しかし彼は本当の色を知らない

 日が沈んで、夕食を取り、風呂も済ませたあと、何とはなく部屋を出て、一人ぼーっと船内を散策していた。少し歩き疲れたところで、自販機が置かれているところにソファがあるのを見つけ、腰掛けた。

 思ったよりも柔らかくて、体が沈み込む。

 一息ついて正面の自販機の明かりを見つめ、何か買おうかと立ち上がって、物色するようにざっと見渡し、二、三分迷ってから結局いつものように缶コーヒーを買う。


 かがんで取り出し口からコーヒーを取り、またソファに体を預け、缶のプルタブを開け口に含んだ。舌の上で転がしてみるが、地上で飲んでも船内で飲んでも缶コーヒーの味は同じらしい。これがジャパンクオリティー。


 誰かの足音がひたひたと聞こえたと思ったら、その御仁は声を掛けてきた。

「あら、花丸くん。こんな夜更けに一人で何をしているのかしら? 一人ぼっちごっこ?」

「何その難度の高い遊び」

 顔をそちらに向けてみたところ、寝間着姿の橘がそこにいた。湯上がりらしく、首にタオルをかけている。


「あなた得意そうだけれど」

 橘はきょとんとした顔を見せた。


 それから俺の方へと歩を進めて、彼女は一メートルほど離れたところで立ち止まって言った。

「久しぶりね」

 

「まあ……そうだな」

 彼女と最後に会ったのは二週間ぐらい前だろうか。


 彼女は自販機で麦茶を買い「隣座るわね」と言って、俺の横に来た。

 それから俺が飲んでいるものを見て

「こんな時間にそんなものを飲んでいたら寝られなくなるわよ」

 と気に掛けるような表情を見せる。

「俺ぐらいのレベルになると、カフェインの感受性の閾値が上がって、これっぽっちの量じゃ体になんの影響も与えんのさ。だから一本だけじゃ実質カフェインレス。脈拍が上がって、心なしか胸のあたりが痛くなってきてからが勝負みたいなとこある」

 エスプレッソ立て続けに三杯くらい飲むとそんな感じ。


 それを聞いた橘は顔を曇らせ呆れたような顔をした。

「それ、典型的なカフェイン中毒の症状よ。そんなことしていたらあなた早死するわよ」

「まじ?」

「まじよ」

「ええ、じゃ今度から控えめにしようかな」

「それがいいわ」

 

 そうは言っても、買ってしまったものを捨てるのは勿体ないので、缶の残りをまた口に流し込む。

 それからちらと横目で彼女を見る。湯で上気した顔がつやつやとしている。髪が後頭部の上あたりで結われており、あらわになったその白い首筋をきらりとした滴が伝ってゆく。


「……風呂、思ってたよりも広かったな」

 彼女に気づかれる前に慌てて目をそらして、ぼそりとつぶやいた。


 大浴場もきれいに整備されていたし、露天風呂まであったから驚いた。

 橘は同意して頷き

「そうね。他の設備もすごく立派よね」

 

「レストランもおしゃれだったしな。まるで海上のホテルって感じだ。てっきり蟹工船的なのを想像していたんだが」

「蟹工船って……。お金払ってそんなものに乗せられたのでは、たまったものじゃないわ」

「でも若い時の苦労は買ってでもせよっていうだろ」

「あら。じゃあ次のシーズン、オホーツクまで行ってみる? 知り合いに漁業関係者がいるから、伝手でカニ漁する船を紹介してもらえるけど」

「ごめんなさい。まだ死にたくないです」

 どんだけ金を積まれたとしても、極北の海で死ぬのだけは御免だ。

 

