第二話 南山さんへの電話

「おい、北川きたがわ

「はい?」


 その日、遅めのお昼ご飯にとクリームパンを食べながら、西入にしいり先生から借りていた資料を読んでいると、東出ひがしで先生から声をかけられた。顔を上げると変な顔をされる。


「なんですか?」

「時間がないのは分かるが、食べるか読むか、どっちかにしたらどうだ」

「廊下を歩きながら、おにぎりを食べている先生には、言われたくないです」


 研修医の私は、医者としての仕事に加えて、先輩医師から言いつけられる雑用と自分の勉強で。そして東出先生は、人手の少ない救命救急のせいで。それぞれ、ゆっくりと腰を落ち着ける時間が取れない。それでもうちの病院は、まだ休みがとれる方で、良心的な病院なんだそうだ。


「それでなんでしょう?」

「次の土曜日は休みだそうだな」

「はい、おかげさまで」


 そう返事しながらイヤな予感がする。その日は久し振りに、よその病院に行くことも何とか学会の講演会を聞きに行くこともない、完全フリーな日だった。だから南山さんと会う約束をしたんだけど、まさかまさかで、なにか予定をねじ込んでくるつもりなんだろうか?


「ダメだよ、東出先生。あまり研修医をこき使うと、本物の医者になる前に辞めちゃうから」


 東出先生がなにか言おうとした直前に、笑いを含んだ西入先生の声が飛び込んできた。チッと舌打ちをした様子からして、イヤな予感は的中していたらしい。西入先生はそんな不機嫌な東出先生とは正反対に、今日も爽やかな笑顔を浮かべていて、とてもさっきまで、患者さんの大量出血で修羅場になった手術室にいたとは思えない。


