第2話 夜見坂 凪は私の味方ですか?

 朝の教室は、私だけの大切な時間だった。


 誰にも絡まれないように朝早くに家を出て、学校近くの公園で暇を潰し、開門と同時に学校に入る。


 出来る限り、誰からも不興を買わないようにすること。


 それがいじめられっ子だった私の知恵。


 生きぬくための術だった。


 ――それが、一変した。


「……なに、これ」


 いつもなら教室に鍵などかかっていないから、おかしいとは思ったのだ。


 もちろん、空いている窓もない。


 教室は完全に密室の状態だった。


 だから私は職員室から鍵を借りてきて、私が開けた。


 私一人で開けた。


 そして発見してしまったのだ。


 教室の中心、窓際。


 学習机や椅子に埋もれるようにして、壁に背中を預けている女子生徒の死体を。


「なにこれっ」


 血は、ない。


 セーラー服に乱れもない。


 目立った傷もない。


 ただ、激しく争ったのか、派手な色に染められた髪は乱れて顔を半分隠しており、その隙間からは光の宿っていない虚ろな瞳が見える。


 その瞳はじっと中空を睨みつけていて……たった一度のまばたきすらしていなかった。


 だから、気付いた。


 この女子生徒は、宮苗みやなえ瑠璃るりは、死んでいると。


「なんでっ」


 疑問の言葉を口にしながら、その答えは既に私の中にあった。


 私が昨日、あの時、彼の提案にうなずいたからなのだ。


 だから宮苗瑠璃は殺された。


 あの無味乾燥、無色透明な空気のように、どこにでもいるなんでもない異質。


 夜見坂よみさかなぎに殺されてしまったのだ。


 膝が笑い、私はもうまともに立っていられなかった。


 入り口から少し入ったあたりでよろめき、へたり込んでしまう。


 それでも、私の視線は宮苗瑠璃の死体から離せなかった。


「はっ……はっ……はぁっはぁっ……」


 口元を手で覆い、必死になって悲鳴をかみ殺す。


 知らず知らずのうちに呼吸が早くなり、息が指の間を通ってヒュウヒュウと不気味な音楽を奏でる。


 耳の中では鼓動が早鐘を打ち鳴らしていた。


「こんなの……」


 まさか本当に、しかもこんなに早く事態が動くなんて思ってもみなかった。


 いや、軽く考えていたというのもある。


 録音や動画撮影をしてSNSにアップするなど、社会的な抹殺という手段もあるからだ。


 だけど違った。


 生きている価値がない。


 だから、殺す。


 物理的に命を摘み取る。


 こんなにもためらいなく排除する。


 その結論に、これほどまでに簡単に帰結する夜見坂くんのことが、私には化け物だとしか思えなかった。


「あっは~、死んでるねぇ」


「ひっ」


 突然私の背後で笑い声が弾ける。


 この声は忘れもしない。


 夜見坂くんの声。


 場違いなほど明るくて、軽薄で、薄っぺらい――人のふりをしているだけの怪物。


「いやっ」


 私は思わず悲鳴をあげ、這いつくばって床を移動する。


 背後を振り返るのは怖い。


 でも、見ないのはもっと怖い。


 だから私は目の前にあった椅子の足にすがって上体だけをなんとか起こし、後ろへと視線を向けた。


「悲鳴をあげるなんてひどいなぁ。傷ついちゃった」


 そこには私の予想した通り、満面の笑みを浮かべた夜見坂くんが立っていた。


「な……んで……」


 本当は逃げ出したかったけれど、腰が抜けてまともに立つこともできない。