 平穏な時代に平穏な国で生まれたのだから、このままぬくぬくと温室暮らしを享受していきたいと、ぶつぶつ考えていたところで、微笑を浮かべた橘が

「思っていたよりも元気そうね」

 としっとりと穏やかな表情で言う。


「……意外だな。お前がそんなに他人に気遣えるなんて」

「あら、失礼ね。私結構周りのこと見てるのよ。もちろんあなたのことだって」

「え、何。口説いてんの?」

 俺が茶々を入れるように言えば、橘は冷ややかな視線を向けてくる。

「馬鹿、違うわよ。人が真面目に話しているのだからちゃんと聞きなさい」

「すみません」


 俺をねめつけた彼女は居直り、咳払いして

「一挙一動漏らさず見てるわよ。だってちゃんとあなたのことを見ていないと、どんなことを言っておちょくればいいかわからなくなるじゃない」

「ただのいじめっ子の論理だった!?」

 どこを取って真面目な話だというのか。


「いじめっ子じゃないわよ。キュートアグレッションよ」

 橘は少々不服そうな顔をして言った。

「……可愛いものを見ると衝動的に噛みつきたくなるってやつか?」

 ふわふわした子犬をぎゅっと締め付けたくなったり、赤ん坊の手とか足を口に咥えたくなったりするのは、あまりの可愛さに脳が暴走したか、あるいは脳が壊れないようにする一種の防御反応の結果ともいわれている。その「可愛いものへの攻撃性」をキュートアグレッションと呼ぶのだ。「食べちゃいたいくらい好き」というのもこの類だろう。

 しかしながら俺のどこにそんな可愛い要素があるというのだろうか。


 俺がそんな疑問を抱いたところで、橘は頷いて続け

「そう。蚊を見ると叩き潰したくなるでしょう? 私があなたに抱く感情は大体そんな感じよ」

「おい。それ、ただの憎しみだからね? 全く別物の感情だよ?」

「この私が自らの手を汚して始末をつけるのだから、これ以上にない愛の形だわ」

「それ愛じゃないと思う」


 俺と橘がそんなやり取りをしていると、人の気配がした。

 廊下の先を見れば、寝間着姿の校長先生が、ニコニコしながらこちらに向かってきていた。

 俺は一瞬、早く部屋に戻って寝ろと叱られるのではと思い身を固くしたのだが、そんな様子はなく、「お隣失礼しますよ」と言って俺の右にあったソファに腰かけた。

 何か話でもするのかと思ったのだが、ニコニコするばかりで先生から口を開く様子はない。 


 だんまりでいるのも居心地悪く感じたので

「……なんだか楽しそうですね、校長先生」

 と俺は話しかけた。


 校長先生はにこやかな表情を変えずに

「ええ、そうですね。……一応仕事ではありますが、妻を一人家においてきて、旅行をしているのは、少し申し訳ない気持ちです」

 と言った。


 校長先生は続けて

「船旅というのはいいものです。そうは思いませんか、花丸くん?」

 と俺に同意を求めてくる。


「あ、はい、そう思います。……というか先生、よく俺の名前ご存知でしたね」

「そちらの方の名前も存じていますよ。橘さんでしょう」

「はい。橘です」

 校長先生は自身の記憶が正しかったのに満足げな様子で

「実を言いますと、時間がある時に写真を眺めて皆さんの名前を覚えようとしているのです。……なかなか難しいんですけどね。でもあなた方はいつも放送で声をお聞きしているので、自然と覚えられました」

 つまりわたくしどもの恥ずかしいあれやこれやを全て校長先生はお聞きになっていたという事で……。

 校長先生が認知しているくらいなのだから、職員室でも少なからず話題にはなっているだろう。

 思えば、授業中にやたら指名を食らうのはそのあたりの事が関係しているのでは? 

 

 俺がその事実に気づいてしまい、頭が痛くなってきたところで

「友達との思い出がたくさん出来ると良いですね。では私は失礼します。あなたたちも文彦先生に見つかる前に部屋に戻った方がいいですよ」

 校長先生はそういって、ゆっくりと立ち上がって、てくてくと去って行ってしまった。


 俺はその後姿を見ながら呟いた。

「……校長先生っていい人だよな」

「そうね」


   *


 日付は変わって翌日。

 朝霧が立ち込め、下関と北九州とを結ぶ関門橋がその中で幻想的に浮かび上がっている。だが、神宮高校二年生一行は、そんな絵画的な風景には目もくれず、門司港に着くやいなやバスに乗り込み、そのまま関門橋を渡り、山口県へと入った。九州島での滞在時間は四半刻にも満たない。

