迷宮探検
冒険の始まり
風もない。音もない。空気はまるで冷水のようだ。頭を寄せた五人の頬を、青い光が照らしている。見下ろしているのは俯瞰図だ。白い息の擦り抜けた図面に、動くものは何もない。
何せここは
地図の光が照らし上げているのは、自慢げに反り返ったキャスロードの喉、緊張に上気したマリエルの頬、億劫そうに俯いたコルベットの額だ。少女たちの引率ふたりは、諦観した目で眺めている。
後は任せた、とでも言いたげな背中で、クランはぼんやりと立っている。ラルクは完全に逃げ遅れた。もはや自分が良識を死守せねば、役職どころか、首と胴とが泣き別れかねない。
もし何ごともなく帰れたら、当面、クランと王女には関わりたくない。
何しろ例の立ち聞き以来、口封じどころか、連れて行かねば宮廷中に触れ回る、などと脅される始末だ。気づけば、従騎士のお供に不在証明の根回し、食事の手配まで上乗せされている。
一見、泰然と構えているが、クランとラルクの心情は諦めの境地だった。王女に振り回されてクランは憔悴し、抵抗する気力も失っている。ラルクはいっそ、成るようにしか成らぬと振り切っていた。
キャスロードが俯瞰図に手を翳すと、紙を手繰るように描画が動いた。宙にあるとは思えないほど、精緻に映し出されている。
表示された道筋は、思いの外に少なかった。
ラルクが図面に目を走らせると、王城倉庫の地下通路と思しき道筋も表示されていた。当時は手探りで進んだが、改めて全容を俯瞰すれば、よくも迷わなかったものだと思う。
クランが少女たちに気取られぬよう視線を寄越した。ラルクは微かに頷いて応える。おまえはそれで良いのかなどと、そうした議論は終えていた。クランには、何か考えがあるのだろう。
「経路はこれだ」
キャスロードの指先が俯瞰図を辿った。
「よく聞け、隊員諸君」
不意にクランが手を打って視線を集めた。
「これから大空洞の探索に出掛けるが、城に帰るまでが探索だ、必ず俺とラルクの言うことを聞くように」
そう宣言して、キャスロード、マリエル、コルベットの顔を順に見る。
「無闇に触らない事、勝手に持ち帰らない事、そして誰にも言わない事、わかったな」
「はい、先生」
調子に乗ってコルベットが手を挙げた。
「守らなかったらどうなりますか?」
「死にます」
「え」
「死なずに帰れても、記憶を壊して投獄されます」
「マジっすか」
「特に君はヤバイ、魔術師だからな、万一、従騎士を首になったら、就職先はないと思いなさい」
コルベットが悲壮な顔でキャスロードを振り返る。
「安心せよ、我が名に置いて職は斡旋する」
「いや、殿下、そこは首にしないって言って」
暗闇の中、踝ほどの高さに青い光の帯が走った。
「みな、しっかりついて来い」
キャスロードが胸を張って先頭を切った。
こうしてクランを後ろに従えている限り、王女は概ね機嫌がよい。普段は君主を気取ることもないが、クランが相手だと話が違うらしい。いまだあれを先生と呼ぶことさえ、毛嫌いしている。
どうやらクランは対等な相手で、対等な相手には、やんちゃな気質が出るらしい。キャスロードには同世代も少なく、対等な立場の者もいない。世代も立場も違うクランが、何故か今はその位置にいる。
「そう走るな殿下、暗いのが怖いか」
「怖くなどないわ、無礼者」
キャスロードはともかく、思えばクランも大人げない。
「おまえがさっさと歩けばよいのだ」
「年寄りをこき使うとバチが当たるぞ」
「何が年寄りだ、サルカンみたいな髭を生やしてから言うがよい」
二人は知らず声を落として角を突き合わせた。天高も幅もない地の底は、響きが大きく恥ずかしいからだ。周りにとっては、余計な気遣いだ。今では皆も聞き流している。よく飽きないものだと、感心すらしていた。
