幽霊の正体
夜半の街に警笛が鳴り響いた。火事か戦かと見回すほどに、辺りはにわかに騒々しい。幸い
点々と燈る街灯の薄明かりの下を、市警の衛士が駆けて行く。冷え固まった風を割って、幾筋もの光の矢が飛び交っている。建屋の裏に身を屈め、マリエルとキャスロードは通りを窺っていた。
出会い頭の夜警を運良く巻いて、路地裏に逃げ込んだキャスロードたちだが、見る間に通りは追手で溢れた。どうにも数が儘ならない。これほどの警備がいるなどとは、まるで思いもしなかった。
「おのれ幽霊、罠に掛けたな」
市警の待ち伏せに誘い込まれたに違いない。キャスロードが激昂する。そうかなあ、とマリエルが眉根を寄せた。クランは路面に伸びたまま、犬のように喘いでいる。自分も大概のくせに、コルベットが調子に乗って突ついた。
「体力ないわねえ、先生」
自分を棚に上げて言う。
「市警が殿下に警笛なんぞ吹くか、衛士隊が指揮してるに決まってる」
不貞腐れたようにクランが呟いた。
「うへえ」
つまり、寝所を抜け出したことがばれたのだ。
「でも、
「あたしらが講義を抜けて水道橋に行ったこと、知ってるんだ」
マリエルとコルベットが囁き合う。
「いや、水道橋調査は学士長に正式に届け出た、問題ない」
「問題あるわ、何やってんの」
胸を張るマリエルにコルベットが突っ込んだ。
パルディオか、とクランが嘆息した。宮廷侍従は衛士を過分に徴用できる。勿論、キャスロードの不在を嗅ぎ付けたのはエレインだろう。二人して罠を張っていたなら面倒だ。
「残念ですが、一度、通廊に逃げて機会を窺いましょう」
マリエルが進言する一方、コルベットは夜空に建屋の輪郭を見定め、呟いた。
「でも、ここ商工会の北館じゃない?」
つまり、目的の浄水橋は棟を越えた南側だ。キャスロードが唸った。マリエルは首を伸ばして潜んだ路地を見通し、身を晒す距離を測った。だが、橋そのものが遮る物のない場所にある。
「走って渡り切るのがせいぜいでしょう、幽霊めが出るまでは待てません」
キャスロードは頷いた。
「ここまで来たのだ、それでも良い」
「うわ、また走るの?」
コルベットが声を上げた。
クランは抜け出す算段をしていた。コルベットの言う通り今の身体は体力がない。低代謝に馴染んだものを変えれば済むが、絶えず空腹に苛まれるのは、鬱陶しいことこの上ない。
「殿下、俺はもうだめだ、ここに置いて行ってくれ」
芝居がかった苦し気な声を上げると、コルベットが小さな声で、ずるい、と呟いた。
「馬鹿を言うな、例え貴様でも我は見捨てはしない」
キャスロードが胸を張り、ふんす、と鼻息を荒くした。
「引き摺ってでも連れて行く」
「いや、ほんと勘弁して」
クランが呻いた。
「行くぞ、我に続け」
キャスロードは聞いていない。言うなりクランを蹴飛ばした。
ただし、中央帯に沿った用水路は、あくまで後年に造られたものだ。建物に合わせて分岐し、方向を変えている。そのほとんどが暗渠だった。目的の浄水橋も、用水路がうっかり地上に出た所に設置されている。
近隣の商工会議堂が、道幅を確保する目的で用水路を引き換えたのが一〇〇年ほど前だ。その際、水質、水量調整用の施設として、用水路を南北に跨ぐ浄水橋が設置されたらしい。つまり、
「あれだな」
物陰から道向こうの街灯を睨み、囁くようにキャスロードが言った。
四人は路地裏伝いに商工会議堂を回り込み、辛うじて市警や衛士の目を躱して辿り着いた。問題の浄水橋は目の前だ。むしろ、周囲の見通しがよすぎて、遮るものがなにひとつない。
「どうよ?」
コルベットがマリエルを小突く。訊いているのは幽霊ではなく、警備の方だろう。一見、双方ともに姿は見えない。だが、マリエルは目を眇め、何かを嗅ぎ取るように鼻を突き出した。
「いや、いる」
確かに、遠くに声や靴音はした。だが、浄水橋の付近は静まり返っている。用水路の水音さえ聞こえて来る。それでも、幾人もが辺りに身を潜めているはずだ、とマリエルは言った。
キャスロードは疑わなかった。行動が見抜かれていたのなら、当然、待ち伏せも有り得るだろう。ただ、いかにもな待ち伏せはエレインらしくない。指揮はパルディオの方だろうか。
「面倒な予感しかしない」
クランが呟いた。宮廷衛士隊のキャスロードへの傾倒ぶりは度が過ぎる。彼らは王女を案じ、あるいは懲罰を恐れてエレインの命令を優先する。おかげでクランは目の敵にされていた。迷惑を被っているのはこちらの方だ、そう叫んでも聞く耳を持たない。
「諦めろ、殿下」
キャスロードに進言する。
「また昼にでも来ればいいだろう」