 バスの中は静かだった。耳を澄ませばスースーと寝息が聞こえてくる。


「みんな夜更ししたみたいだな」

 と俺がボソリと隣の安曇に話しかけてみたら、反応がない。

 そちらを見れば安曇も気持ち良さそうに、寝息を立てている。男が隣にいるというのに無防備なものだ。


 仕方がないので俺も頬杖をして、目を閉じたら、トンと肩に軽い衝撃を感じた。横目で見ると、安曇の首がこちらに落ちている。

 それを手で押しやるのは流石に大人気ないと思ったので、彼女のするがままにさせておいた。

 おかげで俺は目的地まで一睡もできなかったが。

 



 最初の目的地は、日本有数のカルスト台地、秋吉台に立地するサファリランドだ。

 象や、ライオン、虎といった猛獣が飼育されているエリアをバスで抜けた後、ふれあい広場という所で、モフモフたちと戯れる時間があった。


 俺は安曇と一緒にバスを降りてから、安曇に連れられ橘と合流することになった。


 まず初めにリスザルが飼われている小屋に通りかかった。小さな種類の猿でどうやら檻の中に入って餌やりをすることが出来るらしい。

 橘はその檻のところで立ち止まって、そこにあった解説を読んだかと思ったら

「ふーん。サルって毛づくろいをすることでお互いの友愛を育んでいるのね。まるで花丸君に完璧さを足したような生き物だわ」

「おい、なんで俺が完璧な存在になったら毛むくじゃらになるんだよ」


 橘は俺の言葉などには耳を傾けず

「あ、花丸くんたら、檻の中で何をしているの!? 早く出てきなさい」

 と檻の中の猿に向かって声をかけている。

「ちょっと、俺ここいるよ?」


「でもあの子、ちょっとまるもんに似てるかも」

「ねえ。安曇さんまで何言ってるの?」


「みんなに仲間外れにされているのね。私が遊んであげるわ」

 橘はいつの間にか檻の中に入っており、その猿を肩に乗っけて餌をやっている。

「あ、私も!」

 そう言って安曇も檻の中へと入っていった。


 女子に玩具にされるのが、俺の積年の願いであるはずもないのだが、二人ともなんだか楽しそうだからまあ良しとしよう。


   *

  

 そんな調子で、サファリランドを「楽しんだ」後は、そこから数キロ離れたところにある秋芳洞という巨大な鍾乳洞へと向かっていった。


 バスは秋吉台を貫く道路を走っていったのだが、見渡す限り草原が延々と続いている景色は、さすが圧巻だった。もしここの写真を見せられて「これは異国にある大草原の写真である」と言われたら、すんなり信じてしまいそうなくらいだ。


 バスはしばらくしてから、秋芳洞の入り口に到着し、俺たちは列をなして洞窟へと入っていった。


 やんややんやと騒ぎながら進んでいくクラスの連中の後ろを、俺は一人でついていっていた。ここに来たのは初めてではない。それでも日常世界から隔絶した雰囲気に満ちたこの洞窟を歩いてゆくと、まるで異世界に来たかのような感覚を覚えるのは、何度来ても変わらないらしい。


   *


 百枚皿という自然が成した造形物の前で俺は立ち尽くしていた。

 雨水に溶けた炭酸カルシウムが析出して形成された岩の皿が、幾重にも重なって出来たものだ。小さな棚田のようにも見えるその数々の皿の上を、今もこうして鍾乳石を育んでいる水がサラサラと流れている。


 そんな景色に目を奪われていたら、いつの間にか男子連中とはぐれてしまった。急ぎ足で進めば追いつけるだろうが、追いついたところでなにかあるわけでもない。せいぜい外野に絡まれて、意味の分からない口上を延々と聞かされるだけだろう。