「ほら、もうそこだ」
頬に微かな風を感じ、やがて通路の先に淡い青色の世界が覗くと、クランは言った。地下道の先が開けている。案の定、駆け出そうとしたキャスロードの襟首を、手を伸ばして掴まえた。
蛙のような声が出た。辛うじて転倒を免れるや、手を払ってクランを振り返り、真っ赤になってぷりぷりと怒った。クランはキャスロードを見おろして、意地の悪い笑みを浮かべている。
「調子に乗って飛び出すと、落ちるぞ」
頬を膨らませたキャスロードだが、通路を抜け、大空洞を目の当たりにして絶句した。マリエル、コルベットと共に、緩やかな斜面の回廊を横切ると、恐る恐る縁の先を覗き込む。
塵が燃えるように畝っている。回廊が螺子溝のように外周に刻まれている。所々の巨大な梁、吊り下げられた滑車や籠。黒い蜘蛛の巣のような影の向こうに、深淵が青く光っている。
大空洞は寒かった。息が白くなるほどだ。外に開いた場所は見当たらないが、冷えた空気がごうごうと縦に巡っている。果てなく抜けた縦孔が、地の底から冷気を運んで来るのだろうか。
互いの服をしっかり握り合って嘆息を洩らす三人の後ろ姿を、ラルクは妙に老け込んだ気分で眺めていた。ふと、間近に迫る天蓋を見上げ、あれが旧王城の底だと思い出した。確かに、ここは禁足地だ。
怖々と深淵を覗き込み、大きな息を、ふうう、と吐いて、キャスロードは呟いた。
「御伽噺とはよく言ったものだ」
強張った頬をクランに向ける。
「こんなものを、よくも隠し果せたな」
他人事のようだが、それは将来、自らが背負う役割だ。
「まあ、理由は幾つもあるんだが」
クランは一拍ほど考えて、ふと、うっかりしていた、という顔をした。
「どうした」
ラルクが気づいて目を遣るも、クランは、まあいいや、と肩を竦める。
「うん、毒と呪いがあるせいだ」
皆が、ぽかん、とクランの半笑いを見つめ、揃えて声を上げた。
「早く言え」
走って逃げるコルベットのケープを、マリエルが掴んで引き戻した。裾が胸元まで捲れ上がり、コルベットは滑って尻を着いた。何やら記憶が蘇ったのか、混乱して大声を上げる。
「毒は嫌、呪いも嫌」
コルベットの師事するエリーダは、幻術と薬術の使い手だ。好敵手のクロウデと共にリースタンの魔女と揶揄されている。その名の通り、傍目に少々、苛烈で奔放な性格だ。
「こんな浅層じゃ影響はないよ」
大丈夫、大丈夫、とクランの答えは軽い。
「毒も呪いも、ずっと底だ、ほら、孔の底に見えるだろう、あの青いのがそうだ」
大空洞の遥か底、揺らぐ青い光を指さしてクランは言った。淡い光が重なって濃くなり、漂う塵埃の畝りを照らしている。外光もなく、辺りが真っ暗闇でないのは、その光のせいだ。
「どんな毒だ」
聞いていないぞ、とラルクが顔を顰めた。もっとも、心配なのは持参した弁当の方だ。
「そうだなあ」
毒も呪いも、その言葉は比喩に過ぎない。クランは困ったように髪を掻いた。
「機械と魔術と霊基でできた代物だ、食い物が腐る心配はない」
「機械、ですか?」
マリエルが問い返した。案の定、皆もうまく想像できない。説明だけを取ってみれば、
「目に見えないほど小さいが、そいつらはここを作り変える」
クランは指先でキャスロードの額を突つき、底意地の悪い笑顔を浮かべた。
「作り変えられると、どうなるのだ」
額を押さえてキャスロードが聞き返した。
「物忘れが酷くなる」
ぽかん、と一拍、クランを見つめて、キャスロードはぷりぷりと怒った。
「たいしたこと、ないではないか」
殿下なんていつも宿題を忘れていますもんね、と立ち直ったコルベットにそう指摘され、キャスロードはさらに顔を赤くした。其処へ直れ、と怒る王女に、コルベットはクランを盾にして笑った。
