朝から何の用だよ
時節は晩春。そろそろ東海地方も梅雨入りしてもおかしくない頃だ。那覇あたりはすでに梅雨前線に覆われているのではないだろうか。今はまだ降っていないが、このどんよりした空を見るに、いつ降り始めてもおかしくない。
雨に打たれながら、登校するというのは、あまり気分の良いものではない。
気分を害すると言ったら、それよりも甚大なものが、目の前で繰り広げられているわけだが。
卑小な俺たち人間には、自然をどうこうする力などありはしないが、あえて俺は言おう。
リア充に
そんなことを思いながら、灰色の空の下、黄色い声を上げながら、サッカー部の朝練習を眺めている、女子生徒を横目に、つかつかと歩をすすめ、教室へと向かっていた。
サッカー部の何某が、シュートを決めるたび、黄色い声が上がる。猿かお前らは。
発情期の、ホモサピエンスのメスは、気に入ったオスがいると、甲高い声で、アピールするらしい。動物園で展示してあったら、観客が喜びそうだな。
春は新しく出会った異性に目を付けて、夏は露出の高い恰好で、誘惑し、秋には腹の畑に種を植え付けることを要求し、冬には、カカオマスを多分に使用した菓子で、気を引こうとする。
シリアゲムシという昆虫がいるが、その種も、オスがメスに食べ物の贈り物をして、メスが食事をしている間に、交尾をするという手段をとっているらしい。
要するにリア充がやっていることは、虫と同じことなのだ。
畢竟、リア充は虫けらである。
その点、清い心を以て、生活をしている俺は、高等生物の中の高等生物。全生物の頂点。もはや、新世界の神。違う。
「あら花丸君。おはよう」
昇降口で、上靴に履き替えていたところ、橘美幸に遭った。……待ち伏せかよ。アイドルの出待ち的な? 多分違う。
「うす」
「私はおはようといったのよ。そんなに臼で粉にされたいのなら、担いで持ってきなさい。私がミンチにしてあげるから。……ああ、クマさんのお人形しか、話し相手のいない花丸君は、挨拶の仕方も知らないのね。ごめんなさい、気が付かなかったわ。やり方を知らないもので叱られてもしょうがないわよね。人間誰しも、初めてのものはうまくいかないもの。これからは気を付けるのよ。いい? 私に朝会った時は、おはようございます、橘様。今日もお美しいですね、と言うのよ」
「お前は社交界の花なのか?」
「違うでしょ。おはようございます橘様。今日もお美しいですね、よ」
「……おはようございます橘様」
朝から、俺は何をやらされているんだ。
「最後が抜けているわよ。こんな簡単なこともできないようじゃ、あなた生きていけないわね」
……。鬱陶しい。
「今日もお美しいですねっ!」
「まるで言葉を覚えたての、子供みたいだけれど、いいわ。最初よりだいぶ良くなった。子供は褒めてあげないと伸びないから、褒めてあげる。花丸君に口説かれても嬉しくはないのだけれど、調教という行為に悦を覚えるから悪い気はしないわね」
このくそ女。
「朝から何の用だよ」
「別に私は用はないわ。担任の先生が呼んでいるのよ、あなたを」
「なんだよ」
「私が知るわけないでしょう。早くいきなさい」
どうして橘が伝言役をやっているのだ、とか言いたい文句は山ほどあったのだが、しぶしぶ俺は職員室の方へと向かっていった。
職員室に入ったところで、担任の先生が座っている席を見つけて、近づいて行った。
「先生、おはようございます」
「ああ、来たか」
「あの、何の話なんですか?」
「いや、実はな。……花丸は部活入っていないだろう」
「そうですが」
「それでな、部活の中には、学校業務の補助として、なくてはならない部もあるんだよ」
「はあ」
「放送部とか興味ないか?」
「放送部ですか?」
「ああ。学校放送で、生徒の呼び出しとか、下校時刻のお知らせとか、その他もろもろ連絡業務をやってるの聞いたことあるだろう」
「はい」
「あれ、放送部がやっているんだが、今の三年が引退すると、部員がゼロになってしまうんだよ」
「はあ」
「だから、お前に入部してほしいんだ」
「どうしてです?」
「無所属なのお前ぐらいしかいないんだ。もう一人頼んでみたんだが、猛烈に拒否されてな。どこに入るかはまだわからないが、確たる信念があるとかで」
わけのわからないことを言う。
「でも……」
「昼も、放送室で食べてもらうことになるんだが、そんなに居心地の悪いところじゃないと思うぞ。放送室はほとんどお前のものになる。帰りが少し遅くなるが、それまでは自由時間だし、部屋で勉強でも何でもやってもらえばいい。空調もあるし、あまり大きな声では言えんが、テレビもあるぞ。なんなら友達を呼んでもいい」
「友達……ははは」
乾いた笑いが出た。どうということはない。平常運転だ。机のほかにマイクのお友達か……。
部活というが、実質委員会活動である。課外でまで、学校の言いなりになるというのは、あまり気分の良いものではない。
……だが、校内に、俺だけの部屋が与えられる、というのはなかなか魅力的だ。実際、雨天時の昼食の場所に苦慮していたところだ。
