四十、緋魚姫3
――風にあたりましょう
菜ヅ名が言った。
表の空気でも吸えば幾らか気分も快くなろうと、そう庭に誘うのだった。
素直に応じた。
訳も分からず悲しくなってほろほろと泣き濡れた後で、それを抱き止め受け止めてくれた女の前で、為すべきもなく向き合っているというのは居た堪れない。共に庭でも歩く方がましだと思った。
菜ヅ名もまた、そうした心遣いで言ってくれたのだろう。席を外したのでは気掛かりが残り、と言って気詰まりなのも――と。
涙のわけを問われたところで、なんの説明もできぬのを察したのだと思う。なにしろ記憶喪失だ。失った過去を思い出して泣いたのでもない。相変わらず、己が誰であるかすら知らぬ。
「椿の蕾がもうこんなに」
添える程度に控え目に手を引き、前を歩いて導く菜ヅ名が振り向いて言う。袂を垂らす袖の先から僅かに覗く白い手指が、緑の濃い茂みを指していた。
艶々と光沢のある葉のそこここから、おおぶりの蕾が顔を出している。膨らんで、先が紅に色づいていた。まだ固く、内側がみっちりと詰まった重い印象である。それでいて果実のようにふくよかだ。さぞや華やいだ咲きざまを見せることであろう。
「綺麗」
菜ヅ名の横へと並び立ち、その膨らみに手を伸ばした。
指先が触れようという寸前、引く。
きゅっと握って袂に隠した。
触れたなら、落ちてしまう。椿はボトリと落ちるから。咲き切った途端、枯れるのも待たずに落下するから。蕾に触れたら、それが急に花開いて瞬く間に落ちてしまう、そんな気がした。
――仙女じゃあるまい
斯様な通力などあるはずもない。何を幻想しているのか。
自身をおかしく思う。
訝しむ視線を感じて、隠した手をそっともう一度、花に伸べた。蕾は見た目通りに硬く、重く、その上ひんやりしていた。
水気の通う、どこか潤った冷たさだ。石や木とは違う。陶器に似ているが、それよりはやわい。
「咲いたらお部屋へお持ちしましょうね」
優しい声に戸惑う。
「そんなには――」
長く置いてもらうわけにはいくまい。
「いいえ、居て頂きます」
珍しく強い調子で菜ヅ名は言った。
きっぱりとして、例えるなら姉が妹に言い含めるような調子である。
日の下で見る彼女は、常より若やいで見える。或いはこちらが本来の姿のやもしれぬ。これまでは病に伏す身を看守るばかりで、彼女自身も気が塞いでいたのだろう。庭に降りたは菜ヅ名の気晴らしにもなったようだ。
言った後、彼女はまた優し気な微笑みを浮かべた。
親身になって憐れむような情のこもった眼差し。それをそっと伏し目にして、私の手を両手に包んだ。
「どうぞ身も心もお健やかになられますまでは、お傍に。何もかも思い出されて帰るべきがあるなら格別。さもないのなら、いついつまでも身を留め置かれませ。我が主もお望みです」
「そんなことは――」
ないだろう。
と、言うつもりだったか、出来ないと言いかけたのだったか。
続く先が曖昧に消える。
あんまりなご厚意である。そうするいわれなどありはしまい。
――或いは、何か知っているのか
実は見知った顔であったのか。素性を知った上で隠しているのか。
そんなことはありはすまい。
――ないはずだ
何故そう思う。分からない。
だが触れた蕾が懐かしく思える。咲き競う大輪の八重咲の艶やかさを胸に描く。いつかどこかで、そんな景色を見たのだろうか。こんな椿の植わった庭を。
「どうして、そんなにして下さるのです。私はどこの誰とも知れぬ、卑しい身元の者かも知れぬのに」
「あり得ませぬ」
俯いてしまった私に気を遣ってだろう、再びゆるく手を引いて菜ヅ名は庭をゆったりと廻る。
「どうして」
「見ればわかりまする」
ふふと横顔で女は笑んだ。
「確かに、今のお召し物は当家でご用意した品。ですが姫様は元より斯様なお姿をなされていたはず。そうでなくてどうして今のように振る舞えましょう。賤しい者が着飾ったとてただ服に着られるばかり。馴染まぬ
それは、そうなのだろう。着慣れない感触はしない。だからと言って、慣れているという感もないのであるが、不便を覚えぬのだから似たような
「そも」
と、女は言葉を継ぐ。
