第26話 白山菊理は死を迎える

 振り下ろされたのは、刃の形をした絶望だった。


 既に返り血を浴びていた上良栄治が、もう一度、新たな赤で染まる。


 殺した。


 間違いなく、死んだ。


 つむじからまっすぐ、刃渡りが60センチ以上もある巨大な鉈を叩きこまれ、西瓜のように頭を割られて生きている人はいない。


 あんなにも私を守ろうとしてくれた海星みほしさんは、私のせいで死んでしまった。


「あ……あぁ、ぁぁぁ……」


 倒れ行く海星さんの体にすがりつく。


 命がこぼれ落ちないようにと願いを込めて抱きとめる。


 無駄だと分かっていても、都合のいい幻想だと頭で理解していても、感情が現実を拒んだ。


「邪魔だ」


 上良栄治は私に向けてそう呟くと、海星さんの背中を踏みつけて勢いよく鉈を引き抜く。


 所々に錆びの浮かんだ刃が去り際に海星さんの頭の中で暴れ、頭蓋骨をかみ砕いた。


「やめ、あ……」


 骨という支えを失った顔の右半分が、冗談のようにずるりと崩れ落ち始める。


 私は必死に海星さんの欠片を手で受け止めようと試みたのだが、温かい血と正体の知れない液体が、私の手を濡らして……伝って床に落ちるだけ。


 何も、意味のあることは出来なかった。


「――稲次。美衣奈。沙綾」


 上良栄治が順に三つの名前を口にする。


 時が動くことを忘れてしまったかのようにシンとした教室の中、その言葉は今この場に存在する全員の耳にも届いた。


「お前ら三人だけは、絶対に殺す」


 殺す。


 命を奪う。


 その行動を宣言することと、実行することには大きな隔たりがある。


 普通の人間にはそれを踏み越えることなどできない。


 しかし上良栄治はたったいま、自分は出来るのだと証明してみせた。


 常識の域から異常へと踏み入ってみせた。


 その事実がゆっくりと浸透していき――。


「うわぁぁぁっ!」


 まるで爆発でもしたかのように、生徒たちの肺腑はいふから悲鳴がほとばしった。






 誰もが慌てふためき、我先にと教室から逃げ出し始める。


 瀑布の如き人の流れが教室後方の出入り口、ただ一か所に集中し、お互いのことなど知ったことではないとばかりに死に物狂いで外を目指した。


「ハハハハッ! マジでやりやがった! 殺しやがった!!」


 そんな中、ただ一人喜色満面で笑い声をあげた者が居る。


 稲次浩太だ。


 ほんの数メートル程度しか離れていない上良栄治を指差し、歪み切った感情を瞳に宿して高笑いしていた。


「バカだコイツ。ハハハハッ!」


 上良栄治が殺人犯となり、凶器を手に稲次浩太の殺害を宣言した。


 例え返り討ちにしてしまったとしても、間違いなく正当防衛は成立するだろう。


 事態は彼にとって有利な方向へとばかりに転がっていた。


 もちろん、それは作られたものだ。


 夜見坂 凪の手によって描かれた残酷劇グランギニョル


 否、人形劇グラン・ギニョールと形容すべきかもしれない。


 如何なるルートを通ろうとも、全ての路は殺戮の結末へと到達するのだから。


 誰も彼もが夜見坂 凪の操り人形にすぎなかった。


「…………」


 上良栄治は嗤われているというのに反論すらしなかった。


 する必要を感じていないだけだろう。


 なぜなら今、彼の手に握られている鉈を、稲次浩太の頭目掛けて振り下ろせば、未来永劫に渡って黙らせ続けることができるからだ。


「死ね」


 上良栄治はそう短く告げると、血まみれの鉈を振り上げ稲次浩太へ突進する。


 大股でたった二歩。


 しかし稲次浩太がただ眺めているはずもなかった。


 稲次浩太は傍らにあった机を足で眼前へと引きずり出して壁にする。


 それと同時に一歩後退して鉈の届かない位置へ退避した。


「残念、マヌケ」


 結果、鉈は稲次浩太を捕らえられず、代わりに頑丈な机の天板を浅く削るにとどまった。


「お前がな」


 上良栄治が諦めるはずもない。


 鉈を手放し学ランの裾をめくる。


 そこにはベルトとズボンの間に挟んだ包丁がずらりと並んでいた。


 上良栄治が何を考えているのか察したのだろう。


 絹を引き裂くような悲鳴があがり、逃げだそうとしていた者たちは必死に目の前の背中を押す。


