第42話

 その週末は、病み上がりもあるかもしれないが、いつも以上に何もする気になれずにぼんやりと過ごした。

 心配を掛けると分かっていたが、スマホの電源も切り、パソコンも立ち上げなかった。

 掃除機を掛け、洗濯をし、シャツにアイロンを掛け、冷蔵庫の整理をした。買ったけど開いていなかった本を読んで、トイレ掃除をした。

 

 そもそも家事は得意なほうではないけれど、この家には私しかいない。快適に過ごしたければ自分が清潔に整えるしかない。年末の大掃除と呼ぶには日常の範囲しか手をつけなかったけれど、それでも体を動かしている間は余計なことを考えずに済んだ。


 このひと月ほど、私にしては珍しい事件があれこれ起こった。

 普段はあまり感情的にならない部下に怒りをぶつけられ、失恋話を聞き、良き先輩だとしか思っていなかった人にプロポーズされ、チャット仲間が実は取引先担当者の上に私に特別な感情を抱いていると言われた。


 そして先日は数年ぶりに姉と直に会った。実家に帰りさえしなければ、顔を見ることはないと高をくくっていたが、お互い都内に住んで働いているのだ。可能性はゼロではなかったのだ。暫く会わずにいれば、という私の淡い期待は全く無駄だったと思い知る。話に聞くパニック発作のような息苦しさと吹き出す汗、このまま死んでしまうのかと思ってしまう苦しさと恐怖は、少しも変っていなかった。


 すっかり暗くなった窓の外をぼんやりと眺める。カーテンを閉めなければいけないが、綺麗な半月に見惚れ、暫くそのまま見つめていた。


『姉妹なんだから、仲良くしたら』

『お姉ちゃんは千早のために言っているのよ』


『あいつは何考えているかよく分からん』


 母の、父の言葉がリフレインする。つけっぱなしにしているラジオの声もかき消される。まるで幼い時の自分の心の声のように。


 違う、そうじゃない、私が言いたいのは。

 必死で考えて言葉を組み立てて声を出そうとする前に、私の思いは全て無視された。『普通』という壁に跳ね返されて。


 友達を作れないことはそんなに悪なのか。外でブランコに乗るより部屋で漫画を読んでいることの、何がそんなに劣ったことなのか。男の子にバレンタインのチョコを渡さずに、好きなアニメキャラのイラストを部屋に飾るのはそんなに奇異なのか。


 私が父母姉みんなの思い通りの娘で妹にならなかったことは、私の意志をすべて蔑ろにしてもかまわないほどの悪なのか。


 じゃあそんな私は一緒にいないほうがいいんだね。

 そう考えて大学卒業と同時に、許可も取らずに家を出た。卒業式が終わったその足で。最低限の連絡先として電話番号だけは伝えたが、新しい住所も携帯電話の番号も教えなかった。盆暮れ正月にも帰ることはない。それでも何も言わないということは、やはり私は居ないほうが良かったのだ。


 姉に散々罵倒された私の趣味は、いつの間にか私の中でも『隠さなければいけない側面』になっていた。だから決してそういう人に見られないよう、見た目から変えていった。在学中に出来る限りの資格を取り、親に一切頼らなくても一生一人で生きていける収入を得られる仕事をしたくて今の会社に入った。他人から見た自分がどんな人間に見えているか分からないが、プライベートに口を出されたことは一度も無かったから、それなりに鎧は機能していたのだろう。だから安心していた。油断していた。


 多分来人は、始めは私の不可侵領域に踏み込もうとしたわけではないのだろう。いつの間にかバーチャルな世界を通じて、そこへ人を招き入れていたのは自分だ。そう、もしかしたら人恋しかったのかも、しれない。

 その来人がリアルでも関係がある人間だったのは、どちらの落ち度でもない。不幸な偶然なのだ。


 私は膝を抱いて丸くなる。

 あっという間に私の内側に居場所を作ってしまった来人が、怖かった。

 そうだ、今私が来人に対して抱いている感情は『恐怖』だ。次に何をしてくるか分からない。来人の言動に、自分がどんな反応をするのか、何を感じるのか予想が出来ないことが怖い。そして私が戸惑っても、一時停止はしても遠ざかることは決してないだろう意志の強さが怖い。


 しかも来年からは同僚とか……。本気で逃げ場が無くなる。

 

 私は一人でいい。一人がいい。ほんのかすり傷すら怖くて他人に近づけない私は、誰かの好意を受ける資格なんか無いし、無いままでいい。


 人と一緒にいることが幸せだなんて、誰が決めたの。

 そうじゃない人の幸せは、どうして認められないの。


 そんな心のつぶやきすら、十代の頃からほとんど進歩が無いことに気が付いて、泣きながら笑ってしまった。笑ったら、少しだけお腹が空いた気がして、やっと私は立ち上がることが出来たのだった。

 

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