たまにはいいか。
◇
いつの間にか傍らに立っていた園崎さん。
彼女が机の端に置いたのはまだ温かな夕食、冷めないようにぴっちりとラップがされている。
「はい夕食、あまり根詰め過ぎないようにね」
「分かってるって」
机の横に並んでいるこの本は協会の規則や緊急時の対応、その他もろもろダンジョンと戦闘に関わるもの。
雑務は園崎さんへ、そして戦闘に関しては私が筋肉の代わりに受ける。
単純な役割分担であるが、その手のものが酷く苦手な私にとって本当にありがたいものだ。
今の私は人生で最も本の類を読んでいるかもしれない。
以前、そして今回追加で一週間かけ、漸く完璧に覚えたそれらを積み重ねていく。
結局ダンジョンの崩壊という物を対処するためには、生半可な複数の探索者を投入するより、高レベル高機動の一人を投入して収束を狙う方が良い……これが現状の基本的な作戦であった。
つまりどういうことかと言うと、一人で突撃してサクッと終わらせて帰る、ということ。
その後の書類に関しては、モンスターの特徴などの報告こそ私が書く必要があるが、それ以外は全部園崎さんに放り投げれば済むのでとても楽だ。
なんか園崎さんに雑務投げすぎて悪い気もするが、彼女は数十センチある紙の山を数分で処理してしまえるので多分大丈夫。
この前能力を見せてくれた時みたいに紙を舞わせ、シャカシャカあっという間に書き込んで終わらせてしまうのだ。
それどうやってるのと聞いたがはぐらかされたので、多分自分でも詳しく説明できないのだろう。
謎の焼き魚を突く私へ、園崎さんが眉を顰める。
「もう一週間もここに泊まってるみたいだけど……」
「あー……うん」
そう、あれから一週間たってもまだ私は覚悟を決めれずにいた。
流石に一週間も経てば多少は落ち着くというもので、もう悲しみに涙を流したりはしない……が、しかし前に踏み出せるかと言えば別だ。
むしろ日に日に踏み出す足は重くなっていって、今日はいいかな、そんな気分じゃない、まあ今日もいいでしょと後ろ向きな気持ちにすらなっていった。
きっとアリアに会った時、私は最低な言葉を吐き出す。
抑えようのない感情の噴出、耐えがたい激情の奔流に自分自身飲み込まれてしまう、そう確信できる何かがお腹の奥底で渦巻いている。
そしてそんな私へアリアは文句を言わず、しかしあの悲し気な瞳で見るのだろう。
私を捨てたのはママ、でも私を捨てたママは今のアリアじゃない。
偶然の再会から一緒に暮らすようになった優しいアリアは多分、私がずっと求めていた遠い記憶の中にあるママの姿。
でももし記憶を思い出してしまったら、優しいアリアは私を捨てたママになってしまう。
でもそれだけじゃない。
全て彼女のせいにして、捨てられたのだからと恨みそこで足踏みしている私も、いつか前に踏み出さないといけない日が来る。
七年間先延ばしにしてきたことを、どうして私を捨てて行ってしまったのかを聞かないといけない。
聞かないと、私は永遠に前へ進めない。
結局答えはもう出ている、だがその一歩を踏み出す勇気が私にはなかった。
「あ……ごちそうさま」
硬質な音を立て箸とお椀がぶつかり、手に持つ茶碗の軽さに驚く。
上の空で食べていたごはんはいつの間にか空っぽになっていた。
嫌なことを考えていても、食欲だけはいっちょ前にあるのだから自分の食い意地に呆れる。
食事は好きだ、特に甘いものを食べていると嫌なことを忘れられる……と思っていたのに、本当に大切なことは、食べながらでも考えてしまうというのは結構大きな発見だ。
「はいお粗末様、じゃあ皿は片付けちゃうから歯磨いて寝なさいよね」
お盆をひょいと持ち上げ園崎さんが去っていく。
彼女はここ一週間毎日私へ食事を作り運んでくれる。
夜はこうやって私がご飯を食べたのを確信し、洗い物と共に仕事が終わったと帰路に就く。
頼んでもいないのに本当に有難いことだ、いつかこのお礼は必ずしたい。
ふと、よく磨かれたフローリングには似つかわしくない、こじゃれたハンカチが落ちていることに気付く。
私はこういったものを持っていないし、当然筋肉がこういうのを持っているわけないだろう。
持っていたら気持ち悪い。馬鹿にはしないけどちょっと距離とっちゃうかもしれない。
となれば所有者たりえる人は一人、つい今しがたこの部屋を去ったばかりの園崎さんだろう。
「ま、この程度じゃ大したことないけど」
ついでにコンビニに寄って彼女に甘いものでも奢ろう。
ハンカチを軽く折りたたんでポケットへ仕舞い、私は色々お世話になっている女性の後を追った。
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