第11話 白山菊理は砂糖菓子の学校に通う

「――――っ」


 暴力を目の当たりにしてしまい、体が硬直して動かない。


 いや、それ以上に、棒を振り下ろしている存在――中水美衣奈の形相が、みたこともないほど憎悪に染まっていて……。


 私はそれほど憎くまれているのだと思ったら、簡単に許容範囲を越えてしまっていた。


 ――もうどうでもいい。私のことなんて……。


「このっ」


 一瞬、息が詰まり、視界がぐるりと回転する。


 海星さんが私の襟首を掴んで引っ張ってくれたのだと理解したのは、しりもちを着いた後だった。


「はっ……はっ……」


 海星さんの荒い息がやけに大きく聞こえてくる。


 背後からはガタンッと何かを蹴倒す物音の後に、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて、暮井刑事たちが私のために怒ってくれているんだと分かると複雑な気持ちだった。


「なにをしてるのっ」


「そいつに殺されたっ!!」


 海星さんの声量をさらに上回るほどの大声で、中水美衣奈が叫ぶ。


 叫びながら、箒を折って作ったと思しき木製の棒を私に向かって突きつけてきた。


「だから私もそいつに殺される前に殺すっ!!」


「いい加減にしなさいっ!」


 海星さんは素早く腕を伸ばしながら横に一歩ずれ、中水美衣奈の前に立ちふさがる。


 全身で以って、私の盾になってくれる。


「今のは明確な暴行未遂ですっ。立派な犯罪行為になるのよ!?」


「正当防衛だっ」


「なるわけないでしょうっ」


 きっといくら海星さんや周りの大人たちが言葉を尽くそうとも、中水美衣奈には届かない。


 恐怖に染まり、妄執にすがり、幻想の中に生きている。


 彼女の中では自身の考えだけが正しく、それ以外は間違っている。


――ああ、それって、今までもずっとそうだったっけ……。


「立てるかい?」


 暮井刑事が私の手を取り、強い力で引っ張り上げてくれる。


 そのまま立ち上がった私を背中へと隠し、暮井刑事もまた、中水美衣奈の前に立った。


「君、今ならまだ犯罪者にはならないで済む。その棒をこちらによこしなさい」


 凶器を持った存在と、素手の警察官。


 戦力的な見方をするのなら、中水美衣奈に勝ち目はない。


 しかし、暮井刑事の考えはそういった勝ち負けにはないだろう。


 海星さんは少し不満そうな表情で、一瞬暮井刑事へと視線を送ったので違うのかもしれないけれど。


「命令すんじゃねえよ、おっさん」


「まだ30代なんだから、お兄さんと呼んで欲しいねぇ」


「ふざけてんじゃねえっ」


 カツンッと、棒が床とぶつかり音を立てる。


 だが、激情をいっさい隠そうとしない中水美衣奈に対し、警察官のふたりは落ち着き払っていた。


「ふざけてなんかいないよ。年齢は男性にとってもデリケートな話題だからね。そうだろう、海星君」


「私に振らないでください」


 ふたりは何気ないやり取りをしながら、その実油断なく、じりじりと中水美衣奈との距離を縮めている。


 ほんの少しでもなにかきっかけがあればすぐさま取り押さえられるように、重心を下げ、足をわずかに曲げてを作っていた。


「とにかく話そうじゃないか。君も犯罪者になりたいわけじゃないだろう?」


「殺されるよりはずっとマシだろっ」


「それはそうだが、白山さんを殺したって解決しないかもしれない。まだ分からないんだよ」


「それはお前らが無能だからだろっ! こっちは分かってんだよっ!!」


 中水美衣奈が怒鳴りながら、もう一度凶器でこちらを指し示そうとした時だった。


 階下から、こっち! と、私が良く知っている声と共に何人ものひとがバタバタと会談を駆けあがってくる物音が聞こえてくる。


 それに中水美衣奈の気が取られた瞬間――。


 ダンっと激しい踏み込み音が鳴り、弾かれるように海星さんと暮井刑事が飛び出した。


 ふたりは、お互いがどのように行動すると示し合わせたわけでもないのに、流れるような連携を見せる。


 まず先んじた海星さんが中水美衣奈の下半身に組み付き、床へと押し倒す。


 その海星さんにわずかながら遅れるようにして突進した暮井刑事が、中水美衣奈の凶器を握りしめている方の手をきつく掴み、力づくで床に縫い留めた。