 実際さっきも

「フフ、たといこの洞窟で野垂れ死のうと、お前と運命をともにできるなら俺は構わん。なにせ俺とお前は、ネッ友にして、良識ある友人、略してセフ──」

「皆まで言うな」

 という会話をしたばかり。

 ……あいつ、俺の事好きすぎではないだろうか? あいつがいだいている俺に対する気持ちが本物なら、こちらも真摯に受け止めてやるのが筋だろう、とは思わない。


 バサバサという音が響く。見上げれば無数のコウモリが洞窟の天井でウゴウゴしていた。

 橘がいま隣にいれば

「あら、日陰者のコウモリでさえお友達が沢山いるのに、どうしてとある花丸家のとある元気くんには、お友達が指折るほどにしかいないのかしら。不憫で胸が痛むわ」

 なんてことを言われて

「馬鹿野郎。コウモリは超音波を使って暗闇の中でも飛行できるという、超高等な生き物なんだぞ。コウモリでさえとか言うな」

 とか返したに違いない。

 ……。


「……あほらし」


 暗闇で一人いると、要らぬ妄想をしてしまうのは、古来から克服できなかった、人間の悪い癖であると思う。見えないものを見ようとして、勝手に恐怖するのだ。恐怖対象は、いるかどうかもわからない霊的存在などではなく、実在する人間であるべき。この世で一番人間を殺している脊椎動物はニンゲンです。よってこの世で一番恐ろしいのは人間。暴言を吐く美少女とか超怖い。


 ひえっ。今なんか光った。……光る目がたくさん浮いてる! お化けや!! 喰われる!!!!


 と俺が自分をかばうように、手で防御の構えをしていたら

「まるモン……何してるの?」

 困惑した様子で、話しかけてくる人物がいた。

 俺は恐る恐る目を開ける。

「あれ、安曇さんではないか。……と、我がクラスの女子の方々……」

 

 お化けかと思ったら、女の子達だった。

 まあ女子は化粧で化けるというしな。俺の勘違いも致し方ない。場合によっては化粧を落としたら化け物だったりするパターンもあるしな。どちらにせよ化け物だな。……なんてことは、微塵も思ってませんよ。はい。はなまるウソツカナイ。



 キョドキョドしている俺に対し、安曇以外の女子たちはキャイキャイ黄色い声を上げている。

「つか花丸くん、一人で何してるの? ウケるんだけど」

「それな」

「男子たちに置いてかれちゃったの? カワイソ〜。でもやっぱウケる〜」


 わーい。よく分からんけどウケたど。俺芸人になれるかも。

 

 何が面白くて笑っているのかわからない珍獣たちを前に、俺は反応に困り固まっていたのだが

「うちらと一緒に行く? ほら、ハーレムだよハーレム」

 と珍獣のうちの一人が俺の肘を引っ張って拉致しようとする。

「いや、え、ちょっと」

 ほんと、こわい。やめて。

 俺が戸惑って怯えているというのに、女子たちは構う様子を微塵も見せない。


「いいじゃん。一緒に行こ。ほらおいで」


 俺は女子の集団に包囲され、対放送部員に特化した俺の女子免疫では、成す術もなく連行されることになってしまった。


   *


 静かに鍾乳洞を観察したかったのに、いったいこれは何の行事だと、ぶつくさ考えながら、どこかツボなのか分からない女子たちの、くっちゃべりを右から左へ聞き流していた。

 そんななか、秋芳洞の名物の一つである、黄金柱という黄金色こがねいろをした大きな石柱の前に来たのだが、女子たちは感動するそぶりは見せず

「ゆーて、これあんま綺麗じゃなくない?」

「だよね」

「思った」

 と異口同音に囃している。


 普段であれば「何を言う。数千年の時を掛け、幾多の生命の雫が結晶と成す、その価値が、その美しさが分からんのか? 人類が残してきたどんな遺産より、尊い存在だわい」

 などと言説を垂れただろうが、さして親しくない人間に、そんなことを言っても仕方ない。


 だから黙っていたのだが、一人が

「ねー、花丸くん。これ綺麗だと思う?」

 と尋ねてきた。

「……うん」

 聞かれたからには正直に答える。


 その御仁は納得できないようで

「えー。じゃあ、私とこれだったらどっちが綺麗?」

 とまた聞いてきた。ちょっと何を言っているのかわからない。


 周りの女子たちはその言葉に反応し

「あんた、何聞いてんの!? ばっかじゃない!!」

 と鈴が鳴るというよりむしろ銅鑼どらが叩かれているように、ゲラゲラと笑い転げている。箸が転んでもおかしい年頃とはよく言う。修学旅行が楽しくて仕方ないというのもあるのだろうが。


