第156話
良い香りが横から漂ってくる。
「日本でもサンマルツァーノの缶詰が売っていてよかったわ! やっぱりスープにはこれじゃないと!」
「サンマ……?」
「ああ、トマトの品種よ」
サンマはトマト……!?
どういうことなんだ、哲学か? 海外の哲学は進んでるなぁ。
新たなる言語の壁に悩む私は放っておいて、明るい声音で鍋を掻き混ぜるアリアさん。
日本の台所に彼女の金髪は驚くほど似合っていなくて、逆にこれが正しい姿なのかもしれないと、つい深く考え込んでしまいそうになった。
ここ数日話していて思ったのだが、彼女は時々謎の単語を発する。
意味は分からないがどこかで聞いたことのある……ということすらなく、本当に謎なので反応に困るのだが、もしかして出身地の方の言葉なのだろうか?
シンプルな真っ白の器へ注がれる、真っ赤で野菜たっぷりのスープ。
トースターでカリカリに焼かれたバゲットは香ばしい香りを漂わせ、最後に氷でよく冷やされた紅茶が机に並べられれば、ちょっと早いが昼食の完成だ。
これはやばい、ちょっとヤバい。
えもいえぬかぐわしい匂いに語彙力を失い、つい鼻を近づけ香りをかいでしまう。
思わずお盆へ手をかけ、さあ早く食べようと運ぶ私へ彼女の手がたしなめる。
「まあまあ、仕上げに、ね?」
しゃりしゃりと大根おろし器によって砕かれていく、薄い黄色をした四角い塊。
表紙に掛かれている名前は……
「チーズ?」
「ペコリーノよ、羊のミルクで作ったチーズなの」
そういえばさっき買っていたな。
値段が高いと躊躇していたのを、私が気にしなくていいからと適当に買い物かごへ突っ込んだものだ。
まあチーズなんてそんな一回でバカスカ使うものでもないし、ちょっといいモノを買うくらい大したことはない。
ツンツンと尖ったフォルムをしていたチーズが、熱によって見る間にしんなり溶けていく。
羊から作ったというチーズが、湯気に独特の甘い香りを付け足した。
「さ、食べましょ? とはいってもあまり重いものじゃないから、貴女には物足りないかもしれないけど……」
「大丈夫、足りなかったらその分食べればいい」
「そうね! たっぷり作ったから沢山お代わりしてほしいわ!」
彼女に促されるまま早速一口、熱々のトマトスープを口へ流し込む。
「あ……」
何だろう、この味。
思い出せるようで、
なんだか分からない感情が、つん、と鼻を刺した。
「舌に合わなかったかしら? ごめんなさい、記憶にある味付けだからもしかしたら、日本風のそれとはちょっと違うかもしれないわ」
一口食べただけでうつむき止まった私を心配するように、アリアさんが私の器へ手を添える。
「いや……全然そんなことない。慣れないんだけどなんか懐かしいというか」
素直な感想を告げ、奪われてたまるかと一口、また一口。
バゲットを浸して頬張ると小麦の豊かな香りや香ばしさがスープに加わり、また一味違った顔をのぞかせる。
そういえば他人に手料理を振舞ってもらうなんて久しぶりかもしれない。
いつからだろう、私に向けて作られた料理を食べなくなったのは。
いつからだろう、無差別な大衆向けの、纏めて作られた物ばかりを口にするようになったのは。
こんなスープ、私がずっと小さい頃に食べた気がする。
ママもパパもいて、普通の生活が普通で、いつも一緒にご飯を食べて。
擦り切れた遠い記憶の中にだけある『美味しいスープ』、それが今私の前にあった。
外食の舌が喜ぶような濃い味付けとはまた違う、じんわりと野菜のうまみを感じるトマトスープと、軽く焼かれたかりかりふわふわのバゲット。
最後に振りかけられたチーズのおかげで、さっぱりとした野菜のスープがくっきりと纏り、確かな食べ応えが生まれていた。
なんだか手が止まらない。
この気持ちをどう例えればいいのか分からない、しみじみとする味といえばいいのだろうか。
いや、もっと単純か。
ああ、美味しいなぁ。
「いやいや、そこまで不味いなら無理しないでいいわ! 本当にごめんなさい、食事は出前でも頼みましょ!?」
頬を拭うアリアさんの指、小さな雫が机に垂れた。
「あ、あれ? 何で私……」
泣いてるんだろ。
「違う、違うの、美味しいの、に、止まらなくて……ごめっ……ん……」
自分でも驚くほど熱い塊が頬を伝う。
気付けば後は早くて、拭えば拭うほど溢れ出す大粒の涙。
私の意志に全く従わない体、目や鼻は堪えられないほどの熱を帯び、喉が震えて声すらまともに出せない。
あれ? あれ? 私どうしちゃったんだ、ただスープを食べているだけじゃん。
言わないと、普通に振舞わないと、変に思われちゃう。
このままじゃ変な奴だって、嫌われちゃう。
「……っ! うあ……なんでぇ……っ……」
噛み締めた歯の隙間から零れた嗚咽。熱い奔流が次から次へ吹き出し、留まる暇すらなかった。
名前すら分からない不気味な感情を飲み込めない、ただ壊れたバケツみたいに溢れ続けるナニカを持て余し、枯れはてるのを待ち呆然と座り込む。
何も考えられなくなった私の後ろへ、いつの間にかアリアさんが回り込んでそっとしゃがむ。
病み上がりな彼女の頼りなく、しかし温かな体が私を包み込み、鼓動がはっきりと伝わって来た。
「大丈夫、もう大丈夫だから、私が一緒にいてあげるわ」
「……っ、うん……」
憐れんだのか、それともただの好意なのか、甘く囁かれた彼女の言葉に頷いてしまう。
私の方がちゃんとしていないといけないのに。
誰かに甘えてなんていられないのに。
今日だけ、今だけはこのままでいたいと思ってしまった。
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