「卑賎の民は斯様に美しい髪も
ああ。確かにそこはそうだと納得する。顔かたちは、鏡を見ていないのでわからなかったが、髪は自分でも目にしている。
黒々とした長い髪。艶々と絹のように細く、真っ直ぐな。
姫と呼ばれるほどの身分であったかどうかは兎も角、野働きや物売りの娘などではなかったはず。そうであったならとうに髪など切られるか、もっともつれて垢じみているものだ。
――水の中で洗われた……わけでもきっとない
肩を流れる髪に無意識に触れる。ひんやりと潤った感触がする。さらさらと指の間を滑り落ちる。
くしけずり方を知っている。
体が覚えているのを感じた。毎日手入れしていた、その感覚を。
だが、上流の娘ならそれは侍女の役目ではないか。ならば自身はそこまでではなかったのだ。少なくとも、己で己の手入れを必要とする立場だった。
いや、どうだろう。
単に侍女の仕事ぶりだけでは満足がいかず、自身でも櫛を通していたのかもしれない。何故なら――
ふっと、想起したのだ。
手の感触。
髪に、頭蓋に、触れる手のひらの、撫でて通ってゆく指の、僅かな重みとくすぐるような感覚とを。
いつか誰かにそうして貰ったのではないか。
愛しい――恋しい――
胸を抑える。疼くような、締められるような、痛みと息苦しさを覚える。めまいがする。
「姫様」
菜ヅ名の声がする。気色ばみ、寄り添って呼びかける。
――違う。違う。
そうではなかった。
そんな呼ばれ方ではなかった。
もっと激しい、荒い呼ばわれ方だった。
思わず心臓が跳ねるような。ドキリとして、息を呑むような。
険しい。
冷たい。
呼びつけておいて突き放す、蔑みに満ちた、憎しみの籠った。
――厭だッ
思わず悲鳴しそうになって、唇を噛んだ。胸を抑え、目を閉じる。わき上がる震えを抑え込む。
「……大丈夫。少し、目が回って」
ゆるゆると顔を向け、菜ヅ名に安心するよう言い聞かせた。
我ながらか細い声である。見えずとも、自身の蒼い顔色が見えるようだ。笑みもさぞぎこちなかったであろう。
菜ヅ名は哀し気な顔をして、それでもこちらの努力に応えようというように、僅かに口元を笑ませて見せた。
「お戻りになったほうが宜しゅうございましょうね。無理をさせてしまいました」
「いえ、平気です。今しばらくここに」
風が快いから。と告げた。嘘ではなかった。
どうにも気持ちが乱れがちなのは、伏していても収まるまい。忘れてしまった過去を取り戻そうと、頭が勝手に働いているのか、心の奥底がそうするのか、知れないけれど不意に堪らないものが込み上げるのだ。
或いはこうした動揺を繰り返して、やがては全てを取り戻すのかもしれない。だとしたら、菜ヅ名には随分迷惑なことである。
なるべく取り繕わなくては。気取られぬよう、平気なふりで。でないといつまでもこの優しい女は気が休まらないだろうから。
「それなら、あちらに楓がござりまする。目に爽やかで美しゅうございますゆえ」
さりげなく越し方へ戻る向きへ彼女は導く。連れられて歩を進めた。
趣深い庭石に、ほっそりとした楓が寄り添うように
綺麗である。
仰ぎ見て、明るい緑の隙間から空をも透かし見る。
空。高い青さにかそけき月が薄白く。なんと儚い姿だろう。あんなにも儚いのに、夜には皓々と照るのか。
「何を――」
願われたのです。
と、女は尋ねた。意味を汲みかね、顔を見る。
「覚えておいでではないのでしょうね」
言いつつ、彼女は私の肩にそっと手を当て、中に戻るよう促した。
その動作は端女の行いとしては不遜であったが、不快ではなかった。元より彼女は自身の下女ではない。そのように振る舞っているというだけで、実際には相手の方がよほど家格の高い者かも知れぬのだ。だから気にならなかったということでもないが。
その仕草がいかにも労わり深く、思いやりに満ちていたからだろう。やはり、妹を慈しむ姉のようなそぶりであった。
「姫様は覚えておいでではないのでしょうが」
そう前置いて、女は物語る。
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