人魚姫ですが?
部活も終わり、帰り支度を始めた時のことだった。
「みんなで熱田神宮に行こうと思うのだけれど」
と橘が妙な提案をする。
「なんで?」
「益岡先輩の合格祈願よ」
益岡先輩か。そういえばセンター試験まで百日を切ったとか、先生が言っていたな。
「安曇って先輩に会ってたっけ?」
安曇が放送部に入部したのは、益岡先輩が引退したあとのことだった。顔も知らない人の合格祈願に行こうと言われても、困るんじゃないか。
「この間の学校祭のとき結構話したんだ」
と安曇は答えた。
なるほどなるほど、そしてその場に俺はいなかったと。
「今から行くのか?」
「今からだとバタバタするから、土曜日、食事した後に行ったらちょうどいいと思うわ」
「ふーん。まあいいけど」
どうせ土曜の午後も予定などない。ちっとは世話になった先輩のために、神頼みに行くとしよう。今は神無月だから、もしかしたらお留守かもしれないけど……。旧暦で考えたら今は何月なのだろう?
*
単純に「名古屋駅集合」とだけ言うと、複数人メンバーがいるときは、確実に何人か行方不明になる。
まず名古屋駅が、JRなのか、名鉄なのか、近鉄なのかで分かれるし、JR駅前でも、桜通口なのか、太閤通口なのかで割れる。
改札口前といえばそれこそ大混乱が起こる。中央口改札、中央北口改札、桜通口改札、太閤通南口改札、広小路口改札、そしてなぜか新幹線の改札に行く奴。
駅集合といったらここだろと各々が別々な場所を口にするので、どうにもならない。
中には、駅前のサイゼリアに入って勝手に食事を始めてしまうような強者もいる。
……俺の妹だけどね。
電話で呼び出されて、店に入って妹を見つけるなり、「人と待ち合わせしているときに、勝手なことはしてはいけない」と注意したら、
「お兄ちゃん以外にはしないよ」
とうるうるした瞳で言ってきたので、秒で許した。
俺は穂波にとって特別な存在というわけだ。
それはそれとして。
そもそも尾張の人間でさえ、名古屋駅周辺の地理をよくわかっていないことが往往にある。それが名古屋駅が
だからしっかり場所を特定する必要があるのだ。
桜通口の金時計前は定番だが、芸がない。上級プレイヤーは金時計前を集合場所には選ばないのだ。
……それに、定番であるが故に誰かに出くわす可能性も高い。女子二人と一緒にいるようなところを学校の連中に見られるのは、具合が悪い。
広小路口がおすすめだが、たいてい迷うので、初心者には向かない。日常的に利用している橘はともかく、安曇さんとか絶対来られなさそう。
というわけで、JR名古屋駅前の交番前に集合としたのだが、女子二人がいつまで経っても来ない。
おかしいな。もしかしてハブられたのかな。泣こうかな。もう泣いてるよ。
ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。橘からの着信だ。すぐに耳に当てる。
「俺だ」
『俺だ、じゃないわよ。あなた今どこにいるの?』
「集合場所だが」
『私も集合場所にいるのだけれど。もしかして交番の中にいるのかしら? あなた何をやらかしたの? 痴漢?』
「何でだよ!?」
『もしかして、桜通の方にいる?』
「交番前といったら普通こっちだろ」
『どうして? 太閤通口にも交番あるじゃない』
「今回は名鉄使うんだから、普通近くに集まるだろ」
『場所を特定できないようなあなたの説明の仕方が悪いのよ』
……ぐぬぬ。
『安曇さんもこっちに来てるからあなたもこっちに来なさい』
それだけ言って電話は切れてしまった。
どうやら俺という人間に、この世界は威厳を持たせてはくれないらしい。スマホをポケットに突っ込み、女子二人の待つ、駅の反対側へと威風堂々と歩き出した。……嘘です。駆け足です。人を待たせるのは良くないからね!
