第13話 その光景に、クールな彼女は目を細めていた。
引きこもりをやめ、学校に通うようになってから一週間ほどが経った。最後の授業が終わり、放課後になると思わずため息が一つ漏れる。
「どしたんあまっち。おつかれちん?」
「まぁ、うん。そうなのかも」
身体的な疲れではなく、精神的な疲れとでも言うだろうか。
引きこもりだったはいえ、過剰な運動をしているわけではないし一応は若者である。身体は元気なものだった。
しかし心はそうではない。優月やアイナを筆頭に世話を焼いてくれるため特別辛いことがあったりするわけではないが、やはり登校すること自体がまだストレスになっていることは否めない。緊張が抜けていないのだ。
「うーん。そうさねえ、そんなあまっちには特別にこれを進呈しよう!」
アイナはバッグから水筒を取り出すと、中身を注いでいく。それから湯気が上がるそれをこちらへ手渡してきた。
「これは……?」
匂いを嗅いでみると、ほのかに出汁のような香りと最近よく嗅ぐツンとした香りがした。
「梅……?」
「イグザクトリー! アイナ特製の梅昆布茶じゃよ。ほれほれ、飲んでみ?」
促されて、梅昆布茶を口に含む。梅と昆布の香り、それからほのかな塩分が口に広がった。温かくてトロッとした口当たりのそれはするりと喉を抜けていく。
思わず、もう一口。ゴクッと喉を鳴らして飲み込む。
「はあ……」
先ほどとは違う、ホッと一息つくような、そんなため息が漏れた。
「うまいじゃろ?」
「うん、すごく美味しい。それになんだか、優しい味だね」
「うむうむ。アイナの優しさが染み込んでるからにー。疲労回復効果があるぞい! まあほんとは寝る前とかに呑んでほしいんだけど、それはしょうがないさね」
なるほど確かに、凝り固まっていた心と身体がほぐれていくような気がした。疲労回復、それからリラックス効果なんかも望めるかもしれない。
「でもでも、アイナ的には一番期待しているのはダイエット効果でしてね? まず梅昆布茶はカロリーがとてーも低いんだけどとろみがあるっしょ? だから結構満足感があって小腹さんを満たしてくれるし。その他成分的にもアルギン酸・フコダイン――――」
「ねえ、あなた」
「え?」
「ちょっと付き合って」
「あ、ちょ、桜庭さん!?」
アイナの蘊蓄もつかの間、突如隣席の桜庭さんに手を引かれる。普段なら放課後にはいち早く教室を去っているのだが、今日はまだ残っていたらしい。
「あの、まだアイナの話が……っ!」
「いいのよあの子は。ただ喋りたいだけなんだから」
桜庭さんに連行されるような形で、教室を後にした。
連れてこられた場所は体育館だった。ウチの学校には体育館が二つあり、基本的には中等部と高等部がそれぞれ一つずつを使っている。やってきたのはもちろん高等部用の体育館。
なんにしても僕にとっては慣れない場所だった。訪れる機会と言えば、体育と全校集会くらいだろうか。少しは慣れてきた自教室と比べれば、圧倒的なアウェーだ。
放課後の体育館ではすでに部活が始まっていた。向かって手前、体育館の半分を使用しているのがバレーボール部。奥を使っているのがバスケ部のようだった。
桜庭さんはバレーボール部が使っている側の壁際で足を止める。僕もそれに並んだ。
「あの、桜庭さん? 何を――――」
何をしに来たの? 付き合ってってどういうこと? そう聞こうと思ったのだが、彼女の横顔を見て言葉を失ってしまった。
その瞳はまるで太陽でも見つめるみたいに細められている。視線の先はもちろん、バレー部。決して現実にない、映画の中の物語に想いを馳せているかのようだった。僕にとってはなんでもないバレー部の練習風景に、桜庭さんは釘付けになっている。
結局、声をかけることは憚れて僕もまたボーっとその光景を眺めていた。やはり、ふつうの練習風景だ。特にドラマもなければ、物語のような輝きも感じない。
しかしやっぱりそれは僕の主観でしかなく、桜庭さんの目を通して見ている世界はまた異なるのだろうか。
30分ほど、見つめていた。不思議と退屈ではなかった。むしろ段々と楽しくなってきたとも思える。あの子はスパイクが上手いなとか、あっちの子はレシーブが、とかが少しずつ分かるようになってきたからだろうか。レシーブミスを繰り返していた子が上手く出来たりなんかするとこっちまで少し嬉しくなった。
僕の見る世界も、ほんの少しの間で変化する。そこにはわずかながらも物語が生まれていた。それはいくらか桜庭さんの見ているものに近づいたのだろうか。
「あら唯香? 珍しいわね」
休憩に入ったらしく、バレー部員のひとりがこちらにやってくる。練習の様子を見ていた限りでは、おそらく彼女が部長だ。
「休憩の間だけでいいから、コートを借りてもいいかしら」
「それはもちろん構わないけど……本当にどういう風の吹き回し?」
「べつに。きまぐれよ」
「そう。それでも、わたしは嬉しいな。思う存分、使ってちょうだい」
「ありがと」
嬉しそうに話すバレー部の女生徒に対して、桜庭さんの対応は簡素なものだった。会話から察するに、コートを借りてバレーをするのだろうか。誰が? 僕が?
「ほら。ボーっとしてないで。始めるわよ」
「え!? いや、始めるって何を!?」
「決まってるじゃない。バレーボールよ」
やっぱり!?
「いや、バレーなんて体育で少しやった記憶があるくらいなんだけど!?」
「男の子ならウダウダ言わない。行くわよ」
強引に手を引っ張られて僕らはコートへ躍り出た。休憩中とはいえ、一部の元気な部員は遊びの延長のような練習を続けている。しかしそれにしたって制服姿のふたりが現れれば少し注目が集まった気がした。
「じゃあワタシがトスするから。思いっきりスパイクを打ちなさい」
バレーボールを構えた桜庭さんは間髪入れずにそれを真上に打ち上げた。
「わわ、ちょ、まっ!?」
慌ててジャンプしてみたものの、タイミングは大きくずれて右手はボールをたら得ることすらできなかった。コロコロとボールが床を転がる。
「あなた、下手ね」
「さすがにもう少し心の準備が欲しかったよ!? いや下手だけど! 下手なのは否定しないけどさ!?」
恥ずかしさやらなにやらで、衝動のままに叫ぶ。体育館に響き渡って、逆に恥ずかしさが増した。慌てて縮まり込む。
その間、桜庭さんは何やら顎に手を当てて考え込んでいた。
「……さっきと同じようにボールを上げるわ。今度はちゃんとボールを見て、さっきよりもワンテンポ早く飛びなさい。あとは細かいことはいいから、思いきり右手を振りぬく。いい?」
「う、うん。わかった」
「大丈夫。あなたなら飛べる。あなたなら、打てるわ」
桜庭さんは少しだけ唇の端を上げて、微笑んだ。
それを見たら、なんだか自信が湧いてくるような気がした。やれる気がした。
再び、桜庭さんがボールを打ち上げる。さっきのアドバイスを思い返しながら、僕はチカラの限りに床を蹴った。
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