 俺はそこでようやく悟った。別段彼女たちのペースに合わせる必要はないのだ。勝機得たり。

 俺は答えて

「……これら石筍や石柱は、数百年数千年と残るだろうが、君らは儚い存在だ。昔から美しいものは儚いという。だから君たちみんなが美しく尊い存在だ」

 と電波を飛ばし、暗に「俺は意味分からないことを言うやばいやつだからどっか行ったほうがいい」という牽制をした。元来うるさいのは好きではないのだ。


 彼女らは少しの間顔を見合わせた、はてこの男は何を言っているのだろうと、珍妙な顔をしたが、すぐに

「ギャハハハハ!!!! 花丸くん、チョー面白いんだけどー!!!!!!」

 火を消そうとして、水を注いだら水蒸気爆発が起きた、みたいな結果になった。


 やんぬるかな。

 セリヌンティウスよ許してくれ。今この場で四肢を投げだそうと、彼女たちは爆笑するに違いないのだ。

 


   *



 秋芳洞の中ほど。すっかり地上の気配がなくなり、ひんやりとした地底の世界の真ん中に到達した頃。さっきまで一緒に歩いていた子たちがいつの間にか見えなくなっていることに気づいた。見渡して、後ろを振り返ったとき、遠くに人影が見えた。そのうちの一人が意味ありげに手を振っている。彼女は移動時の席決めの件で、私にある提案をしてきた子だった。私が彼の隣に座れるよう策を弄したのだ。……私のためというより、彼女なりの目的もどうやらあったみたいだが。

 それはともかく。

 私はそれを見てすぐに気が付いた。……ああ、彼女たちはわざとゆっくりと歩いているのだ。彼女らがああして横に広がり道を塞いでしまえば、他のクラスの人に追いつかれるということもない。

 

 今ここにいるのは、私とまるモンの二人だけ。


 そのことに気づいても私は歩みを早めて前の人たちに追いつこうとしたり、立ち止まって友達のことを待とうとは、ましてや往来の邪魔をする彼女たちを諌めようとはしなかった。いけないことだとは分かっている。でも私は、それを律することができるほど、いい子には成れなかった。


 もし世界が今みたいに彼と私の二人だけだったなら。

 そんなよこしまな考えが頭をよぎっては、自分の心がそこまで汚れてしまったことに気づき、言いようのない不快感がおりのように沈んでいくのを感じた。


 暖かくて、幸せな気持ちがいっぱいあるのに、ちくりと一点だけ冷たいものがその中に突き刺さっていた。

 

 私が悪人になりきれたのなら、どれほど楽だったろうか。


「……なんかひんやりしてるよね。ちょっと寒いくらい」

 後味の悪さから逃れるように、声を振り絞って彼に話しかけた。

「でも冬は逆にあたたかいんだぜ。……まあ、感じ方の問題なんだけど」


 彼が外気と比べてどうか、ということを問題にしていることは頭では分かった。それでも、私は自分の心の貧しさを覗かれているような気がしてならなかった。


   *


「花丸くん、何を見ているの?」

 秋芳洞から出て、やたら夏みかんを推している地上の土産物屋で商品を物色していたら、橘が話しかけてきた。

 

 俺は

「ちょっとな、家になんか土産でも買っていこうかと」

 と品物を棚に戻しつつ答えた。


 母親の実家が山口だから、俺の家族にとって特に目新しいというものはないのだが、土産を選ぶというのも修学旅行の楽しみの一つだと思う。特に俺にとっては、他にすることがないからな。