 やめて、早く前に行って、助けて、殺さないで……。


 救いを求める言葉が溢れ出す。


「せぇっ!」


 稲次浩太が片耳を押さえながら怒鳴りつけたところでパニックに陥った者たちにはなんの効果も及ぼさなかった。


 上良栄治が無言のままに包丁を引き抜くと、稲次浩太目掛けて力いっぱい投擲する。


「うおっ」


 稲次浩太が慌てて身を屈めるが、そもそも包丁はまっすぐ飛んですらいない。


 刃を上にして、稲次浩太から左に1メートルほどずれた辺りを通り過ぎていく。


 しかし、教室の後方で固まっている者たちは、それすら避けようがなかった。


 後方に居た女子生徒の二の腕辺りに、包丁が刃を3センチほども突き立つ。


 恐らく包丁が刺さった女子生徒の命に別状はないだろう。


 それでもパニックを加速させるには十分だった。


「やっ……きゃぁぁぁぁっ!」


「お願い、早く行って、行ってよぉぉっ」


「押すなって!」


「邪魔だ!」


 前に居る者を突き飛ばし、踏みつけ、脱出を試みる。


 上良栄治が二本目の包丁を投擲するよりも早くに、ほとんど全員が教室の外へと逃げ出していた。


「――らっ」


 呼気を漏らしながら、上良栄治がもう一本、包丁を投じる。


 それを稲次浩太は机の影に潜り込むことで回避した。


「っぶねぇ!」


 更にもう一本、二本と投げつけていくが、それらもかざした机で受け止められてしまう。


 あっという間に、上良栄治が用意していた包丁は、たった一本になってしまっていた。


「ちっ」


 効果が薄いと判断したか、上良栄治は舌打ちをひとつすると、机の上から鉈を拾い上げる。


「おい、崎代と中水はいいのか?」


「まずはお前からだ」


 嘲る稲次に対して冷ややかに言い返す。


 稲次浩太は宮苗瑠璃を殺した犯人である。


 上良栄治にとっては一番に殺すべき相手であった。


「そうか――よっ」


 いつの間に拾い上げていたのか、稲次浩太が下手したてで包丁を投擲とうてきする。


 今度は上良栄治が避ける番だった。


 上良栄治は大きな体を必死に縮めながら、右へと傾ける。


 しかし、虚を突いて投じられたために当たる部分をずらす程度の効果しか得られなかった。


 左の肩口あたりに包丁が突き刺さってしまう。


 ただ、頑丈な学ランを食い破ったところで力尽きたのか、上良栄治が身震いしただけで包丁が抜け、床へと落ちる。


 成果としては、包丁の先っぽ、わずか数ミリほど血が付いているくらいか。


 いずれにせよ、ダメージになっているとは言い難かった。


「おーおー、ウドの大木はおっせーな」


「そういうお前はもやしか?」


 乱れに乱れた机と椅子たちを間に挟んでふたりは対峙する。


 上良栄治が凍り切った瞳と表情で。


 稲次浩太が喜悦に満ちた瞳と表情で。


 互いに同じ殺意を湛えて。


「頭からっぽのお前よかマシだがな。サツだらけなのに殺せると思ってんのか?」


 稲次浩太の言う通り、この学校には現在何十人もの警察官が詰めている。


 逃げ出した生徒たちが通報すれば、大挙して押し寄せてくるだろう。


 いや、こう話している間にも駆けこんで来るかもしれなかった。


 だが――。


「ハッ」


 上良栄治は鼻で笑いとばす。


「そんなこと、考えてねぇと思うのか?」


 そもそも上良栄治がこんな行動に出たのは、夜見坂 凪のせいだ。


 綿密に計画して、予想外のことがあっても柔軟にそれを利用して人を操る殺人鬼だ。


 警察官なんて要素、考慮に入れていないはずがない。


 なんらかの手段を上良栄治に与えているに決まっていた。


「今頃、


「ハハッ、サイコー」


 上良栄治は稲次浩太を怯えさせるために教えたのだ。


 それなのに引き出せた反応は恐怖とは真逆。


 当たり前だ。


 上良栄治が狂っている様に、稲次浩太も針が振り切れているのだから。


「お前を楽しませるためにやったんじゃねえっ」


「存在そのものが無様なんだよ、テメェは!」


 その一言が、上良栄治の逆鱗に触れた。


「――殺す」


 上良栄治は短く宣言すると、机を蹴り飛ばしながら稲次浩太へと迫っていった。

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