破綻
◇
六畳一間の見知らぬ和室、障子越しに見える夕方の色。
天井には神棚、壁には「安西豆腐」と書かれた掛け軸が掛けられている。
そのような場所で眠った記憶どころか、行った記憶すらもない。
誘拐されたかと思ったが、特に拘束がされたわけでもなく、
財布どころかスマートフォンもしっかりとポケットに入ったままだ。
「おはよう、刹那くん」
「だ、誰ですかアナタは……?」
気づくと、刹那の前には男が立っていた。
障子が僅かに開いている。
だがいつ、入ったのか、そしてどうして今まで気づけなかったのか。
障子の隙間から差し込む夕日、ぱぁぷぅというラッパの音。そして、カレーの匂い。
「私の名前は内田、君達の言葉で言うならば神の一柱だよ」
「神……?」
神と名乗った内田という男に対し、
刹那は神々しさのようなものを微塵も感じはしなかった。
掛け軸と同じ筆致で「安西豆腐」と書かれた白い前掛け、
よく日に灼けた褐色の肌、短く刈った髪に、無精髭。
少々背が高いが、それだって常人の範疇である。
引退したスポーツマン――そのような人間にしか見えない。
「信じていないね、でも大丈夫……すぐに信じられるようになる」
何かを言おうとするよりも早く、ずぶと内田の指が刹那の額に潜り込んだ。
指が刃物で出来ているというわけではない、普通の血と肉と骨の指である。
それが、一切の抵抗を無視して、刹那の脳へと侵入したのだ。
「あば……ば……」
「今から君に特殊な能力を与えて……異世界へと転移してもらう。
私は君に何かをしろ、とは言わない。
もしも戻れるものならば、この能力を持ったまま、
元の世界へ帰ってもらっても構わない。
あと二人、君のような異世界転移者がいる。彼らを探してもいいだろう」
脳に異物が侵入している。
だが、刹那には痛みもなければ異物感もなかった。
最初からそうであったものが、元の形に戻るような心持ちですらあった。
記憶を思い出すように、刹那は自分の能力に気づいていく。
「な、なんだこれ……すごい、すごい、すごいぞ……」
「
君達には期待しているよ」
◇
「僕の名は叉田隈 刹那……多分、君と同じ日本から来て、
会ったばかりでなんだけれど、もう絶対に君とは仲良くなれないね。
なんだいその衣装は……本当になんなんだ……」
刹那はさほど長くもない自身の赤髪をくるくると弄んでいた。
「き」
「もう喋らないでくれよ、君が喋った瞬間……この女の子を殺すからね。
だからコウメ太夫のまま、じっとしていてくれよ」
「…………」
完全に勝利したはずであった。
かと思えば、超速でハルスラを攫われ、彼女を足蹴にされている。
「僕の異能は、速く動くことだ……思考速度も含めてね。
何が君の異能のトリガーになっているのかはわからないから、
僕は君……あと、空から降ってきた女の子にも喋って欲しくないし、
今すぐ自殺して欲しい」
「……ぐあああああッ!!」
目に追えぬ速さであった。
おそらく刹那は何かをしたのであろう。
ただ誰もその過程は見えなかった、
ハルスラの甲冑が足裏の形に凹んでいる――その結果だけがわかった。
「足を早く動かせば、金属だって凹ませることが出来るし……
当然、それ以上のことも出来るよ」
「……チタ、構わない……こいつらを殺せ……」
「余計なことを言わないでほしいな」
「ああああああッッ…………ッ」
何度も何度も、超速で刹那がハルスラを踏みつけた。
最初にハルスラは悲鳴を上げ、そして今は声を抑えている。
痛みに声を上げれば、智太が躊躇する――そう判断したのだろう。
「…………頼む、智太」
微かな、本当に微かな声で、ハルスラはもう一度そう言った。
絶対に助けてやる――智太はそう決意した。
だが、どうすればいい。
智太は思考する――リョウイーレとのテレパシーを行うために。
(リョウイーレ……あいつはなんなんだ)
(邪神によって、生きたまま廿八世界から連れてこられた人間だろう)
(……お前らも邪神の類だろ)
(奴はどうやら超速で動く邪悪な能力を与えられているようだな)
(……即死能力よりよっぽどまともだろ)
(だが問題ない、智太の即死能力は通用する。
同じ世界の、しかも同じ国の出身なら問題はないだろう、頑張れ智太)
(……無茶振りを!)
智太がリョウイーレとのテレパシーで確認出来たことと言えば、
死の眷属が邪神より最悪な存在であったことぐらいであった。
当然、智太はそんなことはわかりきっている。
何なら許されるならば、今からでも邪神の方に乗り換えたいぐらいである。
(何か……何か無いか……何かしらの手段は?
