第四話 いよいよ前日
なにか言いたげな
今日の私は午後から、包帯の交換や手術で切開した傷口の消毒などをするために、担当している患者さんの病室を回っている。これは、この科に来てからの大切な日課の一つだ。一般の人達は、こういうことはすべて看護師がしていると思いがちだけれど、実のところ私達のような研修医がする場合も多い。
看護師や先輩医師から離れて一人で回るようになった頃、内心は大丈夫だろうかとビクビクしていた私に、『オロオロしたり自信の無い手つきで処置をすると、患者さんはすぐにそれを感じ取って不安になる。だからそういう時はハッタリをかますつもりで、見た目だけでも偉そうにしていることも大事だよ』と教えてくれたのは、
ここ最近はそのハッタリが効いてきたのか、患者さん達からは「北川先生もあっという間に一人前の先生だねえ」と言ってもらえるようになっていたのに、あのピヨピヨさんという呼び名が知れ渡ってからは、患者さん達の私に対する扱いは逆戻りで、威厳もなにもあったものじゃない。まったくもって、あの呼び名を思いついた
「この二ヶ月で随分と、上手になったもんだわねえ」
私が傷口の消毒をして包帯を巻き直しているのを、横で見ていた患者さんの奥さんが、感心したように呟いた。
「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです」
「なんだか、我が子の成長を見ているようで楽しいよ」
ベッドに横になっている旦那さんが、ニコニコとほほ笑んでいる。最初の頃は具合が悪くて、こんな風に笑う元気もなかったのに、怒ることなく辛抱強く、私の消毒やら包帯巻に付き合ってくれていたっけ。
「傷口も
「いよいよ、シャバに戻れるってわけだね。ありがたいことだ」
「私の練習台からも解放されますよ?」
「いやいや。北川先生のお蔭で、
「
奥さんが笑っている。入院した当初は、心配そうな表情ばかりだったのが嘘のようだ。数日中に担当の先生から話はあるだろうけれど、そろそろ退院だと思う。元気になって良かったと思う反面、こうやってお話する機会もあと少しになってしまって、寂しいかもしれない。
「だって、しばらくはあのお役人さん達にかかりっきりだっただろ? お蔭でこっちは、随分と寂しい思いをしたものさ」
「でもあの人達も、入院中に看護師さんとお医者さんをしっかりデートに誘っちゃうなんて、ちゃっかりしてるわよね」
「お役人っていうのは、もっとお堅いと思っていたよ」
若いっていうのは本当に羨ましいねえと、笑い合っている御夫婦の言葉にギョッとなった。
「あ、あの、その話、どこでお聞きになったんですか?」
「デートの話? そりゃあ、入院患者とその家族の噂話の伝達力は相当なものだから」
「元気になってくると、それしかすることがないんだものねえ」
「えぇぇぇ……」
ピヨピヨさんの他にも、色々と情報が漏れているらしいのは何故なのか。またまた真犯人を探さなければ。
「とにかく、将来有望な官僚さんなんだから、逃がさないように頑張れ」
「あら、
「なるほど、それはそうだ」
「いや、なるほどじゃなくて……」
ほんと……亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。年配の患者さんには本当にかなわない。
+++++
「おいおい、もう少し優しくしなきゃダメだろう。そんな力任せに針を刺したら、いくら麻酔をしている患者さんでも痛いじゃないか」
夜の回診が終わって、他の研修医の子達数人と糸結びの練習をしていると、西入先生が笑いながら手元をのぞき込んだ。
「分かってますよ。今の相手は豚皮ちゃんだから、ちょっと八つ当たりをしているだけです」
そう返事をして、力を込めてプスリと縫合針を突き立てる。その様子を見て先生が顔をしかめて、わざとらしくブルブルと震えた。
「おおう、今のもかなり痛そうだ。せっかく教授に、切るのも繋げるのも上手いと褒められているんだから、本番でそんな手荒なマネはしないでくれよ?」
「当然です。私が痛い目に遭わせるのは、病院のルールを守らない患者さんや、言うことを聞かない患者さんだけですよ」
病室を仕事場にしちゃうような患者さんは特に!! あの全員に、痛い注射をお尻あたりに刺せたら良かったのにと、わりと本気で考えている。
「なかなかの手さばきだが、まだまだだな北川」
西入先生の後ろから、東出先生がヒョッコリと顔を出した。
「うわあ、出た!!」
「俺は幽霊か」
驚いて思わず手に力が入ってしまい、持針器が手から滑り落ちた。
「あらら。突然のアクシデントにも冷静でいないと。オペは終わるまで、なにが起きるか分からないんだから」
「お言葉ですけど、手術室に東出先生がいきなり殴り込んでくることなんて、まず無いじゃないですか」
「俺はヤクザか」