「それにねえ、その日は北川先生には大事なデートがあるんだよね?」

「え?! なんで知ってるんですか?!」

「おや、軽くカマをかけてみたんだけど、当たってたのか」

「あ、あ、あ、あ、あ……っ」


 ひ、引っ掛かってしまった、しかも盛大に……。自分の間抜けさ加減に嫌気がさして、机に突っ伏す。


「ほらほら、君もそんな過保護な父親みたいな顔をするんじゃないよ」

「そんな顔はしておらん」

「ん? だったらもしかして、君も北川先生をデートに誘おうとしていたのに、何処の誰だか分からない若造に先を越されて、ご機嫌斜めだとか?」


 途端にブヘッと変な音がして、東出先生が飲んでいたコーヒーを噴き出す音がした。


「おいおい、俺の大切な医学書が汚れるだろ? それと北川先生の白衣も」

「ちょっと東出先生?!」


 もしかして私の頭上でコーヒーを噴射した?!と、慌てて体を起こして白衣を確かめる。


「北川先生は大丈夫。被害をこうむったのは、正面に立っていた僕だから」


 西入先生は、茶色い染みが飛び散った白衣をヒラヒラさせながら、酷いよねえと笑っている。


「とにかく僕達も、お昼ご飯を食べようか。空腹になると、人は苛々するって言うから」

「俺はとっくに食べた」

「そうなのかい? だったらアイスでもおごってあげるけど。どうかな?」

「要らん。俺は忙しいから戻る」

「そうか。まあ頑張れ」


 テーブルを離れた西入先生は、しばらくしてトレーを手に戻ってきた。


「北川先生は、大変な先生に目をつけられちゃったね」

「え?」

「デートの件は冗談だけど、あの様子からして、久し振りに教えがいのある若い子が来たから、どうしても救命救急に引っ張りたいみたいだよ?」

「教えがいじゃなくて、しごきがいがあるの間違いじゃ……」

「そうともいうかな」


 首をかしげて笑いながら「はい、僕からのおごり」と言って、プリンを私の目の前に置く。そのプリンを見て、なんとなく微妙な気分になった。


「もしかして西入先生のこれも、私を引っ張るためのエサなんですか?」

「んー? それは考えてなかったな、そういう手もあったか。ああ、大丈夫だよ、今さらプリンを食べたからって、うちの科に来るように無理じいはしないから」


 僕は優しいからねと、ニッコリと微笑む顔がものすごく怖い。


「それで? 本当にデートなのかい?」

「……ノーコメントで」

「ははーん。ってことは、相手はあの盲腸さんか」

「な、なんで……」


 分かったんですか? もしかして先生には、人の心が読める特殊な能力があるんですか?と言いたい。


「だって僕に言いたがらないってことは、相手のことを僕が知っている可能性があるってことだろ? だとしたら、休みが少ない北川先生の今の状況を考えると、可能性としてあげられる男性は、盲腸さんぐらいしかいない。そりゃ、北川先生に特殊な性癖があるというなら、話はべつだけど」


 僕ってもしかして、医者を辞めても探偵になれるかもしれないねと、先生は呑気に笑った。


「まあ貴重な休日なんだから、疲れない程度に楽しんでおいで。医者だって人間なんだし、気分転換は必要だ」


 中には必要ない人間もいるようだけどね、と付け加える。多分それは、東出先生のことだと思われるんだけど、ここに研修医としてやってきてそろそろ半年、西入先生はともかく、東出先生の姿を病院で見ない日は無いと言ってもいい。あの先生って、どうやって休んでいるんだろう? もしかして病院に住みついているとか?


「東出先生だって、気分転換は必要なはずですよね? どうやって休んでいるんでしょう?」

「もしかしたら俺達が知らないだけで、東出先生だけは一週間が8日間ある世界に生きているのかもね」

「えー……」


 それって一体どんなSFな世界?と思ってしまう。


「大丈夫だよ。間違いなく、あいつはあいつなりにきちんと休みは取っている。それが分かりにくいだけでね。それに多分、救命救急には近々、北川先生じゃなくて、南雲なぐも先生が行くことになると思うよ」


 南雲先生は私より五つ年上の外科にいる先生で、東出先生とは別の意味で熊さんみたいな人だ。


「なんでまた急に?」

「事務局長がね、衛生上の観点から、院内で歩きながらおにぎりを食べるのを、なんとしてでもやめさせたいらしい」

「なるほど。ここ最近は多いですものね、東出先生の食べ歩き」

「だねえ」


 面白がるような笑みを浮かべながら、塩サバを口に放り込む先生を見て、もしかしてという考えが浮かんだ。


「え? もしかしてあれって、東出先生の確信犯的犯行なんですか?」

「かもね」


 やれやれ、事務局長と東出先生の言い合いが目に浮かぶよう。



『東出先生! いいかげん、廊下で歩きながら食事をするのは、やめてもらえませんか! あああ、海苔のり欠片かけらが落ちましたよ!!』

『俺がゆっくり昼飯を食えるように、救命救急の人出を増やさないあんたが悪い。うちの人手が増えるまでは、なにを言おうとこのままだ』

坂北さかきたさん、モップ持ってきて! あ、東出先生、待ってください! 話はまだ終わってませんよ!』



 こんな感じのやり取りに違いない。


「まったく先生ときたら……」

「うちは救急で運ばれてくる患者さんにとって、最後の砦だからね。その砦を守る医師が、万全な体制でいられるようにするには、まずは人が必要だろ? あいつだって、別に事務局長のことを嫌っているから、イヤがらせをしているってわけじゃないんだよ」

「だと良いんですけど」


 たまに、東出先生と事務局長のやり取りを見ていると思うのだ。先生はあの事務局長を苛立たせるためだけに、あれこれやらかして、休めないさ晴らしをしているのではないかと。


