大公事件(3/6)

抗戦

 先の見えない弧を描く、緩やかな螺旋の回廊を延々と下る。明確な階層がなく、どの方角にいるのかもわからない。所々に壁に掘り込まれた広間があって、それを目安に階を数えている。

 広間には幾つもの扉や補修用と思しき資材が積まれており、それを見るたび、好奇心に駆られたラエルが切ない嘆息を洩らした。時折、ラルクが縦孔の縁に寄って、相手の位置を確かめた。

「何か、おかしくはないか?」

 振り向いて皆に訊ねた。相手も移動しているが、揺れる灯は確実に近づいている。そのはずだが、妙な違和感があった。横から覗き込み、大空洞の縁を指先で辿ってラエルが言った。

「別の通路だね」

 回廊が二重の螺旋を描いていた。

「このままだと、擦れ違うだけだ」

 エレインも縦孔を覗き込む。つまり、この回廊の上か下かに移らねばならない。

「どこかに降り口があるんだろう、なければ、あれだ、ぞっとしないな」

 クランが応えて縦穴を指した。見おろせば、蜘蛛の巣のような影がある。

 巨大な縦孔には、井桁の斜交いが幾つも設置されていた。螺旋回廊の位置に合わせて、升目がそれぞれ異なっている。井桁に乗って底知れない大空洞を渡れば行き着ける道理だ。

「ラルク、匂いは?」

 エレインが訊ねる。

「犬みたいに言うな、多分、まだ残っている」

 文句を言いながら律儀に応えた。

「このまま進み、昇降口を探しましょう」

 エレインが宣言した。

「ラエル、何かこう、魔術的な検知はできないか」

 回廊を下りながらクランが問うと、ラエルは少し考え込んで二、三度ほど蹴躓いた。

「できなくはない、施術の種類や走査する広さによるけれど」

「面倒なのか?」

 ラエルは頷いた。

「いちばん簡単なのは、引っ掛かってみることだね」

「意味ないな」

 目指すを燈を上から追い抜き一回半、直線距離は近づいている。もう半周もすれば頭の上だ。ラエルが広間に目を留めた。歩調を緩めて立ち止まる。ラルクが気づいて視線で訊ねた。

「資材なら、どちらの通路にも必要だ」

 エレインがランタンの燈を絞って広間を照らした。平らな床の端は、先に行くほど通路に段差ができている。積まれているのは、永年処理の木や鉄材だ。保全用の資材置き場らしい。

 一見、わからなかったが、側面の床がそっくり下に抜けていた。滑車と荷台が吊られている。どうやら資材を融通する開口だ。エレインがランタンを翳して覗き込む。端には梯子もあるようだった。

 灯りがぐるりと、壁から天井に軌跡を描いた。

 放り出されたランタンが床に落ち、その音を聞いて初めて、クランとラエルはラルクがエレインを抱えて跳び退ったことに気がついた。ラルクがラエルに向かってエレインの身体を放り投げる。

 二人はもつれて後ろによろめき、クランにぶつかって辛うじて踏み止まった。

 青い薄明かりの中、ラルクの向こうに黒々とした霧が立ち上がって行く。下の回廊に続く開口から、泡のように噴き上がっている。それは捻れて宙でかたまり、四つ脚の獣に姿を変えた。

「カーディフの獣だ」

 ラエルとエレインを押し退けながら、クランが口許を顰めて囁いた。

「宮廷を襲った、あれか」

 ラルクが応えた。いつの間に抜いたのか、手には既に抜き身がある。

 黒い獣の体高は、身の丈ほどに膨らんでいた。獅子似て、全身が明りに漂う黒い煙のように畝って見える。輪郭の細部は曖昧だが、四肢や頭部は濃度が高く、液体の質感があった。

 半年前、宮殿に溢れた獣がこれだ。霧かと思えば液状、固形の部位もあり、歯牙に掛かれば傷を負う。何より、霧に触れば麻痺、昏倒するという、実に厄介な魔術の仕掛けだ。

「どうやって倒す」

 ラルクが背中に叫んだ。

 黒く塗り潰された頭はあるが、目は見当たらない。相手は獣のようで、獣ではない。その四肢すらも、形態の通り動くとは限らない。相手の動きの読み方が、まるでわからなかった。