「だから調子に乗って底に行った奴は、自分が誰かも忘れる」
クランの調子は変わらなかったが、その言葉が馴染むと、みな顔を見合わせた。
「つまり、この底に何があるのか、誰も知らない、というか、覚えていない?」
マリエルが確かめる。
「そういうことだ」
「だが、この大空洞が本当にあったからには、かの
キャスロードが、不安と興奮の入り混じった表情でクランに訊ねる。
「はて、大空洞は古代都市に繋がっているのではありませんでしたか?」
冒険譚好きのマリエルが指摘すると、コルベットが口を挿んだ。
「大空洞が本当なら、禁忌の魔術書があるはずだって、師匠が言ってたけど」
「そういうことだ」
クランが言った。忘却の毒と呪いが諸説の遠因だ。
「フースークなんぞ、この下にはいない」
口々に囀る三人をいなして、クランは回廊の縁から少女たちを追い戻した。
「確かに
不服ながらもキャスロードは納得したようだ。王女は好んで名を挙げるが、フースークは定番の悪役だ。冒険譚には名を馳せるが、近年は芝居に出すのも陳腐と評されている。
「その
手持ちのランタンを先に翳して、ラルクはクランに声を掛けた。
「忠告があるなら、今度からは先に言ってくれ」
クランはきょとんと子供のような目を向けた。それは言葉の意味を問うのではなく、どう答えようかと思案している目だ。ラルクは溜息を吐いた。内心、もう何もない、との即答を期待していた。
「まあ、今回はシリウスの影は出ないよ、たぶん、そう思う」
曖昧だ。
「俺は別に、」
ラルクが言葉を返す前に、マリエルが横から喰いついた。
「シリウス、シリウス・リースタンですか?」
目が真剣だ。
シリウスは六〇〇年前の英雄だ。四人の聖痕騎士の一人で、国に名を残すほど人気が高い。その姿は
「ただの影だ、関係ない」
話をややこしくするな、とクランを睨み、ラルクは無造作にマリエルの頭を押し返した。
「しかし、本当にあったとは」
大空洞の冷気もあって、興奮したキャスロードの頬は赤い。
「いい加減なことばかり言う奴だと思っていたが、今度ばかりは本当だった」
クランは肩を竦めて呟いた。
「失礼な奴だ」
だが、それだけだ。
キャスロードは意外そうな顔をした。また鼻を摘まれるかと身構えていたのに。クランの講義は教本にない虚伝だ。パルディオはいつもそう言って叱るが、少なくとも大空洞は本物だった。
自分ならきっと、大声で叫ぶ。それ見たことか、どっちが正しいかわかっただろう。なのに、クランは肩を竦めただけだ。その代わり、クランはキャスロードを意地悪な目で見て、こう言った。
「反省したなら、先生と呼べ」
「調子に乗るな、絶対い・や・だ」
キャスロードはツン、と鼻先を突き付けると、突き飛ばすようにクランの傍を擦り抜け、螺旋回廊を下り始めた。マリエルとコルベットが慌てて止める。王女は行き先もわかっていない。
ヘソを曲げたキャスロードを眺めて、クランは笑った。こうした神秘の真贋こそが、忌語りの本分だ。史実であっても歴史にはない。むしろ、いい加減に聞こえることに意味がある。
とはいえ、キャスロードにどこまで教えたものか。宮廷の醜聞はその範囲だろうか。クランを招聘したモルダスの意図、そして陛下や宮廷の意図も、クランはよく知らない。
どのみち、聞くつもりもなかったが。
大股に回廊の床を踏みながら、キャスロードは縁の向こうに目を遣った。冷えた青い暗闇に、意識のどこからか怖気が這い上がる。ふと、クランの視線に気づいて、フン、と胸を張った。
クランは笑って、不思議とどこか優しい顔をした。
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