第4話 大学生活

 ふたりきりになる瞬間は、すぐに訪れた。

 佐藤教授から諏訪さんとこの前の巻物の資料をまとめておいてほしいとメールが来た。

 二つ返事で返したものの、正直どんな顔で会えばいいのか分からなかった。

 諏訪さんの部屋は研究室から少し離れていて、佐藤教授からも距離がある。

 扉を叩くと、どうぞと返事があったのでゆっくりと開けた。

「ひっ……」

「人の顔を見て、悲鳴を上げないで下さい」

「ご、ごめんなさい……」

 まだ片付けを終えていないのか、ダンボールが積み上がっている。

「僕も手伝います」

「いやでも……」

「手伝うように、佐藤教授から言われてますから」

「それって巻物の資料の整理だけでしょう?」

「ふたりで片づけた方が早く終わりますよ」

 僕が近づくと、諏訪さんは一歩後ろへ下がる。同じ部屋にいるのに、心の距離は遠すぎる。そうさせてしまう、僕の態度がいけないのだ。

「……あ、あの、じゃあお願いします」

「嫌だったらいいんですよ」

「嫌なわけないじゃないですか! 良い香りがするので、驚いただけです」

「良い香り?」

「金木犀の香りがします」

「……………………」

 確かに、今日は金木犀の香水をつけてきた。

「僕、その香り好きです。あなたに似合います」

 諏訪さんは笑うと、眉毛が困ったようにハの字になる。胸の奥が鷲掴みにされた気分にさせるのだ。なぜだか分からない。

「ごめんなさい……生徒への言葉じゃないですよね。さあ、片づけましょうか。片づけたらココアを入れます。ちょっと自信があるんですよ」

 ココアの入れ方に自信のある諏訪さんは、驚くくらいに片づけができない人だった。ずれた眼鏡を何度も元に戻し、本にはココアの跡だろうシミも発見した。

「その本、知っていますか?」

「…………シミ」

「ああっ……すみません! 猫にやられたんです」

「猫」

「はい、猫です。好きですか?」

「…………好きです」

「僕も好きです」

 またも困ったように笑う。なんだろう。ふわふわする。

 一時間以上かかった作業は、片づけが苦手な僕らにしてはなかなかのものだ。ちょっとだけ、どや顔したい。

 約束通り、諏訪さんは美味しいココアを作ってくれるという。

「それがココアですか?」

「純ココアです。甘味料が入ったものはあまり飲まないんですよ。自分で作る作業も楽しいし、これならミルクの量も調節できますし」

 粉をマグカップに入れ、ミルクを少しずつ入れて練っていく。沸騰直前でスイッチを切った。わざわざ卓上型のクッキングヒーターを持ち込むあたり、本格的だ。

「ミルクで甘みが出ていますが、足りなければ砂糖を足して下さい」

「ありがとうございます」

 熱すぎず、ちょうどいい温度だ。舌にまとわりつくような甘さはなく、軽くて飲みやすい。するする喉を通っていく。

「もっとお砂糖入れなくていいですか?」

「大丈夫です。ちょうどいい甘さです」

「甘いの好きだって話していたんで…………あっ」

 顔に出やすい、素直なタイプらしい。

 確かに例の店で話した記憶がある。彼も甘いものが好きだと聞いた

 僕はカップを置き、何も聞かなかったと知らないふりを通した。

「飲み物は、甘すぎるものは苦手なんです。これはちょうどよくて飲みやすいです。あと、甘いものはお菓子というよりフルーツです。桃とか、葡萄とか」

「なるほど」

 力強い「なるほど」を頂いた。ココアを作るとき並みに真剣な顔だ。

「和食と洋食では、どちらが好きですか?」

「……洋食です」

「同じです」

「和食ではなく?」

「グラタンや、シチューが好きなんです。夏でも食べたくなります」

 ココアを半分ほど飲んだ後、巻物について話を振った。諏訪さんは目の色が代わり、真剣に僕の話に耳を傾けている。

 こうしてみると、やはり教授に近い人だ。質問をすれば答えが想像以上に倍返しとなるし、何か述べれば違う角度から意見をくれる。説明も分かりやすく、優しい声だからなおさらずっと聞いていたくなる。

 佐藤教授の研究グループに加わった理由として、巻物に描かれていた土器が気になっているのだそう。どこかで見たことがあり、思い出せない。もしかしたら発掘作業のとき、ふとした瞬間に目に入ったのかもしれないと、彼はひどく悲しげに言う。

