迷宮探検

冒険の始まり

 風もない。音もない。空気はまるで冷水のようだ。頭を寄せた五人の頬を、青い光が照らしている。見下ろしているのは俯瞰図だ。白い息の擦り抜けた図面に、動くものは何もない。

 何せここは宮廷環アルフの地下だ。今回ばかりは幽霊も躊躇するだろう。通廊一帯の匂いには、命の気配がまるでない。造られて此の方、誰一人として踏み入れたことのないような静謐さだ。

 地図の光が照らし上げているのは、自慢げに反り返ったキャスロードの喉、緊張に上気したマリエルの頬、億劫そうに俯いたコルベットの額だ。少女たちの引率ふたりは、諦観した目で眺めている。

 後は任せた、とでも言いたげな背中で、クランはぼんやりと立っている。ラルクは完全に逃げ遅れた。もはや自分が良識を死守せねば、役職どころか、首と胴とが泣き別れかねない。

 もし何ごともなく帰れたら、当面、クランと王女には関わりたくない。

 何しろ例の立ち聞き以来、口封じどころか、連れて行かねば宮廷中に触れ回る、などと脅される始末だ。気づけば、従騎士のお供に不在証明の根回し、食事の手配まで上乗せされている。

 一見、泰然と構えているが、クランとラルクの心情は諦めの境地だった。王女に振り回されてクランは憔悴し、抵抗する気力も失っている。ラルクはいっそ、成るようにしか成らぬと振り切っていた。

 キャスロードが俯瞰図に手を翳すと、紙を手繰るように描画が動いた。宙にあるとは思えないほど、精緻に映し出されている。第一市環オーデンの内が宮廷環アルフ、その内側がワーデンの最深、古城壁ゼムスだ。

 表示された道筋は、思いの外に少なかった。古城壁ゼムスに至っては、ほとんどを巨大な円に塗り潰されている。ラルクとクランには思い当たるものがある。この円こそ、大空洞だ。

 ラルクが図面に目を走らせると、王城倉庫の地下通路と思しき道筋も表示されていた。当時は手探りで進んだが、改めて全容を俯瞰すれば、よくも迷わなかったものだと思う。

 クランが少女たちに気取られぬよう視線を寄越した。ラルクは微かに頷いて応える。おまえはそれで良いのかなどと、そうした議論は終えていた。クランには、何か考えがあるのだろう。

「経路はこれだ」

 キャスロードの指先が俯瞰図を辿った。

「よく聞け、隊員諸君」

 不意にクランが手を打って視線を集めた。

「これから大空洞の探索に出掛けるが、城に帰るまでが探索だ、必ず俺とラルクの言うことを聞くように」

 そう宣言して、キャスロード、マリエル、コルベットの顔を順に見る。

「無闇に触らない事、勝手に持ち帰らない事、そして誰にも言わない事、わかったな」

「はい、先生」

 調子に乗ってコルベットが手を挙げた。

「守らなかったらどうなりますか?」

「死にます」

「え」

「死なずに帰れても、記憶を壊して投獄されます」

「マジっすか」

「特に君はヤバイ、魔術師だからな、万一、従騎士を首になったら、就職先はないと思いなさい」

 コルベットが悲壮な顔でキャスロードを振り返る。

「安心せよ、我が名に置いて職は斡旋する」

「いや、殿下、そこは首にしないって言って」

 暗闇の中、踝ほどの高さに青い光の帯が走った。

「みな、しっかりついて来い」

 キャスロードが胸を張って先頭を切った。

 こうしてクランを後ろに従えている限り、王女は概ね機嫌がよい。普段は君主を気取ることもないが、クランが相手だと話が違うらしい。いまだあれを先生と呼ぶことさえ、毛嫌いしている。

 どうやらクランは対等な相手で、対等な相手には、やんちゃな気質が出るらしい。キャスロードには同世代も少なく、対等な立場の者もいない。世代も立場も違うクランが、何故か今はその位置にいる。

「そう走るな殿下、暗いのが怖いか」

「怖くなどないわ、無礼者」

 キャスロードはともかく、思えばクランも大人げない。

「おまえがさっさと歩けばよいのだ」

「年寄りをこき使うとバチが当たるぞ」

「何が年寄りだ、サルカンみたいな髭を生やしてから言うがよい」

 二人は知らず声を落として角を突き合わせた。天高も幅もない地の底は、響きが大きく恥ずかしいからだ。周りにとっては、余計な気遣いだ。今では皆も聞き流している。よく飽きないものだと、感心すらしていた。