「まあ多少は虫が好かないとは、思っているだろうけどね」

「ですよねえ……」


 お昼ご飯を食べ終わると、プリンのお礼を言って一足先に病棟へと戻った。その途中で、小児科病棟で今年から研修医として働いている、山中やまなか君と顔を合わせた。


 山中君は、小さい頃に大怪我をして入院をしたことから医者になると決意した子で、今年の研修医の中では一番熱意を持った先生だ。そんな山中君ではあったけれど、一週間前に病棟で小さな患者さんが亡くなった時は、かなりのショックを受けていた。患者さんに親身になることは大切だけど、あまり入れ込まないようにとは、医師だけではなく看護師の諸先輩方からのアドバイスだ。だけど、まだまだ私達にはその線引きが難しい。特に山中君の場合は、相手が小さい子だったから、なおさらのことだと思う。


「よう、ピヨピヨ先生」

「やめてよね、その名前で呼ぶの」


 その声はいつもの元気な山中君。この一週間で、少しは元気になったみたいだ。


「おチビさん達が、アヒルはどうしたって聞いてたぞ」

「戻ってきたら知らせるから」


 あれから、誰が小児科病棟の子供達にピヨピヨ先生の名前を教えたのか判明した。目の前にいる山中君だ。


「ってことは、戻ってくるアテはあるんだ」

「次のお休みの日にね」

「なるほど。東出先生からお声がかかって、休みがつぶれないと良いな」

「既に声をかけられて、つぶれかかった」


 私の返事に声を出して笑っている。完全に他人事だと思っているよね、山中君! 笑っている様子からして、かなり元気になったと分かって安心したけど。


「幸いな事に、西入先生が助けに入ってくれて、休みは保証されたから一安心だけどね」

「そりゃ良かった。だったら後は、休みの日まで東出先生と二人っきりにならないことを、祈ってるよ」

「うん。今日から休みになるまで、西入先生にくっついて仕事する」


 そのお蔭で、しばらくは北川先生は西入先生のストーカーなのか?とからかわれる事態になったけど、その点はアヒルちゃん奪還のためでもあるから気にしない。



+++++



 なんとか、東出先生の魔の手から逃れられそうな算段がついたその日、自宅アパートでベッドに寝っ転がりながら、南山さんから返ってきたメールを読み返していた。


『せっかくですので昼食を御一緒しませんか? 待ち合わせの場所と時間は、北川先生のご都合に合わせます』


 実のところ、南山さんから返ってきたこのメールを読んでから悩んでいる。


 お昼を御一緒しませんかと誘われているので、時間はお昼前というのはまあ良い。問題は、南山さんが、どんなお店に食事に行くつもりでいるのかってことだ。相手は羽振りの良い外務官僚さん。私のような、卵の殻がまだ半分くっついているような研修医達が、仲間内でワイワイ食べに行くようなお店と思っていて良いのだろうか? それとも、お店選びも私にさせてくれるつもりなのか。


「うーん……」


 悩んでいてもしかたがない。こういう時は本人に聞くのが一番。そう考えながら、壁にかかっている時計に目をやる。もう十時。こんな時間に電話をしても大丈夫だろうか?


「南山さんのことだから、まだ仕事してたりして……」


 そんな言いわけをしながら、登録した電話番号を出して発信ボタンを押した。


『はい!!』


 10コール目で切ろうと数えていたところで、慌てた声が耳に入ってくる。


「あ、夜分遅くにすみません、北川ですが……」

『こんばんは! どうしましたか? もしかして、お休みがなくなったとか?』

「いえ、ちょっと確認したいことがあって。あの、いま大丈夫ですか?」


 なんとなく声が動揺しているようなので、タイミングが悪い時に電話してしまったかなと心配になり、念のために確認しておく。


『ご心配なく。帰宅したところで、風呂にでもと思っていたところですから。あ、別に飲み歩いていたわけじゃないんですよ。その点はまだ養生してます!』


 こちらが考えていることが伝わったのか、南山さんは慌てた様子で付け加えてきた。


「お仕事でお疲れのところごめんなさい、手短に終わらせますね。えっと土曜日のことなんですけど……」


 飲み歩いていなくて、この時間に帰宅したばかりということは、仕事で遅くなったというわけで。それって養生しているとは言わないんじゃ?と、突っ込みたくなるのをこらえて、要件を切り出した。

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