第77話

 いつからか、なんて覚えていない。

 私が記憶している母と姉は、いつでも私をせせら笑っていた。

 可愛げのない、みっともない、嫌われ者の出来損ない。

 どうしてお前だけ普通ではないのかと言われ続けた。

 何が普通なのかの判断基準も持たされなかった頃から。


 周囲の子どもより少し背が高かった。

 公園のブランコで遊ぶより、家で本を読んでいるほうが楽しかった。

 話の合わないクラスメイトと無理やり遊ぶより、アニメを見ているほうが心が安らいだ。


 ただ、それだけのことだったと、自分では思っているのだけれど。


『百花は友達がたくさんいるのね、いい子ね』

『百花は小さくて女子らしくて可愛いわね』


『千早はいつも一人ね。嫌われ者だなんて、親が恥をかくのに』

『千早は何でも出来て可愛くないわね。もっと控えめに出来ないの』


 言われている言葉の意味が分からないまま、そうか、私は全てにおいて姉に劣っているのだということだけ理解した。


 年もさほど離れていないせいもあって、私はあっという間に姉の身長を追い越した。

 どんどん伸びる身長に合わせて、妹の私のほうがいつも新しい服を買い与えられた。どれもこれも私の好みではない、私には似合わない服ばかりだったけれど。

 しかし『姉が妹のおさがりを着ている』という、世間一般とは逆の我が家の習慣に、姉が切れたのは仕方が無かったのかもしれない。

 でもそれは、私が悪いのだろうか。どんどん高くなる身長は、私の意志とは関係ないのに。


 姉が落ちた高校に私が合格したのも、良くなかったのだろう。ただその高校を受験するよう私に強いたのは母なのに。受けて、わざと落ちればよかったのか。


 家に居場所が無く自室に籠って本ばかり読んでいる私を気にかけてくれた家族は父だけだった。でも企業法務担当の弁護士だった父は、土日も仕事か書斎にこもるかのどちらかで、あまり『家族』という近さを感じることはなかった。

 ただ、通知表でオール五を取ったときも、高校に合格した時も、手放しで褒めてくれたのは父だけだった。だから私はあの家にいることが出来た。母も姉も、父に逆らうことはしなかったから。


 物静かで本を読むことが好きで、家にいる時もいつもきちんとしていた父。タバコも酒も好まず、少し時間が出来れば近所を散策し、家族のためにケーキを買ってきてくれるような人。私だけでなく母にも姉にも同じように優しい。

 私は父が好きだった。父のようになりたかった。だから頑張って勉強したし、父が読むような本をたくさん読んだし、家にいる時もだらしない姿を人に見せることは無かった。


 なのに、私が父のようにふるまうと母と姉は私を否定した。

 それはきっと、『私』だからなのだろう。私がするから、ダメなのだ。父ならいいのだ。


 けれど、父も私を理解して愛してくれていたわけではなかったことを知る。


『あの子は何を考えているのかよく分からない』


 偶々遊びに来ていた親戚に、父がそう零すのを耳にした。私の名前が出ていたわけではないが、私を指す言葉であることは明瞭だった。その一言が、私の中の父との関係を木端微塵に吹き飛ばした。


 その日、私は大学卒業と同時にこの家を出ることを決意した。


◇◆◇


 もう三十分はとっくに経っているだろう。つっかえながら思い返しながら話した自分の子ども時代は、矢崎さんにはどう映っただろうか。いや、考えるまでもない。さぞや無様な子ども時代だろう。でも仕方がない。これが私なのだから。


「お恥ずかしいですが、そんなこんなで実の家族に全く理解されていない人間でして」

 冷めきったコーヒーを誤魔化しついでに一口飲む。ぬるくて美味しくない。

「父はまだましなんですけどね。でもやっぱりあえて連絡しようとは思わなくて、ズルズルと八年経っちゃいまして」

「……ずっと、一人なのか? 卒業式から?」

「そうです。ブライトのお給料が平均より多いので助かってます。お蔭で家族に頼らずに済んでますので」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 矢崎さんはまるで自分が悪いことをしたかの様に私から目を逸らす。だよねー、こんなドツボな話聞かされたら、嫌な気分にしかならないって。


「ほんとすみません、お疲れのところにしょうもない身の上話を……」

「淋しくはない?」


 とっとと締めくくって逃げようとした私の言葉とは全く違う方向の気遣いをいただいてちょっと驚いた。淋しい。

 もう一口ぬるいコーヒーを飲んだ。


「正直……、あの家族と一緒にいるのは苦痛でしかないので、淋しいと思ったことはただの一度もありませんでした」

 ひどく残酷なことを言っていると、自分でも分っている。特に父に対して。今日だって気にかけてくれていた。なのに私は感謝など一片も感じてはいないのだ。


「仕事で父と連絡を取る必要があるのは全く問題ありません。ただ、その縁から、実家とのかかわりが増えるのは本意ではありません。でもそれは私と父で考えるべきことですから」


「わかった。成瀬氏との折衝は全部俺がやる」


 あれ、私が言ったこと通じてなかったかしら。


「どう見ても今のお前は無理してるよ。成瀬氏が連絡相手にお前を名指ししてきたとかならまだしも、そんな事実はないし、今の話を聞く分にはそんな方じゃなさそうだ。だったら俺が引き受ける。その分他の業務を負担してくれればいい。これはリーダーからの指示だと思ってくれ」


 それだけ言うと、矢崎さんは力強く頷き、空になっているカップをトレイに乗せて立ち上がった。


「さ、戻ろうか。先方にご挨拶のメールも送っておいてくれ。あ、俺と佐々木さんもCC入れてな」


 あっという間に業務に切り替えてくれた矢崎さんに、私は心から感謝した。こういう人だから、全てを信頼してついていける。


 広い背中を見つめながら、しかし今夜するべき話を思い出し、気づかれないように一つため息を吐いた。

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