「まあ、すぐに答えは出さなくていいから、考えてみてくれ」
「いえ、いいです。入りますよ」
「おおそうか! ありがとう。じゃあ、これ書いてくれ」
そういって、担任は、入部届を差し出した。
ささっと、書類を書き終えて、俺は職員室を後にした。去り際に、「黒板消しとけよ」と用事まで頼まれる。俺日直じゃないんだがな。
教室の方へ、歩いていたら、手洗い場のところで、橘が手を洗っているのを見かけた。
「何してるんだ?」
「見てわからないの? 汚れたので、手を洗っているのよ。あまり近づかないでくれるかしら。せっかくきれいにしたのに、全身消毒する羽目になるから」
「それ、俺じゃなかったら、普通にいじめだと思うんだが」
一人の女子にいじめられる男子、というのはなんだか情けなくて、認めたくない俺である。……立場は同等であるはず。
「私に不用意に近づいたセクハラでおあいこよ、花丸君。女の人はか弱いのだから、男の人の菌に恐怖を抱くのは自然じゃなくて?」
恐怖対象がかなりミクロである。
「お前、電車とか乗れんぞ」
パーソナルスペース広すぎやしないか。俺はこいつに三メートルも近づいていない。
「専属のドライバーがいるからいいのよ」
ブルジョワか、この野郎。
*
午前の授業を終えて、昼休み。案の定、雨の降り始めた中庭で、優雅な昼食をとることもかなわず、せっかくなので、早速、弁当を持って、放送室を覗いてみることにした。三年の先輩がいるだろうが、まあ、なんとかなるだろう。あの橘美幸よりは、まともな人間であるはずだから。
渡り廊下を歩いて、本館の放送室のところにやって来た。
ノックをしてみる。……が、誰も出てこない。首を傾げて、ノブに手をかけてみたら、回った。
おそるおそる入ってみた。
中には、黒縁メガネをかけた、女子生徒がいた。
ある通説にこんなものがある。
ぼっちは、ぼっちを感知できる、と。
ああ、この人は多分、友達が雀の涙しかいないのだろうな、と俺は一目見て分かった。陰気な顔をして、突然部屋に入ってきた俺を見て、挙動不審に陥っている。
「あの、新しく入部した、花丸と言いますが」
「えっ、あっ、部長のま……ぁぅ」」
最後の方は、小さくてよく聞き取れなかった。
「松岡さん?」
「あっ、ますぉゕ」
益岡って言ってんのか? まあ、いいか。
「俺入部しますんで、今日のうちに仕事教えてください。全部引き継ぎますから」
「……そこ、……マニュアル」
そういって、先輩は、壁沿いの棚に置いてあった、冊子を指差した。それきり黙って何も言わなくなってしまった。……よくこんなんで、放送やれていたな。対人だといけないとかそういうのだろうか。
そういうわけで、昼食をとってからは、そのマニュアルに目を通していた。
昼休みも終わりに近づき、先輩は席を立ったのだが、
「後は、よろしくお願いします」
とぼそぼそと言って、出て行ってしまった。……まじで機器の説明とかしてくんないのかよ。
午後の授業を受け終えて、少々の不安を残しながら、放送室に向かう用意をする。まあ、困ったことがあれば、教師に聞けば何とかなるだろう。てか、顧問誰だろう。……それも聞くか。
教室を出ようとしたところで、
「花丸君、どこに行くのかしら。そんなに急いでも、一緒に帰るお友達はいないでしょうに」
いちいち要らんことを言う女だ。
「部活だよ」
「あら、入ったのね。あなたみたいな人を受け入れてくれる部活があるとは驚きだわ。世の中まだ見捨てたものではないわね」
ほっとけ。
「私は職員室の方に用があるので、あなたのお相手をしてあげられないの。ものすごく暇なときにしか、かまってあげられないのよ、ごめんなしね」
「お前最後、言ってはいけないこと言ってないか? 俺に死ねって言わなかったか?」
「あら、言ってなかったかしら。私の故郷では、「さいね」が詰まって、しねになるのよ」
「尾張近辺で、そんな、なまり方する奴聞いたことないぞ」
「えっ、どうして、あなた私が愛知出身って知っているのかしら? ストーカーなの? 気持ち悪いわ。近づかないで……くだしね」
「今無理やり語尾変えただろ」
「いちいちうるさいわね。細かい男は嫌われるわよ。それを直したとしても、私は、あなたの嫌いな要素が、後、アメリカバイソンの生息数並みにあるけれど」
「多いか少ないか分かりづらいな!」
アメリカバイソンは、北米に住む大型野牛で、乱獲によって、六千万頭いた個体数は、五百頭を切るまで数を減らしたが、今では三万頭ほどまで、回復している。
……昨日Eテレでやってた。橘も見てたんかい。かわいいな、おい。
「私忙しいの。また今度にしてくれるかしら」
お前が絡んできたんだろうが。
そそくさと職員室に歩いて行った橘を見やって、俺も本館に行かなければいけなかったことを思い出し、同じ方向に歩き出した。
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