 僕は少しでも、力になりたいと思った。


 アルバイトのない夜は憂鬱だ。

 食事をしていると、赤ん坊の泣き声がして箸を放り投げたくなる。そこまで子供嫌いなわけではなかったのに。

「坊ちゃん、醤油とソースはどちらがよろしいですか?」

「醤油で」

 今日の夕食はエビフライ。頭つきだと豪華に見える。

 エビフライは和食と洋食のどちらだろうか。タルタルソースをかければ洋食、醤油だと和食に感じる。洋食派でも、エビフライに醤油は絶対。

「やっと泣き止んだわ」

「元気な赤ちゃんですね」

「ええ。ミルクもよく飲むし、あの様子だとすぐに大きくなるわね」

 赤ん坊を寝かしつけてきた母がやってきた。目の前に座り、美味しそうなエビフライに歓声を上げる。迷わずタルタルソースを選ぶ。船木さんのお手製だ。

「今は大学で何を調べているの?」

 赤ん坊の話題に乗らないと分かると、母は話題を変えてきた。

「巻物とか、古墳とか。いろいろ」

「楽しい?」

「うん」

 会話終了。居心地が悪い。

 今日の諏訪さんとの会話の方が、もっと長く続いた。

 終わらせようとする僕にも原因がある。

 何かから逃げたくなくて、夕食だけは米粒残さず全部食べた。ここまで残さなかったのも久しぶりだ。

 自室に戻り、勉強の前にベッドに横になって端末を開く。メールが二通来ている。

──今日は資料のまとめをどうもありがとう。諏訪准教授も君の頭の良さに驚いたそうです。

──今日はありがとうございました。片づけが苦手なので、助かりました。

 前者は佐藤教授、後者は諏訪准教授。

──恐縮です。もっと勉学に励みます。

──お役に立てて何よりです。ココア美味しかったです。ありがとうございました。

 それぞれにメールを送る。また作って下さいとも送ろうかと思ったが、准教授の方だし図々しいかもしれないと、ありきたりな言葉に留めておいた。

──良かった。全部飲んでくれてほっとしました。よければまた作りますので、飲んで下さると嬉しいです。

 僕の心の中を読まれてしまった。まるでエスパーだ。

 ココアの味を思い出し、なんだかほんわかして勉強に身が入らなかった。


 五月の連休の予定はというと、アルバイトくらいしかない。母が再婚するまでは、休みを取ってふたりで出かけたこともあるが、今年はまだ立つことすらままならない子供がいる。義父は出張でいないとなると、母が面倒を見るしかない。

 買い物を済ませ帰ろうとしていると、見覚えのある横顔がカフェの中にいる。美しい女性と一緒で、何か話していたかと思うと女性はカフェを飛び出して出ていってしまった。

 男性とばっちり目が合う。どうしたらいいのか迷っていると、先に彼から手を振ってくれた。僕は深々と頭を下げる。

「……………………?」

 男性は手招きをし、椅子を指差した。呆然とする僕に、今度はメニュー表を広げてこちらに向けてくる。

 頭を振ることもできず、手招きのままにカフェの中に入った。

「お久しぶりです」

「やあ、ナズナ君。私服姿で会うのは初めてだね」

「はい、司馬さん」

 旦那様はさすがにおかしいと思い、名前を呼んでみると、不思議そうな顔をされてしまう。

「私の名前を知っていたのかい? 嬉しいよ。さあ、座って。美味しいケーキをご馳走しよう。飲み物は?」

「あ、あの…………」

「遠慮することはないよ」

「……では、こちらと、これを」

 フルーツたっぷりのタルトと、ブラックコーヒーを注文した。ケーキは久しぶりだ。

「ふふ、楽しそうだね」

「司馬さんにお会いできて、嬉しいのです」

「……君は普段からそういう人?」

 質問の意図が見えない。

 頼んだフルーツタルトやコーヒーが来て、食べていいかと目線で送ると、どうぞと笑われてしまった。

「こういう仕事をしていると、いろんな人に出会う。詐欺師も会うし、金の亡者なんて山ほどいる」

「お金は大事ですよ」

「ああ、そうだね。確かにそうだ。困っているのかい?」

「アルバイトで事足ります」

「はは、それもそうだ。俺たちに夢を売ってくれていても、君にとってはアルバイトだ。いつか辞めるときが来ると思うと、寂しいよ。ナズナ君に会えるのは、とても癒しなのに」

「辞めるといっても、まだまだ先の話ですよ」

 僕たちはお金ありきの関係だ。それでも、癒しを求めて来てくれるのは嬉しいし、数ある人の中で選んでもらえるのは、有り難いやら申し訳ないやらでいっぱいだ。

「……ナズナ君がいつも側にいてくれたらいいのに」

 伺うような目に、僕はコーヒーカップを手に視線を逸らした。何か飲んだり食べたりしていれば、視線が交わらずに済む。

 知らないふりをし続けたら、左手に彼の手が重なった。

「君はいつもそうやって逃げようとする。寂しいよ」

「司馬さん…………」

「本気で考えてくれないかな? 俺の側にいるって。苦労はさせない。ここで会ったのは、偶然だとは思えないよ」

 振りほどけずに固まっていると、右手はすぐに離れていく。

 乗せた手は温かかったが、包まれているとこれじゃないと身体の芯から震え上がった。

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