「馬鹿者、昼に幽霊が出るものか」
貴様はそんなことも知らないのか、とキャスロードが憐れむような目でクランを見る。生意気なガキだ。クランは憮然とした顔で手を伸ばし、キャスロードのつんとした鼻を摘まんだ。
「やめりょ、はなふぇ」
「じゃれてる場合か、気づかれますよ」
コルベットが呆れて囁いた。赤くなった鼻を押さえて、キャスロードがクランを追い回している。ひと蹴り入れて気が済んだのか、肩で息をしながらマリエルとコルベットを振り返った。
「強行突破だ、橋を渡る」
「目的が変わってるぞ、殿下」
もう一度、キャスロードはクランの脚を蹴飛ばした。
用水路の幅は市環に足りないほどだが、掛る浄水橋は幅広い。大型の荷馬車が幾台も擦れ違えるほどだ。腰高ほどの欄干があり、袂に街灯が立っている。施設を兼ねた橋脚が橋の下を埋めている。河川に架かる橋というより、貯水池の堰堤のようだった。
皆の潜んだ場所から、橋は前方、右手に見える。橋の前後に通る広い通りを越えるのが課題だ。マリエルは鞘ごと剣を取り、コルベットを振り返った。指先で通りの奥を指さした。
コルベットが頷いた。
杖を掲げ、抑えた声で詠唱する。手前の通りの袂の向いに輪郭の朧な影が現れた。まるで身を寄せた人のような塊だ。暗がりを伝うように、それはこちらに向かって近づいて来る。
不意に袂に警笛が鳴った。橋下の階段から、わらわらと衛士が湧いて出た。コルベットの作り出した影に向かって突進する。翻す杖と同期して、影は驚いたように身を竦め、逃げ出した。
衛士の列を牽いて遠ざかって行く。
「今だ」
短く叫んでキャスロードが駆け出した。袖を引かれ、仕方なくクランも付いて走る。マリエルが先鋒、後尾はコルベットだ。風が微かに冷たい湿気を帯びている。衛士の最後と入れ違うように、通りを渡った。
「殿下、お待ちを」
背後から野太い声が上がった。別の建屋にも衛士が潜んでいたようだ。勿論、止まるはずがない。キャスロードは一気に橋板を踏んだ。袂の街灯を抜け、浄水橋の上を駆けて行く。
しかし。
「しまった」
キャスロードは思わず橋の中ほどで立ち止まった。
向こう岸に立っているのはエレインだ。胸元で腕を組み、冷えた目でこちらを睨んでいる。傍らにはパルディオもいた。後ろに衛士を従えた無数の衛士は、橋を塞ぐように並んでいる。
振り返ると、来た道の袂にも、わらわらと衛士が戻って来る。
「無念ですが殿下、もはやこれまで」
マリエルが自決しそうな勢いで囁き、コルベットに真面目か、と突っ込まれた。エレインとパルディオが歩いて来る。まるで大軍が押し寄せるかのように、キャスロードは首を竦めた。
ふと、街灯とは明らかに質の違う光が辺りを照らした。橋の中ほど、キャスロードのすぐ傍に、青白い光が浮かんだ。それは人ほどの大きさがあり、焦点を行き来するように、輪郭が震えている。
周囲の誰もが息を呑んだ。エレインさえもが眉根を寄せた。青い陰影が人の形に像を結んで行く。背景が透けて明確さを欠いているが、それが何者であるかはすぐにわかった。
長身で痩身、老いてはいるが姿勢が良い。悪戯気のあるその目許は、いま思えばクランに似たものがある。
「サルカン?」
キャスロードが掠れた声で呟いた。
モルダスは応えない。恐らく見えも聞こえもしないのだろう。これは魔術の写し身だ。そのモルダスは、不意に身じろいで顔を上げ、驚いたような目で一点を見つめた。口を開き、閉じる。
「何を」
声は聞こえない。音もしない。姿だけが見えている。それは、何かを告げている。キャスロードがモルダスに近づくと、唐突に姿が消え、間髪を入れず、また現れた。微かな動作が先と同じだ。
同じ写し身の瞬間が何度も繰り返されている。
「アー」
キャスロードが口と舌を真似る。
「イィ、」
もう一音。だが、その直後に写し身は同じ動きを繰り返した。
「アーイィ?」
出し抜けに光が消えた。手を突いていた壁が消え失せたかのように、キャスロードが前にのめる。
モルダスの姿は、もう何処にもなかった。
淡い街灯の落差に、辺りの闇がいっそう濃く感じられた。大勢の衛士の一人に至るまで、咳ひとつなく立ち竦んでいた。用水の微かな水音だけが、辛うじて世界を現実に繋ぎ止めている。
耳鳴りのするような沈黙の中、キャスロードはただ呆然と宙を見つめていた。そこにはもう、何もない。夜の闇だけだ。自分がクランの袖口をきつく握り締めていることさえ、気づかなかった。
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