「さて、サルカンの術など見ていなかったからな」

 クランが他人事のように言う。モルダスが黒い獣を押し留めるまで、多数の衛士と魔術師が犠牲になった。死にこそしなかったが、数日は昏倒したらしい。あのときの術式は何だったか。

 黒い獣に対峙して、四人はじりじりと回廊の縁に押されて行く。

「魔術師なら、ここにもいます」

 エレインがラエルの肩を掴んで獣に向かって押し出した。さすがの彼女も少し混乱しているようだ。

「待って、大魔術師メイガスと一緒にしないで」

 ラエルが悲鳴を上げた。

 足元が縁の石を踏む。エレインが振り返り、息を呑んだ

 回廊の斜、ひと段下に、ランタンを掲げた人影が皆を見上げている。陰って子細は見えないが、長身痩躯に長衣姿だ。何より、腰に子供を抱えている。寝間着に上掛け姿の第二王女だ。

「キャス」

 縁から身を乗り出し、誰よりも先に叫んだのはクランだった。

 動揺したように灯りが揺れた。軌跡が奥に流れ、遠ざかる。回廊を下るのではなく、壁側に消えて行く。向こうにも、こうした広間か、もしかしたら枝道への入り口があるのかも知れない。

「クラン、クラン」

 微かに幼い声が呼んでいる。

 剣戟の硬い音がした。ラルクが獣に滑り寄り、黒の濃い顎ならばと、刃を立てた。黒い獣は怯まない。だが、ラルクを敵と認識した。何となく、獣の意識が向いたような気がする。

 黒い獣には前動作も気配もない。ただ動きに反応して追い付く以外ない。ラルクは突き出された前肢を払い、手応えに顔を顰めた。まるで、緩い砂袋を斬るような刃の通りだった。

 案の定、散った獣の肢も、じき黒々とした煙が寄って復活する。

「詠唱しろラエル、難度八の結束崩壊術式だ」

 クランが思い出してラエルの背中を叩いた。

「はち、八なんて無理だ、准魔術師ニオフェイトなんだぞ」

 ラエルが悲鳴を上げた。

「おまえが勉強熱心なのは知ってる、さっさとその懐の魔術書を出せ」

「そんなに持たないからな、早く何とかしてくれると有り難い」

 剣戟の激しさとは裏腹に、ラルクが間延びした声を掛けた。

「知らないぞ、知らないからな」

 捨て鉢の返事を投げながら、ラエルは上衣の前を解いた。手帳を出して頁を繰る。帯留めのそれは、書き込みが過ぎて膨らんでいた。エレインが慌てて肩越しにランタンを翳した。

「動かさないで」

 灯りの位置を留めたのは無意識だ。ラエルは既に没頭している。惜しげもなく頁を千切り取り、紙束を重ねて即席の術式を組む。指で式を辿りながら、震えるように詠唱を連ねた。

 黒い獣を剣先でいなすラルク、棒立ちで詠唱を続けるラエル、エレインはランタンを掲げたまま、内心の焦りを噛み殺している。クランは縦孔を振り返り、エレインの肩を叩いて囁いた。

「頑張れ、皆やればできる子だ」

 首を捻って振り返ると、クランは回廊の縁に足を掛け、大空洞に身を躍らせた。

「クラン」

 回廊の下ほどに生えた梁が撓む。軋んで大きな音を立てた。鎖が爆ぜ跳び、木片が散った。眼下に深淵が揺れている。見れば落ちるとばかりに、クランは勢いのまま井桁を走った。

 ラルクさえもが振り返り、呆気に取られて目で追った。

「あ」

 すとん、とクランの姿が消えた。吊られた鎖が音を立て、埃を撒いた滑車が跳ねた。大きく跳ねた鎖の先が右に左に揺れている。クランの姿はどこにもない。そう思った瞬間、声がした。

「二度としないぞ、くそったれ」

 床に転がる音と悪態が遠ざかる。

 エレインとラルクが呆然と目を合わせる。ラルクは慌てて黒い獣に意識を戻した。エレインも我に返って灯りを戻したが、ラエルは何が起きたかも気づかないまま、詠唱を続けていた。

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