 私の体は得体のしれない存在を前にして、完全に屈服してしまっていた。


「ん? 普通に階段をあがってきただけだよ」


「…………」


 普通に、なんて言っているけれど、間違いなく夜見坂くんは普通じゃない。


 この教室は校舎二階の一番端――真東にあって、扉のすぐそばには東階段がある。


 つまり、足音を殺して階段を昇らなければ、確実に響いてくるのだ。


 特に、朝の誰も居ないこの時間帯は一階からの足音だってこの2階にまで届く。


 夜見坂くんはわざわざ足音を殺す必要があると知っていた。


 その意味することはひとつ。


 この殺人に、彼が関わっているということ。


「ああ、もしかして僕が殺したって勘違いしてないかな。それは誤解だよ。僕は殺してない」


 でも、昨日確かに彼は言ったのだ。


 生きている価値がない、と。


 その直後に死体が転がっていれば、疑うに決まっている。


「本当だよ。なにせ僕はものすごく貧弱だからね。ティッシュペーパーの半分くらいの耐久力しかないし、今朝見かけた幼稚園児にも喧嘩で負ける自信があるよ」


 本当に信じてほしいと思っているのだろうか。


 言い方は相変わらずふざけていて、私には何が本当なのか分からなかった。


「ん~……よし、じゃあ探偵の真似事でもしてみようかな」


 夜見坂くんはそんなことをうそぶきながら、私を無視して死体の方へと歩いていく。


 そしてためらいなく死体の手首へと手を伸ばし、平然と触れてしまった。


「あ、かたっ」


 固いのなら、宮苗瑠璃は当然死んでいるはずだ。


 死後硬直という言葉くらい、本やドラマでいくらでも出てくるから私だって知っている。


 それなのに、夜見坂くんはわざとらしく脈を取って生死の確認を行う。


「あはっ。女の子の体を勝手にいじれるって、いけないことしてるみたいで興奮するね」


「…………」


 死んでいるのに。


 私は過去、宮苗瑠璃に触れられたことは何度もある。


 それでも、今の彼女に触れようとは思わない。


 死んでしまった人間、それも誰かに殺された死体が、これほどまでに生理的嫌悪感をもよおすものだとは思わなかった。


 怖い。


 死体そのものが、怖い。


 あれになんの感情も持たずに触れるのは、きっと狂っている人だ。


 ましてや笑いながら冗談を言っていじくりまわせるのは、精神そのものが人間の範疇はんちゅうにない人だけ。


 夜見坂くんは、間違いなくそういう存在だ。


 その後も彼は、首元を見たり後頭部を確認したりとなにか色々と死体の様子を探り……やがて「うん」と大きく頷いて私のところへと戻って来た。


「それじゃあ、証明するね」


 夜見坂くんはそう言って、両手を私へと突き出してくる。


 私が立ち上がるのを助けようという様子ではないのだけれど……。


「ほら、まったく傷が無いでしょ」


「え……?」


 夜見坂くんの両手はろう人形のようになまちろく、確かに言う通り傷ひとつない。


 ついでにと腕まくりして全体を見せてくれたが、そこにも傷は確認できなかった。


「あの死体ちゃんの死因は、首を絞められたからなんだけど、そうすると抵抗してひっかき傷が出来るって……結構有名じゃない?」


「それは……」


 聞いたことは、ある。


吉川線よしかわせんって言うんだけどね。絞め殺されるときに抵抗して手や自分の首を引っかいちゃって出来る傷。僕の腕に無いならあとはあの死体ちゃんの首に無いかを確認して。そうしたら僕が殺してないって分かるでしょ?」