「このっ! 離せっ!」


 中水美衣奈が声をあげた時にはもう遅い。


 既にしっかりと組み伏せられ、身動きひとつ取ることができないようにされてしまっていた。


「ふぅ~……ご苦労様、海星ひとで君」


「み・ほ・しですっ」


 見慣れたやり取りを挟みつつ、ふたりは手慣れた動きで凶器を取り上げ、拘束を強めていく。


 そうしている間に、足音はどんどん近づいてきて――。


「な、なにかございましたか?」


 崎代沙綾を先頭に、スーツ姿の小太りな校長先生と、ベージュのポロシャツを着た生徒指導の先生が姿を現した。


 彼らは中水美衣奈が組み伏せられているのを見ると、あっと声をあげ、途端に及び腰になる。


 校長先生など、もはや揉み手でもしそうな勢いであった。


「も、申し訳ございません。中水が何か、なさいましたでしょうか?」


「傷害未遂、罪状としては暴行罪にあたります」


「えぇ……っ。そ、それはそのぉ……」


 教師ふたりそろって顔面蒼白になって警官ふたりの顔を交互に見ておろおろとするばかりであった。


「中水……さんが、そこの凶器でもって白山さんを襲撃したのです。咄嗟に私が白山さんを引っ張ったので当たりませんでしたが――」


「当たらなかった! それは良かった!!」


「良くありませんっ。加害する意図を持っていたのは事実です。当たらなかったのは結果論でしかありません」


 殺すつもりで拳銃を撃って、当たらなければ無罪。なんてことはありえない。


 そんなことは誰にだってわかる社会の常識。


 でもここは学校だ。


 子どもたちの権利が最大限守られ、例え自殺に追い込んだとしても無罪になり得るほどの治外法権が許されてしまう場所なのだ。


 そして今、海星さんの目の前に居るのは、そんな閉鎖社会の頂点に君臨しているひと。


「それもそうなんですけどね。中水もストレスがたまっていてこういう行動を取ってしまったんですよ。そういう意味では彼女だって被害者でしょう?」


「被害者って……」


 海星さんは、校長のあまりの言い分に絶句してしまう。


 でも、これが学校だ。


 覚えていないのだろうか。


 私たちはだれしも、こういう世界で生きてから世に出てくるのだ。


「ほら、この子の将来を考えてみてくださいよ。犯罪歴とかついてしまったら、就職にだって困るでしょう? 前途ある若者の未来を潰してしまうんですか?」


「……それ、は……」


「可哀そうでしょう? ですから、我々が守るべきなんですよ」


「…………」


 特にこの校長は、甘くて、甘くて、ひたすらに、そして無意味に甘い。


 子どもの将来という大義名分で、どんな色でも白くしてしまう。


 そうやって甘やかされるから、やってしまった方が得をすると誤解してしまう。


 それでもこの校長は甘やかすのを止めない。


 加害者でも被害者にしてしまい、それでいて誰も助けようとはしない。


 私は、こういう人に押しつぶされていたんだ。


「海星君」


 暮井刑事が、毅然とした態度で校長先生たちと向き合っている海星さんの肩を叩いて、同じ手で私の方へと小さく手刀を切る。


 その行動と申し訳なさそうな表情で、私は理解した。


「分かりました」


「では――」


 校長先生の表情が晴れやかなものになるにつれて、私の心は凍り付いていく。


 どうせなにも変わらない、と。


「はい。その代わりしっかりと指導をしてください。もう二度とこんなことが起こらないようにお願いいたします」


「それはもう……!」


 校長先生と生徒指導の先生は、ぺこぺこと頭を下げてお礼の言葉を口にした。


 そうして海星さんから解放されたばかりの中水美衣奈を生徒指導室へと向かうように言い含める。


 中水美衣奈はずっと不服そうな表情をしていたが、さすがに暮井刑事と海星さんのバリケードを突破して私に危害を加えるのは不可能と判断したのだろう。


 チッと舌打ちをすると、踵を返す。


 そこでようやく、先生たちを連れて来た崎代沙綾の存在に気づき――。


「――――裏切り者がっ」


 中水美衣奈の悪意に、更なる燃料が投じられた。

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