*
橘が行きたいと言った店は、イタリア料理をビュッフェ形式で提供するレストランだった。イタリアンと言っても、高級路線のものではなく、ピザやパスタもあるが、野菜と魚介類をふんだんに使った、家庭的な地中海料理がメインだった。
派手さはないが、素材を活かした料理は確かに美味で、舌が肥えているであろう橘が、また行きたいと言ったのも頷ける。
「これ美味いな」
と舌鼓を打ちながら、料理を口に運んだ。
橘も安曇もカロリーのことはあまり気にしていないようで、プレートが空になれば立ち上がって追加の料理を取りに行く。安曇は活発な方だし、橘も健康には気を使っているようだから、それなりに運動はしているのだろう。
よく食べてよく動く。理想的な生活を送っているみたいで安心。
席を立った二人が戻ってきたら、その皿には先程俺が食べていたものと同じような品々が載っていた。
「何かしら?」
彼女らのプレートを観察していたら、橘に不審に思われたようだ。
「いや別に」
まあ人が食べているものは何故かすごく美味しそうに見えるよな。実際美味しいし。
*
「ちょっと食いすぎた」
店を出たところで、腹をさすりながら息をついた。
「私もいっぱい食べた」
と安曇は満足げだ。
「美味しかった?」
と橘が俺たちに尋ねてくる。
「うん!」
「美味かったな」
言ったら、橘は得意そうに笑みを浮かべた。
さて腹を満たしたところで、お社様のご機嫌伺いに参ろうか。
再び電車に乗り、本日二つ目の目的である、益岡先輩の合格祈願をするため、熱田神宮を目指す。
熱田神宮は名古屋にある神社だ。神宮と名のつくだけあって流石に立派である。この一角だけまるで森のようになっていて、周囲は伏見通り、国道一号線といった大きな道路で取り囲まれている。
観光客向けによく整備されているのか、歩道も広い。
名鉄の駅で降りて、南西に向かって歩く。門前町として発展したであろう神宮付近には、様々な店が居並んでいる。
神宮の正面に立地する、料理店から漂うひつまぶしの香りに鼻腔を刺激されながら、正門より敷地に入っていった。
「花丸くん。あなたは下界で十二分に汚れているのだから、ちゃんと身を清めなさい」
と言う橘。
「ふふふ。知らんのか? この世に汚れなき人間なんていないんだぜ」
と返す俺。
「またそんなこと言ってる」
と言う安曇は、手と、口を
「大体まるモンはちょっと洗いだぐらいじゃ汚れ取れないんじゃないの?」
「ねえちょっと」
「それは真理ね。もとから付いているものを落とせというのも、無理があったわ」
「おいこら」
「そうだよね。まるモンが汚れ全部落としたら消えちゃうよね」
……最近安曇さんが冷たいんですけど、俺何かしましたかね?
*
拝殿で参拝を済ませたあとは、境内を適当に散策していた。
西側のところで、土産物屋みたいな店があったので、入って商品を眺めている。
ふと気づいたら、女子二人が消えている。もしかして俺、置いてかれた?
そんな不安を一瞬抱いたが、窓の外を見たら、二人とも店の前にある池を覗き込んでいた。
俺も外に出た。
橘は店の前に広がっている池の前に立ち、売ってあった鯉用の餌を買ったようで、それをばら撒きながら
「鯉が餌を求めて私に群がってくるわ。そう、まるで花丸くんのように」
と一人でニヤニヤしている。
橘さん楽しそーだなー。
そんな彼女を、孫を見つめるおじいちゃんになった気分で、ボヘーっと眺めていたら、こちらの視線に気づいた橘が
「何かしら? そんな
と言ってくる。
「おい待て。何だその悪口になっていない悪口は。人面魚は人の顔をしているから人面魚というのであって、すなわち人間ならば
「ごちゃごちゃうるさいわね。あなた面倒くさいってよく言われない?」
「うん。君にだけは言われたくないな」
橘はしばらく俺の顔を眺めてから、
「あなた、もしかして欲しいのかしら?」
そう言って餌を載せた手を差し出してくる。
「いや食わねーし」
なんでそんな得意そうな顔するかなあ。
「欲しいってそっちの意味じゃないでしょ」
と安曇が呆れ口調で言う。そうだよね普通はそう思うよね。
でもね
「素直にお願いしたら、一口ぐらい私が手ずから、食べさせてあげないでもなかったのに」
「そっちの意味なんだ!?」