相手はコウメ太夫を知っている……
だったら、笑うためのハードル自体は低いはずだ……
せめて、相手に絶対と笑ってはいけないと思わせられれば……)
だが、今はこの邪悪な即死能力を活用する他にない。
智太は思考する、自分という知識と知恵の海に釣り糸を垂らし、
何かしらの殺傷手段を引き出す他にない。
(なんでコウメ太夫のコスプレなんだ……?わけがわからない……
頼むから速く自殺してくれ……近づきたくない……
クソ……部下共は心が折れて、何を言っても動かないだろうし……
アイツら……まだ来ないのか……)
一方の刹那も超速の思考で困惑を続けていた。
智太に接近し、心臓を破壊するのは一瞬のことである。
しかし、相手の能力がわからない。
すぐに死ぬ天使を召喚する能力なのか、何かしらの条件で相手を殺す能力なのか、
幻覚を見せる能力なのか、非常に歪んだ現実改変能力なのか。
思考時間に猶予があるからこそ、刹那は一応の安全策を選んだ。
ただし、もしも何かをされたならば――覚悟を決めて行くしかない。
「……ガフォッフォ」
智太が咳を一つした。
ただの、何の変哲もない咳である。
「……喋るなって言ったよね」
そう言いながらも、刹那は動かない。動きたくない。
弱い相手ならいくらでも奪い、嬲り、殺すことが出来る。
しかし、絶対の能力を持つからこそ、
自分以上かもしれない能力の持ち主に対しては十全の用心を行う。
本当に動かなければならない状況以外は動きたくない。
だからこそ、刹那はその咳の意味を理解してしまった。
――自動翻訳機能が働いているんだよ、
――廿八世界の固有名詞はその意味を伝えてくれるんだ。
――いや、幻聴やないよ。ザイニーレいうんや、死の女神の眷属!
――今、直で頭の中に語りかけとんのよ
サンタクロースに対し翻訳能力が働いた際、
智太の放った言葉以上に相手に意味が伝わっていた。伝わりすぎていた。
どういう仕組みで働いているのか、
英語なら、アラビア語なら、古代スワヒリ語なら、どうなる。
本質は言葉を訳すことではなく、
テレパシーのように相手に意味を伝えることではないのか。
仮定に仮定を重ねて、智太は咳を放つ。
その咳は、今考えた智太語で「俺の能力は笑った相手を殺す能力」を意味する。
「……笑ったら死ぬ?」
刹那は今、はっきりとそれを口にした。
そして伝わった言葉の意味を超高速で咀嚼する。
(笑った相手を殺す能力……ならば何の問題もない、
ネタを披露する時間すら与えずに殺せる……僕ならば出来る!
チャンチャカのチャも言わせない!
大体、絶対に笑ってはいけない状況でコウメ太夫が出たところで笑うものか!
笑ったら死ぬ状況でコウメ太夫のチョイスだなんて……)
「ハハハッ……コウメ太夫で笑うわけが無いだろ……あっ」
笑いの一要因に緊張と緩和が上げられる。
状況が張り詰めているからこそ、気の緩みで人は笑ってしまう。
葬式で会議で説教で――人は笑ってはいけないと思うからこそ、
笑いに弱くなってしまう。
笑い飯でも、R藤本でも、霜降り明星でも、
絶対に笑ってはいけない状況ならば耐えられるかもしれない。
だが、絶対に笑ってはいけない状況でコウメ太夫を持ってこられれば、
もう、その落差だけで人間は笑うのだ。
刹那は笑い、死んだ。
だが、智太の表情は重い。
「……俺、とうとう人間を」
「殺っちまったなぁ」
「お前は黙って!」
リョウイーレの茶々に、智太が叫ぶ。
感情が無いとは言え、リョウイーレもまた倫理観は破滅している、
百人に聞けば、百人共に邪神は彼女であると言うだろう。
「ヒィィィィィィィィィィ!!!!!!」
ケルベロス達が悲鳴を上げる。
目の前で見せつけるように殺人を楽しんでいた邪悪存在が、
とうとう自分たちの首領にまで手をかけたのである、叫ばずにいられるわけがない。
「とうとう男を殺したな」
「ああ……新しい扉を開いたということになる」
「世界の女を全て殺し尽くした末に残る男、
男でも今から楽しもうという練習をしているんだよ」
「ヒィィィィィィィィィィ!!!!!!」
盗賊の三人もまた、絶望を超え新たな扉を開いた。
神の奇跡を解釈し、その意味合いを伝える智太神の布教者となったのである。
「待ってもらおうかなぁ……」
だが、戦いは終わっていない。
割れた人混みの真ん中をゆっくりと歩き、智太の元へと向かうのは一人の男である。
スーツを着ている、一見してみれば普通のサラリーマンだろう。
だが、元は白無地であったネクタイは血の赤で染められている。
そして、彼の髪を七三に整えている整髪料――それも人間の血液である。