「ほら、もうそこだ」

 頬に微かな風を感じ、やがて通路の先に淡い青色の世界が覗くと、クランは言った。地下道の先が開けている。案の定、駆け出そうとしたキャスロードの襟首を、手を伸ばして掴まえた。

 蛙のような声が出た。辛うじて転倒を免れるや、手を払ってクランを振り返り、真っ赤になってぷりぷりと怒った。クランはキャスロードを見おろして、意地の悪い笑みを浮かべている。

「調子に乗って飛び出すと、落ちるぞ」

 頬を膨らませたキャスロードだが、通路を抜け、大空洞を目の当たりにして絶句した。マリエル、コルベットと共に、緩やかな斜面の回廊を横切ると、恐る恐る縁の先を覗き込む。

 塵が燃えるように畝っている。回廊が螺子溝のように外周に刻まれている。所々の巨大な梁、吊り下げられた滑車や籠。黒い蜘蛛の巣のような影の向こうに、深淵が青く光っている。

 大空洞は寒かった。息が白くなるほどだ。外に開いた場所は見当たらないが、冷えた空気がごうごうと縦に巡っている。果てなく抜けた縦孔が、地の底から冷気を運んで来るのだろうか。

 互いの服をしっかり握り合って嘆息を洩らす三人の後ろ姿を、ラルクは妙に老け込んだ気分で眺めていた。ふと、間近に迫る天蓋を見上げ、あれが旧王城の底だと思い出した。確かに、ここは禁足地だ。

 怖々と深淵を覗き込み、大きな息を、ふうう、と吐いて、キャスロードは呟いた。

「御伽噺とはよく言ったものだ」

 強張った頬をクランに向ける。

「こんなものを、よくも隠し果せたな」

 他人事のようだが、それは将来、自らが背負う役割だ。

「まあ、理由は幾つもあるんだが」

 クランは一拍ほど考えて、ふと、うっかりしていた、という顔をした。

「どうした」

 ラルクが気づいて目を遣るも、クランは、まあいいや、と肩を竦める。

「うん、毒と呪いがあるせいだ」

 皆が、ぽかん、とクランの半笑いを見つめ、揃えて声を上げた。

「早く言え」

 走って逃げるコルベットのケープを、マリエルが掴んで引き戻した。裾が胸元まで捲れ上がり、コルベットは滑って尻を着いた。何やら記憶が蘇ったのか、混乱して大声を上げる。

「毒は嫌、呪いも嫌」

 コルベットの師事するエリーダは、幻術と薬術の使い手だ。好敵手のクロウデと共にリースタンの魔女と揶揄されている。その名の通り、傍目に少々、苛烈で奔放な性格だ。

「こんな浅層じゃ影響はないよ」

 大丈夫、大丈夫、とクランの答えは軽い。

「毒も呪いも、ずっと底だ、ほら、孔の底に見えるだろう、あの青いのがそうだ」

 大空洞の遥か底、揺らぐ青い光を指さしてクランは言った。淡い光が重なって濃くなり、漂う塵埃の畝りを照らしている。外光もなく、辺りが真っ暗闇でないのは、その光のせいだ。

「どんな毒だ」

 聞いていないぞ、とラルクが顔を顰めた。もっとも、心配なのは持参した弁当の方だ。

「そうだなあ」

 毒も呪いも、その言葉は比喩に過ぎない。クランは困ったように髪を掻いた。

「機械と魔術と霊基でできた代物だ、食い物が腐る心配はない」

「機械、ですか?」

 マリエルが問い返した。案の定、皆もうまく想像できない。説明だけを取ってみれば、巨人ギガス落とし仔ドワーフにも嵌る。だが、それらは毒と呼ぶには大きすぎる。巨人ギガスに至っては、城ほどの大きさがある。

「目に見えないほど小さいが、そいつらはここを作り変える」

 クランは指先でキャスロードの額を突つき、底意地の悪い笑顔を浮かべた。

「作り変えられると、どうなるのだ」

 額を押さえてキャスロードが聞き返した。

「物忘れが酷くなる」

 ぽかん、と一拍、クランを見つめて、キャスロードはぷりぷりと怒った。

「たいしたこと、ないではないか」

 殿下なんていつも宿題を忘れていますもんね、と立ち直ったコルベットにそう指摘され、キャスロードはさらに顔を赤くした。其処へ直れ、と怒る王女に、コルベットはクランを盾にして笑った。

