第154話
一週間。
一度目を覚ました彼女は、まるで今まで足りなかった栄養素すべてを吸収するように、見る間に体を回復させてしまった。
ガリガリであった腕は細いながらも多少の筋肉や脂肪に覆われ、致命的なまでの病人から結構窶れてる人くらいにまで戻っている。
他人からしたら病人じゃないかと思うかもしれないが、最初の姿を知っている私からすれば、これはもう本当に驚異的な復活力だ。
人間ってこんなにすぐ体治るもんなんだ……最初に会った時は塩掛けられたナメクジみたいにしわっしわだったのに……
「えっと、じゃあ一緒に帰る、りますか?」
「そ、そうね。よろしくお願いします」
一週間、もちろん私も何もしなかったわけではない。
家を借りるべきと至極当然の結論へたどり着いたのち、筋肉や園崎姉弟の力を借りつつも書類やモノをそろえ、どうにか協会近くのアパートを借りることに成功した。
後は食器や雑貨、冷蔵庫などの家電など、ホテルにあったようなものを取りあえずそろえたのだが、なんだかんだで結構な費用と手間になり、正直今もかなり疲れている。
ちなみに借りた部屋の間取りは2LDK、『LDK』の意味もここで始めて知った。
あと人生で初めて印鑑を作ってしまった、結構高いものだ。
何をするにも印鑑印鑑、なぜこんな不便なものを人々は重宝するのだろう、サインでよくない?
100円の印鑑買って使おうとしたら怒られたし。
ともかく結構な苦労をしつつ私は部屋を整えた。
ホテルに帰りたい、何でもしてくれるホテルに戻りたい。
「その、敬語じゃなくていいわ。貴女もそっちの方が話しやすいでしょ?」
「あ、うん」
今はもう懐かしき理想郷に飛んでいた意識を、横のアリアさんが引っ張り戻す。
いかんいかん。
私はともかく、ちょっとふっくらした死にかけのウナギみたいな状態のアリアさんがいる以上、彼女の記憶が戻るか一人でやっていけるようになるまでは私が面倒を見なければ。
夏の日差しに立ち眩みを起こしたのか、空を見上げた瞬間ふらりと彼女の身体が傾く。
「おっとっと」
女性としては身長の高い彼女。
しかしまだ体が上手く動かないようで軽い中腰になっているのが幸いで、私でも横で支えることが出来る。
「あ……ごめんなさい」
「大丈夫、体調悪いなら体重こっちにかけて。私こう見えても力あるから」
二人で力を合わせ、黒光りするアスファルトの上を、ゆっくり、ゆっくり歩いていく。
目指すは遠く、借りたばかりの小さなアパート。
八月もそろそろ終わる頃、私は久しぶりに誰かと暮らすことになった。
◇
買ったばかりの机の上、まだシールすら剥がれていないカップが並ぶ。
注がれているものは白と黒の対比。彼女の好みがわからなかったので、とりあえず売っているインスタントコーヒーを適当に作った。
私は勿論コーヒーなんて飲まないので牛乳だ。
ちびちびと啜っては目くばせ、視線が交わったと思いきや外される。
無言のやり取りを経て最初に切り出したのは私。
「その、じゃあまず自己紹介から。私結城フォリア、探索者してる」
「あら……結城……?」
「どうしたの?」
「い、いえ。貴女一人暮らしなの? 家族の方は?」
まあそこ聞いてくるよね。
明らかに入居したての家、そして二人分しかない椅子や器具。
違和感しかないだろう。
正直思い出したくないことばかりだ、ママのことは。
覚えているのはいつも苛立ち、何かを叫んでは家から飛び出し、暫く帰ってこない日々。
今は亡きおばあちゃんから貰った修学旅行費も、彼女に見つかって奪われてしまった。
何に使ったのかは知らないが、まあろくでもないことに消えたのだろう。
「今はどっちもどこにいるか知らない、だから気にしないでいい」
「あ……ごめんなさい」
「別に、もう結構前の話だし」
気まずい沈黙。
いきなり聞かれたせいで、つい本音のところが少しだけ出てしまった。
「んんっ、えー、私はアリア・アンジェリコよ。どうやら結婚して日本名もあるみたいだけれど、正直なところ全く覚えていないから元の名前ね」
アリア・アンジェリコ。
聞きなれない名前がいよいよもって、本当に彼女は外国の人なんだという実感がともる。
彼女は出会った当初の印象とは異なり、とても穏やかに笑う人だった。
もし記憶が戻ればまた性格が変わってしまうのかもしれないけれど、少なくとも今の彼女となら普通に暮らしていける気がする。
「どれくらいのこと覚えてるの?」
「子供の頃のはよく覚えているのよ。ただ最近になればなるほど穴あきが多くなって、ここ六年のことは真っ白って感じだわ」
ここ六年、か。
彼女の見た目からして結構若そうだし、六年間の記憶は相当大きな幅になりそうだが。
「はぇ、じゃあ日本に来てからのことは……」
「まあ、ほとんど覚えてないってことになるわね。言葉だけはしっかり覚えていられたみたいで助かったわ、これを不幸中の災害って日本では言うのよね!」
「うん」
しかしそうか、そこまで記憶が無くなっているのなら、彼女のそれを辿って知り合いを探すのも難しいな。
無理に記憶を思い出させようとしても、彼女に苦痛を味合わせることとなりそうだし、今はあれこれ手を打つより普通の生活を送るしかないだろう。
牛乳を一気に飲み干し机にカップを置くと、なみなみと注がれた黒い液体がちゃぽんと揺れた。
あれ、アリアさんコーヒー全然飲んでない。
「ところでせっかく淹れてもらって悪いのだけれど、私苦いもの苦手なの。紅茶かミルクと砂糖ってあるかしら?」
「わかった、ホットミルク入れてくるから待ってて」
コーヒーが嫌いなんて分かっている人じゃないか、ますます仲良く暮らせそうだ。
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