 家に帰って妹や家族が少しでも喜ぶ姿が見られるのなら、旅行に出た甲斐があるというもの。


 橘は俺が戻したものを手に取り

「へえ。……これって、瑪瑙めのうよね。妹さん、こういうのが好きなの?」

 と尋ねてくる。

「うーん、コースターに使ったらいいんじゃないかと思ったんだが、落として割りそうだなとも思って」


「それはそうね。綺麗だとは思うけれど。……これどこのかしら?」

 橘は瑪瑙板をひっくり返して産地を確かめている。


「……これアルゼンチン産って書いてあるけれど」

「気にしたら負け」

 そう距離が二万キロ弱ぐらいずれているだけだからね。銀河系の視座で考えれば二万キロとかほぼゼロだよね。だから実質アルゼンチンって山口だよね。


 橘は瑪瑙を棚に戻しながら

「せっかくだから山口産のにしたら?」

 と俺に提案してくる。


 俺はしばし考えてから

「ここはやっぱ豆子郎だよな」

 と答えた。


「何それ?」

「米粉ベースの甘い生地に小豆を練り込んで蒸したものだな」

「……それ外郎のことよね?」

「ばっか。豆子郎は豆子郎だ」

「だから豆子郎という外郎なのでしょう。分かってるわよ」

 だから豆子郎は豆子郎で外郎ではない。全くわからん子だな。


 俺と橘がそんなやり取りを繰り広げていたところ、安曇が俺たちのところにやって来て

「ねえねえ! いいこと思いついたの。三人でお互いにお土産を買うっていうのどう?」

 という提案をした。


「みんな現地に来てるんだから、それぞれが自分で選べば良くないか?」

 と俺が言えば

「もう、分かってないな。人に選んでもらって、交換し合うのが楽しいんじゃん」

 唇を尖らせている。


「ええ、そうなの?」

「うん、そうだよ」

 安曇はきっぱりと言った。


 俺は安曇の提案にいまいち乗り気になれなかったので、こういうノリはあまり得意じゃなさそうな橘なら、俺と同意見だろうと思って、顔色を窺えば

「面白そうね。花丸君は一体私に何をくれるのかしら?」

 存外乗り気だった。


「……安心と楽しさ?」

 とりあえずそう答えたら

「スバル?」

 と聞き返してくる。

「いや違うけど」


「私、車ならコルベットがいいわ」

「……お前、なかなか通な選択をするな。本当に女子高生か?」

「いやだわ花丸君。私をそこら辺の普通の女子高生と一緒にするのはやめてくれるかしら」

 まあもとより普通の女子高生とは思っていませんでしたがね。それはそれとして

「……何だって、コルベット? 俺にそんなもん買えるわけないだろうが」

 確かコルベットは、価格が八桁を超えていたはずだ。お家が買えるレベルである。


「……もしかしてシボレー駄目な人? だったらマスタングでいいわ」

「いや、そういう問題じゃないんですけど」

 メーカーがどうのって問題じゃないからね?

 というか何、橘さんそんなにアメ車好きなの?


「……もしかして、花丸君、日本車がいい人? だったら、レクサスのエルエスでいいわよ」

「だからそういう問題じゃないから。『でいいわよ』って君、譲歩したつもりなのかもしれないけど、そこそこの会社務めてるおじさんでも、なかなか手が出ないよ? 背伸びして買ったとしても、維持費の高さに喘いで、最終的に手放すパータンだよ?」