そうなんだよ。
橘は不思議そうな顔で安曇を見る。「何を言っているのかしら安曇さんは?」みたいな顔だ。
……本当何言ってんだか。
「ちなみに私は名古屋の人魚姫と呼ばれているわ」
「こんなコンクリートジャングルに人魚がいてたまるか」
「知らないの? 人魚姫の話を。王子様に会うため、魔法で人の姿になったのよ」
「俺の記憶では、人魚姫は喋られない呪いをかけられていたはずなんだがな」
童話なのになかなか残酷な事をするものだと思ったものだ。
だが、名古屋の人魚姫(笑)は全く逆の呪いをかけられたらしい。いつまで経ってもその口がおとなしくなる気配がない。
「呪いではなく代償よ」
「どっちも一緒だろ」
橘は肩をすくめてまた池の方を見た。
「……ナイフを捨てたら私はどうなるのかしらね」
餌を撒きながらポツリと小さな声で言った。
「何の話だ?」
「何でもないわ。ただの独り言よ」
*
参拝を済ませた俺達は名駅まで戻ってきていた。
橘はわざと遠回りして、地下道を巡り、安曇にどんな店があるのかを説明している。
「地下にもこんなにいっぱいお店あったんだね」
と感心しているみたいだ。
そうやって適当に散歩していたときのことだった。
「あれ? 梓じゃん」
いかにもなギャルが安曇を見て声をかけた。
「真那ちゃんじゃん! 久しぶり!」
と安曇は少々興奮気味に返した。
「元気そうじゃん。学校どう?」
「ぼちぼちかなあ。やっぱテストがしんどい」
「だよね。神宮だと余計そうじゃない?」
「どうなんだろ?」
真奈さんは、一旦安曇から目を離し、俺と橘を見て眉を顰めた。
「何で梓、花丸元気と一緒にいんの?」
と問い質した。
「えと、部活というかなんというか」
「……よしときって言ったのに」
「……えへへ」
なんだか長くなりそうだな。
「安曇、ここで解散にするから、お友達と旧交を温めたらどうだ?」
「いいの?」
「私は構わないけど」
「……うんじゃあそうする。ありがとね。また学校で」
「おう」
「さようなら」
俺と橘は、彼女らに背を向けて、その場をあとにした。
「誰なの?」
橘が俺に尋ねる。
死神と契約でもしないと、初対面の人間のフルネームを、言い当てるなんてことできないだろうから、橘がさっきの真那なる人物を俺の知り合いと考えたのは当然か。
「安曇との関係は知らんが、俺の中学での同級生だったやつ」
「そうなの。で、あなた彼女に何をしたのかしら? まるで親の
「おいおいよせよ。俺の中学生活ほど空っぽなものはないんだぜ。年中、『分譲中』って垂れ幕を下げてる、マンション並みに空っぽ。だから俺が誰かに何かをしたということはない」
「そうは見えなかったけれど」
「それな。最近、心当たりのない敵意を向けられることが多くて困ってる」
「それは大変ね。困ったことがあれば相談に乗ってあげるわ」
大抵の犯人は君なんだけどな。
「お前地下鉄だろ。俺JRだから」
地上に向かう階段の前に着き、地上を親指で指しながら、彼女にそう言った。
「電車の中で見境なく、女の人にいやらしい視線を送ってはだめよ」
「そんなことしねえっての」
「つまりあなたは私ばかり見ているということ?」
「……」
いや確かに見てないこともないけど、別に何か意味があるわけじゃないし。動くものは目で追ってしまうという、俺の中に眠るハンターとしての自然がそうさせるのであって……別に気になるとかそんなんじゃねえし。いやむしろ敵だからこそ気になる的なあれだろ。
「私ばかり見ているとそのうち痛い目に遭うわよ」
既に遭ってますがな。
「お前も痴漢されんなよ。最近変なやつ多いから」
こいつに痴漢したら確実に社会から消されるけどな、多分。
それはそれでよい。痴漢はクズである。
触りたいならまず自分に惚れさせるのだ。惚れたと思ったら存分に触ればいい。
勘違いして捕まるパターンが微粒子レベルで存在するけど。……そんなおバカさんまさかいないよね!
「大丈夫。私、あなたという変態を具現化した存在より、酷いものを見たことないから」
「それは良かった。良くないけど」
「じゃあ月曜日」
「ああまたな」
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