不満げな顔をしながらもじっと私の手元を見ているのは、やはり縫合の出来を観察しているから。呑気に西入先生と二人で私のことをからかっている時も、あくまでも医師なのだ。しばらく観察して満足したのか、黙ったままうなづいた。
「とにかく北川、あれこれと便利なものを使いこなすのは良いが、あまり道具に頼るなよ」
「どういうことですか?」
まあ確かにここのメーカーの持針器は、使いやすさでは抜群だけど。
「うちみたいに、なにもかもがそろっている病院ばかりじゃないってことだ。薬が満足にそろわない地域だってあるんだからな」
「やだなあ東出先生、それって前に、
南山さんに後進国の医療事情の話をしていた時に、日本では考えられないような環境で、治療をしたり手術をしたりしている国もまだたくさんあるって話をしたのは、東出先生だった。たしか医科大で同期の先生が、今も紛争地域で医療活動をしているとか言っていたはず。
「私は今のところ、そこまで使命感に燃えてませんから。普通に国内で働きたいです」
「そんなこと言いつつ、ある日突然海外に行こうって気になるかもしれないだろ」
「そうかなあ……。私、もともと英語が苦手だし、日本語以外の国で生活するなんて、考えられないですよ」
そんな私の返事に、東出先生は何故か微妙な顔をして、見下ろしてきた。
「まあ人生何が起きるか分からないから、今のうちに色んなことを覚えておいた方が、患者さんのためになるだろうねってことが言いたいんだよ、東出は。普段の生活の中で、いきなり救命処置が必要な事態に遭遇することも、無きにしも
西入先生の言葉に納得。
「そこは頑張ります。まあスーパードクターとまではいかなくても、北川先生に診てもらえて良かったって、患者さんに言ってもらえるように」
「少年よ大志を抱け精神だね」
「私は女ですけどね~」
最後の一針を終えて、パチンと糸を切れば縫合終了。
「いかがでしょう?」
そう言いながら、東出先生におうかがいをたてた。
「うむ、まあまあだな」
思いのほか厳しい評価にガッカリする。
「先生は厳しすぎますよ。教授はほめてくれるのに」
「教授がなんと言おうと、俺からしたら、ほめる域までは達していないと言うことだ。現状に満足せず、もっと励め」
「精進いたしますです」
東出先生の厳しい採点にブツブツ言いながら、豚皮をヒラヒラさせた。自分では、今までで一番の出来だと思って大満足だったのに、先生からしたらまだまだらしい。ガッカリして、ヒラヒラさせていた豚皮を見ながらふと頭に浮かんだのは、何故かチャーシューだった。あ、気が抜けたら急にお腹が空いてきた。
「西入先生」
「なんだい?」
「チャーシュー麺が食べたくなってきました」
そんな私の言葉に先生が爆笑した。
「北川先生は絶対に俺以上の大物になるね、こりゃ楽しみだ」
「お前みたいなのがまた増えるのか……」
西入先生は愉快そうに笑っているけど、東出先生はその意見には賛同しかねるらしい。
「だったらうまい店を知っているから、今夜は特別に連れて行ってあげよう。皆もどうだ? 今夜は特別に俺と東出先生のおごりだ」
西入先生のおごり宣言に、その場にいた全員が歓声を上げる。
「なんで俺まで」
「今日はもうあがれるんだろ? だったらたまには、後進の者達におごるぐらいしてやれよ」
「だがお前の言う店って、ラーメン屋のくせにジャズを流しているあそこだろ」
「なんだよ、お前だってうまいって言っていたじゃないか。なんなら、オペラが流れる寿司屋でもいいぞ」
「やめろ、あそこの高さはシャレにならん」
だったらラーメン屋だなと西入先生がニッコリと笑い、東出先生があきらめたように溜め息をついた。
「分かった分かった。とにかく俺と西入でおごるから、ここに居るやつ全員ついてこい。三十分後に正面玄関だ」
そして行った先で、年中無休みたいな東出先生が、実のところ常連さんだという、意外な真実を知ることになった。もしかして東出先生は、本当に一週間が八日の世界に住んでいるのかもしれない。
「あ、そうだ」
そんなことを考えながら分厚いチャーシューにかじりついていると、西入先生がそうそうと思い出したように呟いた。
「ここの数軒先にパン屋さんがあってね。そこのクリームパンがとてもおいしいんだ。この時間だともう閉まっているから無理だけど、機会があったら一度買ってみると良いよ」
色々とお店を知ってるんだなあと感心しながら「ん?」と首をかしげた。
「西入先生、なぜ私がクリームパン好きだって、知ってるんですか」
「だって北川先生がなにか食べているのを見かける時は、だいたいクリームパンだからそうじゃないかなって。当たりかな?」
「……当たりです」
次からはクリームパンだけではなく、ジャムパンも食べることにしよう……。
そういうわけで明日は休み、ようやく私の大切なアヒルちゃんに再会できる日だ。
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