第52話
「じゃあ、今日はありがとうございました。話聞いてもらった上に奢ってもらっちゃって」
店を出たところで森がきまり悪そうに頭を下げた。
「いいのいいの。突っ走る前に相談してくれて助かったわ。……プライベートなことに口出ししたくないけど、仕事と全く関係ないってわけじゃないからね」
「……そうすね。俺も今のチームはすごく居心地いいんで、壊したくないです」
しょぼくれる森の肩を『よしよし』というように何度か叩いて、それぞれの駅の方向へ向かって別れる。何度も頭を下げる森を、私は立ち止まって暫く見送った。
さて、と。私も帰ろう。
時計を見るとまだ終電前だ。信号を渡った先に地下鉄入口を見つけたのでその方向へ歩き出した瞬間、肩を叩かれた。
驚いて振り返る。あら……?
「や。お疲れ様」
矢崎さん。
◇◆◇
信号を渡る前に声を掛けられ、そのまま駅とは反対方向にあるバーへ連れてこられた。
「ちゃんと家には送り届けるから。一杯だけ付き合ってよ」
はあ。まあ金曜日だし、いいか。
「じゃ、一週間お疲れ様」
「はい、お疲れ様です」
矢崎さんはバーボンのロックを、私はミモザを注文し乾杯した。
「立花、さすがだな。すっかりうちに馴染んでる」
一口飲んだ後、矢崎さんが切り出した。私も頷く。
「同じことを野村君も言ってました。そつがない子だとは思ってましたけど、あっという間でしたね」
ああそうだ、森が言っていた噂話。
「彼はヘッドハントされて入社したって噂が出回っているみたいですよ。立花君も本当のことは言えないから笑ってスルーしてるみたいですけど」
矢崎さんはサンドイッチをつまみながら驚いたような表情をした。
「ヘッドハント?そりゃまた……。まあそんな噂をされるくらい、優秀だって思われてるんだろうな。見掛け倒しにならないよう、発破かけてやろう」
微かに意地悪げに微笑みながら、バーボンのグラスを持ち上げる。楽しそうですね矢崎さん。
私も飲み物に口を付けた。ビールや焼酎ばかり飲んでいたのでカクテルがやけに甘く感じる。
「かけちゃってください。ついでにプレッシャーも。なんか余裕かましてて腹立つんで」
まだ一週間なのに社歴では先輩の森を呼び捨てにしてるし、会社では苗字で呼んでくれと頼んだにも関わらず気が抜くと『千早』と呼ぶ。まだ本格的にプロジェクトが始動していないが故の余裕だとしたら、ここは矢崎さんにビシッと厳しくしてもらったほうがいい。
酔いも手伝ってか、来人を思い浮かべるとムカムカしてきて、カクテルをビールみたいにがぶ飲みしてしまった。やばいちょっと落ち着こう。
バーテンさんにお代わりを注文し、ふと横の矢崎さんを見ると、彼もジーッとこちらを見ていた。え……なんでしょう、か?
矢崎さんは左肘をカウンターに付いて頬杖付きながら、ぼそっと呟いた。
「仲いいんだな、本当に」
……誰のことですか。
「立花が一方的に押しまくってるのかと思ってたが、実はそうでもなさそうだな」
口元も口調も笑いを含んでいるはずなのに、矢崎さんがやけに淋し気に見えた。
が、そのセリフは聞き捨てなりませぬ。
「実はそうでもない、ってなんですか」
高級そうな場に相応しくない、尖った声を出してしまったが、今更ひっこめられない。
「あの押しの強さは私も持て余してるんです。いい子だとは思ってます。プロジェクトで知り合う前から知ってますし……。でも大歓迎ってわけじゃないです。そんな風に思われるのは心外です」
矢崎さんから視線を外し、自分の手元をじっと見つめながら一気にまくし立てた。何故か、来人にぐいぐい迫られていることを、私が『歓迎している』とは思われたくなかった。それは『本来の自分じゃない』と、知って欲しかった。
いや、自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。
ここ最近の、『たら』が『立花来人』で『ゆるり』が『成瀬千早』だと互いに認識した時から少しずつずれ始めた、現実世界の自分と本来の自分。
そのズレに対する違和感はずっと感じていた。しかし思いがけず心地よさを感じていたせいか、流れに任せてしまっていた。
でも。
あの時から、『ズレ』が急速に大きくなっていった。ズレるどころか、本来の自分と遠く隔たっていくような変化、というより恐怖。
違う、こんなのは私じゃない。
元に戻らなくては。
どこかからそんな声が聞こえて来ていた。
一方で、このまま流されてもいいのかもしれない、とも感じながら。
どちらの声を聞けばいいのか迷っていたが、今の矢崎さんの言葉ではっきりした。
私は、本来の自分に戻りたい。戻らなければいけない。
何故なら、そんな自分しか知らないから。
ぎゅっと目を瞑ると、次々に来人の顔が浮かんでくる。なんでアレが。しかも来人を思い浮かべると気持ちが落ち着くのはなんでだ。
今私を不安定にさせているのは、来人なのに。
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