「あらそう。だったらセンチュリーでいいわ」

「だからなぜ値段上げてく? 誰乗せるの? 天皇様でも乗せるの? というか誰に運転させる気?」

「花丸君、ドライバーをやってもいいわよ」

「遠慮しとく」

 カーブ曲がるたびに後ろから文句言われそう。「もっと優しく曲がれないの? このド下手ドライバー」とかなんとか。お前がもっと俺に優しくしろよ。


 橘は諦めたようで

「じゃあいいわよ。車はパパに買ってもらうから」

 とつまらなさそうに言った。

「……このブルジョワめ」


 すると静かに俺と橘の話を聞いていた安曇が、

「……ごめん、御手洗い行ってくる」

 と蒼い顔をして口元に手をもっていきながら言い、そのまま奥の方へと駆け足で行ってしまった。


 そういえばあの子さっき「この夏みかんアイスってちょっと苦みあるけどおいしいね!!」とか言いながら、他にも色々食べてたなあ、と思って

「……夏みかんアイスで体が冷えたんかな」

 と俺が彼女の後ろ姿を見送りながら何気なくそういえば、橘も立ち去った安曇の背中を見て、ぽつりと返した。

「……かもしれないわね」


 その後、土産物屋の中で、安曇を見かけることはなかった。



 集合時間が近づいたので橘と別れて、一人でバスに戻った。まだ安曇は帰ってきてはいないようだ。 

 なかなか戻ってこなかったので、迷子になったかそれかまた変な奴に絡まれているんじゃないかと少し心配になったのだが、出発の三分ほど前になってようやく彼女は姿を現した。


 俺はとりあえずホッとし

「間に合ってよかったな」

 戻ってきた安曇にそう声をかける。

 すると彼女は慌てた顔をして

「ばか、漏らすわけないじゃん!」

 と声を荒げる。

 

「……いや、バスの方な」

 と俺が補足したところ、彼女は申し訳なさそうな顔をした。

「……あ、そっか。そうだよね、ごめん」


   *


 それから山陰の方まで行って、吉田松陰で有名な萩の街を散策したあと、山口の北西端に位置する角島とそれに掛かる角島大橋が見えるリゾートホテルに入った。

 ホテルにはプライベートビーチがあり、夕方には島と橋とそしてターコイズブルーの海に沈む夕日が見える最高のロケーションだ。


 皆して浜辺で遊んでから夕食を取り、日も沈んであとは寝るだけという頃、俺は湯で火照った体を冷まそうと売店の前のソファーでゆったりしていた。

 そこにロビーの方から歩いてきた外野が通りかかった。


「おうよ、花丸何してやがる」

 想定した通りに外野は俺を見つけると声を掛けてきた。


「涼んでるんだ」

 俺はぶっきらぼうに答える。

「そうか。つまり暇なんだな」

「うるさい。ほっとけ」

「いやそうじゃなくて、梓氏が何やら具合が悪そうだったのだ。花丸よ見てきてやれ」 

 と親指でロビーの方を指さした。

 意外だ。

 そう、外野も周りの人間に気を使えるなんてことがあるんだな、と少し感心しつつ、昼の事を思い出した。

 安曇は日中もお腹を壊していた。旅行の時に体調を壊す人間は少なくはないが、よく考えてみれば、慣れないことをして、体への負担は大きいのだから、言ってみればそれは自然なこと。安曇も気づかないうちにストレスがたまっていたのかもしれない。

 それに、女子にはまあ、あれもあるし。

 だから

「……女子には色々あるんだろ」

 と俺が濁すように言えば、外野はきょとんとした顔で

「しかし俺のル○ルナによれば、梓氏の生理はまだ先であるはずだが」

「『であるはずだが』じゃねーよ! お前ほんと最低だな。まじで一回くたばれ」

 俺のルナル○とかパワーワード過ぎて笑えないよ?

「かっか。冗談に決まっておろう。プールの授業でも始まらん限り、女子が生理中がどうかなんて、わしには見分けがつかんわい」

「うん、それでも十分キモイけどな」


「それはともかく、ほら」

 そうやって外野は話を切り、顎と親指で俺に行けと合図している。

 仕方がないので俺は腰を持ち上げロビーへと向かった。


 安曇は外野が言ったように元気のない様子でロビーの椅子に座っていた。

「……どした?」

 俺はゆっくりと近づき彼女に声をかけた。

「大丈夫だよ、なんでもない」

 安曇は顔をこちらに向けずに答えて、さっと指先で目元を拭うようにした。

「……そっか」


 流石にそこで「大丈夫そうだな」と言って引き返せるほど俺も鈍感じゃなかった。


 なんと言ってよいか分からず、しばらく考えた挙げ句

「……ちょっと、外歩くか?」

 と彼女を誘った。


 安曇は小さく「うん」と頷いて立ち上がった。

  