「刹那を殺したようだねぇ、だが彼はケルベロス三頭で最弱……
この戦闘の天才……
油断ならぬ妖気のようなものを発していた。
その存在だけで世界が歪むようである。
武田皆殺信玄は人の形に圧縮した殺意の塊のようだった。
「笑ったら死ぬ……確かにそのビジュアルは目に毒だねぇ……」
武田皆殺信玄、恐るべき戦闘の天才は両手で自身の目を覆った。
「こうすれば君の姿は見えない……姿が見えなければ、
笑うこともないということだよぉ……
じわじわと嬲り殺しにしてやろうねぇ……」
視界は自身の手で覆われている。
だが、武田皆殺信玄ははっきりとした足取りで智太の元に歩いていた。
見よ、その筋肉質な足を。蹴り技だけで、十分に智太を殺すことが出来るだろう。
「チクショー!!!!!!!!チクショー!!!!!!!!チクショー!!!!!!!!チクショー!!!!!!!!チクショー!!!!!!!!」
「んっふ……あっ……」
武田皆殺信玄は戦闘の天才であった。
だが、完全に油断しきっていたために、
耳からでもギャグは聞こえることを失念していた。
目の見えない状況でチクショーをゴリ押しされれば、
人間はついつい笑ってしまうのである。
「刹那、武田皆殺信玄。情けない……だが、彼らなど私に比べれば塵も同然。
ケルベロス三頭は、私一人で三人分の頭となる……」
だが、最後に現れた男ばかりは智太でもどうにもならなかっただろう。
彼は目を瞑り、両耳を自らの手で塞いでいた。
音も聞こえず、目も見えない。
こうなれば、最早智太が笑わせることは不可能である。
「……智太、強敵だな」
「こいつばかりは……俺でも殺せねぇ……」
一人殺せば、箍が外れる。二人目は余裕で殺すことが出来た。
だが、目の前に現れた最強の敵――これが智太に与えられた罰であるのだろう。
最早、智太の能力は何の役にも立たない。
「おらっ!死ねっ!ボケッ!」
「ギャーッ!!!」
だが、客観的に見れば隙だらけの人間である。
ハルスラは、最後の男の首を刎ねた。
「勝ったぞおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
こうして、戦いは終わった。
戦場で目を閉じて耳を塞いでいれば、人は死ぬ。
どれだけ現実が過酷でも、人は前を見るしか無いのだ。
「……終わったな、智太」
「ああ、お前が生き残るとは思ってなかったよ」
「私には感情がない、忘れたのか智太よ」
「……悪意はあるだろ、お前」
◇
戦いが終わり、ケルベロスは解散した。
荒くれ者達は四人の盗賊の元、智太を崇める宗教集団として生まれ変わったのだ。
死を待つだけだった街に、久方ぶりの活気が戻る。
絶対の恐怖で生まれ変わった敬虔な信徒達が、この街を盛り上げていくだろう。
「行くのか、チタ」
「……ああ」
ハルスラ聖騎士団詰所、二人の首に首輪はない。
契約は履行され、智太はハルスラの分の宝石も手に入れている。
智太はメイクを取り、急いで街を離れるつもりであった。
「この街やべーもん」
「私もそう思う」
街を守りきることには成功した。
いや、以前より賑わっているのだから勝利以上の勝利であった。
だが、それはそれとしてとんでもない怪物を生み出してしまっている。
「まあ、チタ……その……」
俯いたハルスラの耳が赤く染まっているのを、智太は見た。
もじもじと彼女が探している続くべき言葉はなんだろう。
意を決したように、ハルスラは智太の目を見て、言った。
「ありがとう、な……」
「……おう」
「皆、私を馬鹿にするから……お礼を言うなんて、大分久しぶりだ……
その……なんか恥ずかしいな……」
「情緒育ちきってない奴をこの街に置いてくのマジで不安」
「だけどもう行くわ」そう言って、智太が扉に手をかける。
服の裾を掴む手がある。
ハルスラが、ぎゅうと握っていた。
「いや、別に行って欲しいというわけじゃないんだ」
自分自身が一番信じられぬ――ハルスラがそのように目を見開いていた。
だが、それも一瞬のこと。
少女ではなく一人の騎士として、
精一杯の凛々しい顔を浮かべて、ハルスラは敬礼をした。
「……さらばだ」
ドアノブから手を離し、智太は頭をかいた。
ここまでされて、行かないというわけにもいかないだろう。
「俺さ……」
この後の言葉は、智太を称える奇祭の賑やかな喧騒によってかき消された。
だが、ハルスラの浮かべた笑顔が何よりの答えである。
この満面の笑顔を見ることが出来たのならば、素人芸人としては上出来だろう。
【終わり】
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