第84話 わたしだけ何もないの

 俺たちはやっと屋敷に戻ってこれて、くたくただった。

 アパート時代とは違って、この屋敷の離れでは、俺も玲衣さんも夏帆も雨音姉さんも、別々の部屋が与えられている。


 広い部屋の中で一人、布団に横たわる。

 と、これまでのことを思い出して、恥ずかしくなってきた。


 ただでさえ、玲衣さんと夏帆の二人に好きだと言われて、キスもしたのに。

 この上さらに、琴音からも告白され、相手から迫られたとはいえ、何度もキスしてしまった。


 しかも、琴音の祖父は、俺を遠見グループの後継者候補とし、琴音と婚約させるつもりらしい。

 俺がもともと好きなのは夏帆だった。

 けど、いろいろな事情があって、夏帆からは一度は振られてしまって、玲衣さんと出会って……。

 いま、俺が好きなのは、たぶん玲衣さんなのだけれど……。


 我ながら煮え切らないな、と思う。

 このまま、というわけにはいかない。


 そんなことを考えていたら、目が冴えてきた。

 急に部屋の障子戸が開けられ、薄い光が入ってきた。


 こんな時間に誰だろう?

 俺は驚いて飛び起きようとしたが、それよりも相手のほうが速かった。


 相手は布団の上の俺に覆いかぶさった。


「晴人くん……」


 甘えるような、綺麗な響きの声で名前を呼ばれる。

 俺に覆いかぶさった少女は、玲衣さんだった。

 青い瞳は潤んでいて、薄明かりに照らされた頬は真っ赤だった。


 そして、純白のブラジャーとショーツ以外、その体には何も身につけていなかった。

 白い肌が目にまぶしい。


「れ、玲衣さん……その格好……!」


「お、驚いた?」


「そりゃまあ……」


 玲衣さんはするりと俺の布団の中に潜り込む。

 体温が上がるのを感じる。

 玲衣さんの体の柔らかさと暖かさが伝わってきて、その甘い匂いにくらりとした。


 玲衣さんは俺の耳元のすぐそばでささやく。


「えっと、その、嬉しい?」


「それはどういう質問?」


「男の子って、こういうのを喜ぶかなと思って……」


「たしかに嬉しいけど……」


 俺はつい本音をしゃべってしまった。

 アイドル並みに可愛いクォーターの美少女が、下着姿で俺に迫っているのだから当然だ。


 玲衣さんは嬉しそうに笑って、その仕草も可愛かった。


「で、でも、玲衣さん。こんな状況になったら……俺が玲衣さんを襲ってしまいかねないというか……」


「……襲ってほしいの」


「え?」


「晴人くんなら、何をされてもいいもの」


 そういって、玲衣さんは俺の唇を奪った。

 まだちゃんと彼氏彼女になったわけじゃないのに、俺はもう、何度も玲衣さんとキスしてしまった。

 その上、玲衣さんは自分を好きにしていいという。


 長いキスのあと、玲衣さんはくすっと笑った。


「つまりね、わたしは夜這いに来たの」


「どうして……」


「だって……わたしが一番何もないもの」


「え?」


「佐々木さんは晴人くんの幼なじみで初恋の人。雨音さんは晴人くんの従姉で大事な家族。琴音は晴人くんの婚約者になるんでしょう。でも……わたしにはなにもない。クラスメイトで、偽物の恋人で、少しだけ血がつながっていて……どれもダメ。わたしが一番、晴人くんにとって、どうでもいい存在な気がして」


「どうでもいい存在なんかじゃないよ」


「でも、わたしはそう思っちゃうから。だからね、わたしは晴人くんのはじめてになりたいなって思ったの」


「で、でも……」


「わたしもはじめてだよ。わたしのはじめてを晴人くんに上げるから、わたしを晴人くんの大事な人にして」

 

「そんなこと……」


 俺の言葉はさえぎられた。

 ふたたび玲衣さんの赤い唇が、俺の口を塞いだからだ。


 こんなとき、アパートだったら、夏帆か雨音姉さんのどちらかがやってきて、玲衣さんの行動を止めたと思う。

 でも、今の玲衣さんを止める人はいない。


 玲衣さんは俺の口から離れると、ささやいた。


「好き」


 そして、またキスをする。

 すぐに唇を離して、微笑む。


「わたしを助けてくれた晴人くんのことが好き。孤独なわたしを救ってくれた晴人くんのことが好き。晴人くんの一番じゃなくてもいいの。晴人くんがわたしのことを……見ていてくれればいい」


 玲衣さんはふたたび唇を重ね、そしてその柔らかい体を俺に重ねようとした。



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