   *


「まるもん」

 二人で夜の浜辺を歩いているときに、安曇が俺の名を呼んだ。


「なんだ?」

 俺は聞き返した。

 安曇は一拍おいてから

「私が今何考えているか分かる?」

 と尋ねてきた。


 俺は少し考え、月明かりが目に入ったから

「……月が綺麗だな、とか?」

 と答えた。


「……それもあるかな」

 安曇は俺の言葉を受け首を捻って、空に浮かぶ月を眺めた。


 また彼女はそれから口を閉ざしてしまった。


 瀬戸内と日本海との潮が出合うこの海岸沖。今は陽が落ちてしまったからわからないが、ちょうど潮目となるこの場所では、海の色が濃い青から薄い青へとグラデーションがかって見える。本当に良い所にホテルを作ったものだと思う。

 波がひっきりなしに砂浜に打ち寄せ、ざあざあと音を立てている。月を囲うように、星々が宝石のように散らばってまたたいている。

 そのような至極風光明媚ふうこうめいびな場所にいるというのに、月明かりに照らされた彼女の顔はやはりどこか暗かった。


「お前、大丈夫か?」

 また同じような問いかけを俺はした。

 そして彼女も同じように答えた。

「……大丈夫だよ」

 けれど言葉が彼女の態度と正反対だ。

 どうして彼女は元気をなくしてしまったのか。少なくとも旅行が始まったときは元気に見えた。

 とすると旅行中に何かあったとしか考えられないが、それを知る術は俺にはない。……おそらく色々と詮索する権利も。

 だから彼女が自分から話すまでは俺には何もできないし、俺は彼女が「大丈夫だ」と言うなら、その言葉を受け入れるしかないのだ。


 万全とは言い難いが先程に比べれば、だいぶ落ち着いているようだし、あとは他の女子に任せたほうが良さそうだな、そう思い始めた頃に

「ねえ、缶投げの約束覚えてる?」

 安曇はまた口を開いた。   


 缶投げの約束? ……一体、なんの話……。

「……うぉ。今の今まで忘れてた。お前よく覚えてたな」

 蘇った記憶は、昨年度の冬の事だ。

 偶然、街で運動中に安曇と出会った時のこと。二人で缶をゴミ箱に入れるゲームをして、買った方が相手に言うことを聞かせられるという遊びをした。結果は安曇の勝ちだったのだが、俺の記憶ではまだ彼女はその勝者の権利を行使していなかった。


「……あれ、まだ有効?」

 安曇がおずおずと尋ねてくる。

「……まあ一応?」

 約束したからにはそれを破るのは寝覚めが悪い。たとえどんなに時間が経っていたとしても。


 安曇はしっかりと俺のことを目に入れ

「じゃあさ、明日ジュース奢ってよ」

 と言った。

 俺はそれを聞き拍子抜けした。

「……え、そんなんでいいのか?」

「うん。まるもんは優しいから」

 そう言って安曇は笑みを浮かべる。

 俺はまた聞き返した。

「ん? 俺が優しいから? 安曇が優しいからじゃなくて?」

 安曇が優しいからその程度のお願いで勘弁してあげる、と言うなら分かるが、俺が優しいから、というのは意味が繋がらない。


 それでも安曇ははっきりとした口調で

「うん。まるもんが優しいからだよ。……どうしようもなく優しいから」

 と繰り返した。


「そうなのか?」

「うん。絶対にそう」

 ……安曇が絶対にそうだと言うならそうなのだろう。どちらにせよ意味は分からないが。


 安曇はくるりと体の向きを変え、ホテルの方へと歩き始めた。それから腕を星空に突き上げるように伸びをして

「あー、楽しみが一個増えちゃったなあ」

 と言っている。


 どうやら元気が出たらしい。

 普段から世話になっている相手だ。もとよりそれくらいのお願いなら強いて断りもしないが、俺が安曇に飲み物を買ってやるだけで彼女が元気になるなら喜んで献上しよう。

 彼女の後姿を見てひとえにそう思った。


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