 相変わらずの軽薄な笑みで、信用していいのか分からない。


 でも、今の言動だけ見れば、夜見坂くんは私に無実であることを信じてほしいように見えた。


「ほら、立って立って。あ、僕に掴まらないでね。そのまま一緒に倒れちゃって……」


 ピタリと夜見坂くんの動きが止まった。


 そしてなぜか大きく頷くと、私に向かって手を差し伸べてくる。


「さあ、この手に掴まって。大丈夫、僕を信じて」


「…………ごめんなさい、大丈夫だから」


 なにか良からぬことを考えていそうだし。


 第一、まだ膝が笑っていてうまく歩けそうにない。


「ちぇー。そのまま倒れて君のおっきなおっぱいに顔をうずめるラッキースケベを期待してたのに……。うまくいかないなぁ」


「それは口に出して言わない方がいいと思う」


 余計あなたを信じられなくなるから、という言葉は飲み込んでおく。


 いや、心の底から夜見坂くんを信じられる日が来るとは思えなかった。


「じゃ、押してあげるね」


「え?」


「だってお姫様だっこなんてもやしの僕には無理だからさ」


「え?」


 私が戸惑っていることを良い事に、夜見坂くんは私の背後へと回って両肩を掴む。


「さ、行こー。あ、痛かったら言ってね。やめないけど」


「そこは止めてほしいかな……」


 幸いなことに、教室の床はツルツルとしたシートで覆われており、タイツを履いていた私は痛みなく運ばれていったのだった。


 すごく、シュールな絵面だし、こんな扱いをされたことに文句を言いたい。


 そもそも死体になんか近づきたくなかった。


「右に曲がりまーす」


「やめてっ」


 つい、大声を出してしまったのだが、先ほどの言葉に反して夜見坂くんはピタリとその場で制止してくれた。


「……自分で、歩くから」


「そ」


 パッと私の肩から夜見坂くんの手が離れていく。


 そのことにこっそりと胸を撫でおろしてから私は立ちあがった。


「ごめんなさい」


「大丈夫大丈夫。嫌われるのは慣れてるよ」


「…………」


 私は机に手をついて支えにする。


 まだ足元がおぼつかなくて、何かに頼る必要があった。


 それから、別の意味でも。


「私も、慣れてる……」


「そうなんだ」


「……だから」


 少しだけ、思う。


 化け物って傷つかないのだろうか。


 嫌われて痛くない存在が居るのだろうか、なんて。


「ごめんなさい」


「ん?」


「私は嫌ってない、から」


「そう、それは嬉しいね」


 私の言葉が空を切る。


 嬉しいと言いつつ全然そんな風には見えないし聞こえない。


 私が嫌おうと心配しようとどうでもいいみたいだった。


「はい、それじゃあ首元を見てよ」


 早く早くと急かす言葉に背中を押され、私は宮苗瑠璃の死体へと視線を向ける。


「うっ」


「あはっ」


 一瞬、彼女と目が合ってしまった気がして吐き気がこみあげてくる。


 私は目をつぶり、空唾からつばを呑むことで懸命にやり過ごし――。


「はっ……ふぅ」


 もう一度、死体を視界に入れた。


 宮苗瑠璃はどんな死にざまをしたのだろう。


 死んだ人が凄い形相をしているとか聞くけれど、彼女の死に顔はそんな風になっていない。


 全身から力という力が無くなればこうなるのだろうか。


 口をだらんと開け、目は半開き。


 頬はたるみ、腕も足も投げ出されたまま。


 恐らく死んで筋肉が緩んだからだろうか、口元から垂れた涎がスカートに染みを作っている。


 それから失禁でもしたのか、床からはツンと鼻の奥を刺激するアンモニアの臭いが漂ってきた。


「…………これ、が」


「ねえねえ、驚いてないで早く首元を見てよ」


 初めて見る死体を前に、私の心は乱れに乱れていた。


 でも、そんなものはどうでもいいとばかりに夜見坂くんは私を急かす。


 私は極力、宮苗瑠璃の目を見てしまわないように注意しながら首元へと目線を動かした。


「ない、みたい、だね」


「でしょー」


 宮苗瑠璃の首元には青あざが一か所あるだけで、引っかき傷はない。


 つまり、夜見坂くんが直接手を下した可能性は、限りなく低かった。


「あと一応ね、僕の身長162センチと死体ちゃんの身長155センチだと、絞殺痕はもう少し上につくんだよ。これは位置が下だから、比較的身長が高い人間が殺したって事になるね。それから~……」


 夜見坂くんは、自分が殺人犯でない理由を並べ立てていく。


 確かに彼は殺人犯ではないのだろう。


 では。


「ねえ、夜見坂くん。直接手にかけていないのはわかったけど……」


「なにかな?」


?」

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