第66話

 地元なのに家の近くにどんな店があるかよく分からないと言ったら、矢崎さんが『なんとなくこっちじゃない?』と言いながら歩き続けた先に、チェーン店のカフェがあったので、そこへ入った。


 飲み物を持って席に座る。あまり混んでいないのが有難かった。

 座った途端、矢崎さんが二つ折りになった。


「ごめん!本当に、さっきはごめん!」


 目立ってます!めっちゃ目立ってますから止めてください!!

 私が慌てるのを見て、周囲の視線に気づいたらしい。とりあえず声のボリュームは下げてくれた。


「立花みたいなことはしない、なんて言っておいて、奴と同じようなことをやっちまった……。本当にすまない」

「いえ、その……、こちらこそすみませんでした」

 私は矢崎さんと鏡対象のように頭を下げる。だってあれは私がよくない。

「矢崎さんは別に乱暴をしたわけじゃないですし、私こそ……、いい年してあの程度で動転しちゃって恥ずかしいです。申し訳ありませんでした」


 早口で謝る私に、矢崎さんは困ったように笑う。

「そんな仕事口調にならないで。それに年齢なんか関係ないでしょ」

「いえ、そこは本当に年齢不相応なんです……」


 カプチーノの泡が消え始めていることに気づいて、私は口をつける。ヒゲにならないように気を付けなきゃ。

 カフェインで気持ちを落ち着けて、私は自分の恥ずかしい話を口にする。


「あの、私……、今まで男性と付き合ったことって、一回しかないんです」


 大学時代の同級生だった彼を思い浮かべながら言う。正確には思い浮かべようとして失敗しながら。生涯ただ一人の彼氏なのに、顔も、フルネームも思い出せない。どんな人だったっけ。


「……本当に?」


 案の定、矢崎さんは目を丸くして驚いている。そうだよなぁ。


「だから反射的に怖くなっちゃって。落ち着いて考えたら矢崎さんなのに、怖がる必要ないのに、バカですよね。恥ずかしいです」

 アハハー、と笑った自分の声が何ともわざとらしいが、笑いたいし笑って欲しい。

 でも矢崎さんの顔はどんどん深刻になる。


「ごめん、尚更ごめん。年齢なんて関係ないよ、女性はどうしたって力じゃ男に敵わないのに、君の一瞬の拒否に気づかないふりをした。しかもほとんど経験がないなら恐怖を感じるのは当たり前だ。謝ってすむ問題じゃないけど、ごめん」


 私は首を振って否定する。そして、『元カレ』のことは思い出せないまま、大学時代を反芻していた。


 同じゼミで、教授も交えた飲み会で、皆がいる中で告白された。びっくりして固まっているうちに、周囲に囃し立てられ流されるまま、付き合うことになっていた彼。

 いい人だったと思う。家と学校の往復の生活だった私を、色んな所へ連れて行ってくれた。私の好みを聞いて、それに合わせて予定を組んでくれた。


 初めてのキスもセックスも、もちろん相手は彼だった。

『付き合ってるんだから、いいよね?』

 最初の夜はそんな風に許可を求められた気がする。男の人に抱かれるということがどういうことか分かっていないまま、そう言われると『そうすることが普通なのか』と解釈してしまい、流されて頷いた。


 卒業目前で、彼から地元に帰ると告げられた。東京から新幹線で何時間もかかる帰省先を聞き、私は自動的に別れを受け入れた。

 卒業式の日、『元気でね』と伝えたらとても驚いた顔をしていた。彼が驚いたことに私も驚いた。後から、彼は別れるつもりはなかったのかもしれない、と気づいた。大分後になって。

 しかしその時は、私は泣くことも無かった。家を出て一人暮らしをすることばかり考えていたせいかもしれないが、うん、そういうことだ。彼との生活よりも自分の新生活のほうが大事だったのだ。


「……その人のことも、本当に好きだったのか分かりません。多分私には、そういう機能が抜け落ちているんだと思います」


 自分ではない他人に恋をする。自分だけのものにしたいと思う。自分の一番柔らかい場所を明け渡す。相手を理解して全てを受け入れる準備をする。

 大学時代の彼がそうしてくれたように。

 だから。


「あの時のお返事、今してもいいですか?」


 やけに自然に、その言葉が出てきた。まるでずっと準備してきたかのように。本当は、言ってる自分でも驚いていたのだけれど。


「矢崎さんのことは、上司として人として、尊敬しています。多分、他の誰よりも。でも男性として意識することは出来ません。ごめんなさい」


 言い終わると、最初の矢崎さんよりも深く頭を下げた。言い辛かったが、しっかりと矢崎さんの目を見つめながら、出来るだけ静かに端的に分かりやすい言葉を選んで伝えた。言い終わってから、ずっと不安定だった心の一部が突然安定したような気がした。


「待ってくれ」

 勝手に終了気分だった私を、矢崎さんが否定した。

「待ってくれ。まだ答えを聞くとは言ってないよ」


 微かに首を振り、ぎゅっと目を瞑ると、再び顔を上げて私を見返してきた。


「あの時も言ったよね、もっと君との距離を縮められたら聞くって。まだ全然近づけてない。もっと俺の知らない君を知りたいし、俺のことを理解してもらってもいない。まだ早いよ」

「でも……」


「せめて俺が立花と同じ位置まで行けてから、決めて欲しいんだけどな」


 ……来人、ですか?

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