「だから調子に乗って底に行った奴は、自分が誰かも忘れる」

 クランの調子は変わらなかったが、その言葉が馴染むと、みな顔を見合わせた。

「つまり、この底に何があるのか、誰も知らない、というか、覚えていない?」

 マリエルが確かめる。

「そういうことだ」

「だが、この大空洞が本当にあったからには、かの魔導士イプシシマスの牢獄もこの底に実在するのではないか?」

 キャスロードが、不安と興奮の入り混じった表情でクランに訊ねる。

「はて、大空洞は古代都市に繋がっているのではありませんでしたか?」

 冒険譚好きのマリエルが指摘すると、コルベットが口を挿んだ。

「大空洞が本当なら、禁忌の魔術書があるはずだって、師匠が言ってたけど」

「そういうことだ」

 クランが言った。忘却の毒と呪いが諸説の遠因だ。

「フースークなんぞ、この下にはいない」

 口々に囀る三人をいなして、クランは回廊の縁から少女たちを追い戻した。

「確かに大魔導士イプシシマスは魔竜戦争の後もあちこちで悪さをしているからな」

 不服ながらもキャスロードは納得したようだ。王女は好んで名を挙げるが、フースークは定番の悪役だ。冒険譚には名を馳せるが、近年は芝居に出すのも陳腐と評されている。

「その大魔導士イプシシマスさまがいないにしても、だ」

 手持ちのランタンを先に翳して、ラルクはクランに声を掛けた。

「忠告があるなら、今度からは先に言ってくれ」

 クランはきょとんと子供のような目を向けた。それは言葉の意味を問うのではなく、どう答えようかと思案している目だ。ラルクは溜息を吐いた。内心、もう何もない、との即答を期待していた。

「まあ、今回はシリウスの影は出ないよ、たぶん、そう思う」

 曖昧だ。

「俺は別に、」

 ラルクが言葉を返す前に、マリエルが横から喰いついた。

「シリウス、シリウス・リースタンですか?」

 目が真剣だ。

 シリウスは六〇〇年前の英雄だ。四人の聖痕騎士の一人で、国に名を残すほど人気が高い。その姿は宮廷環アルフにも多くあり、両手に銀の籠手を着けた姿で再現されている。マリエルの一推しだ。

「ただの影だ、関係ない」

 話をややこしくするな、とクランを睨み、ラルクは無造作にマリエルの頭を押し返した。

「しかし、本当にあったとは」

 大空洞の冷気もあって、興奮したキャスロードの頬は赤い。

「いい加減なことばかり言う奴だと思っていたが、今度ばかりは本当だった」

 クランは肩を竦めて呟いた。

「失礼な奴だ」

 だが、それだけだ。

 キャスロードは意外そうな顔をした。また鼻を摘まれるかと身構えていたのに。クランの講義は教本にない虚伝だ。パルディオはいつもそう言って叱るが、少なくとも大空洞は本物だった。

 自分ならきっと、大声で叫ぶ。それ見たことか、どっちが正しいかわかっただろう。なのに、クランは肩を竦めただけだ。その代わり、クランはキャスロードを意地悪な目で見て、こう言った。

「反省したなら、先生と呼べ」

「調子に乗るな、絶対い・や・だ」

 キャスロードはツン、と鼻先を突き付けると、突き飛ばすようにクランの傍を擦り抜け、螺旋回廊を下り始めた。マリエルとコルベットが慌てて止める。王女は行き先もわかっていない。

 ヘソを曲げたキャスロードを眺めて、クランは笑った。こうした神秘の真贋こそが、忌語りの本分だ。史実であっても歴史にはない。むしろ、いい加減に聞こえることに意味がある。

 とはいえ、キャスロードにどこまで教えたものか。宮廷の醜聞はその範囲だろうか。クランを招聘したモルダスの意図、そして陛下や宮廷の意図も、クランはよく知らない。

 どのみち、聞くつもりもなかったが。

 大股に回廊の床を踏みながら、キャスロードは縁の向こうに目を遣った。冷えた青い暗闇に、意識のどこからか怖気が這い上がる。ふと、クランの視線に気づいて、フン、と胸を張った。

 クランは笑って、不思議とどこか優しい顔をした。

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