第14話 進む針
文化祭の日以来、美以子は一週間ほど学校を休んでいた。
理香子が学校側に事情を説明し、「今は何より彼女の回復を優先に。そのうえで、また通えるようになればいい」と、先生たちも理解を示してくれていた。
家では少しずつ変化が見られた。
美以子は自室から出てくる時間が増え、恵茉や理香子、郁人とも少しずつ言葉を交わせるようになってきた。
まだ本人には伝えていなかったが、先生から「彼女の友人たちが、登校の付き添いを申し出てくれている」との話もあった。
(悔しさもある。……でも、結果的には、今の環境は美以子ちゃんにとって悪くないのかもしれない。先生も、友達も、ちゃんと味方でいてくれてる。やっぱり今なんだ。今こそ、あの子が一歩を踏み出せるときなんだ)
その夜、理香子は「ちょっと話があるの」と美以子をリビングに呼んだ。
季節にはまだ早いが、窓の外からは静かに鈴虫の声が聞こえていた。
ふたりの間に沈黙が流れる。理香子が言葉を選んでいると、美以子が先に口を開いた。
「理香子さん、いろいろ心配かけてごめんなさい。……でも、少しずつ体が楽になってきました。来週から、学校に行こうかなって思ってます」
――それは、いつもの美以子だった。
顔色はまだ青白く、目の下にはくまが残っている。とても「元気」とは言えない。
それでも彼女は、無理にでも前を向こうとしている。
もう甘え方を忘れてしまったのだ。孤独の中で生き延びるために、「感じないこと」を身につけた。
深く暗い感情も、心に蓋をして見ないふりをすれば――少なくとも、生きてはいける。しばらくは。
理香子は、そんな健気な姿に唇をきゅっと噛みしめた。
「美以子ちゃん、私ね……ずっと考えてたの。あなたはまだ17歳。赤ちゃんだった頃のこと、今でもよく覚えてる。でもあなたの人生は、普通の人よりずっと早く進んでしまってるように感じるの。だからこそ――あなたには、本当に力になってくれる人が必要だと思ったの」
理香子の目は、まっすぐ美以子を見つめていた。
「もちろん、私たち家族はこれからもずっとそばにいるよ。でも今日話したいのは、“あなた自身の治療”についてなの」
「……治療、ですか?」
美以子の視線は、どこか遠くを見つめていた。
拒む様子もなければ、喜びもない。
理香子は、自分の手がかすかに震えているのに気づき、そっと膝の上に置いた。
「大学時代の友達がね、いまはカウンセラーをしてるの。信頼できる人で、今は愛知に住んでるんだけど、最近はオンラインでのカウンセリングもしてるの。……もしよければ、試しに一度だけ話してみない?」
しばらく、美以子は黙っていた。
その沈黙のあいだ、理香子は「断られるかもしれない」と思いながら、そっと見守っていた。
それでも返事がなければ、「無理しなくていいよ」と言うつもりだった。
「……ぜひ、お願いしたいです」
表情はほとんど変わらないままだった。
でも、その声はまっすぐで、はっきりしていた。
「自分でも、どうにかしなきゃって思ってたんです。……でも、どうしたらいいか分からなくて。カウンセラーの人に話せるなら、話してみたいです」
理香子は、内心で小さくガッツポーズをしながらも、表情は崩さなかった。
「よかった。さっそく連絡してみるね。オンライン用のパソコンは、郁人が貸してくれるって」
「ありがとうございます」
「それから、もうひとつ……」
「はい?」
「学校の先生が言ってたんだけどね。美以子ちゃんのお友達が、朝、迎えに行きたいって申し出てくれてるの」
(八千代……)
その名前を聞いた瞬間、美以子の表情が、ほんのわずかにやわらいだ。
理香子はその小さな変化を見逃さず、胸をなでおろした。
「たしか、八千代さんと……多西くんだったかな? ごめん、ちょっと記憶があいまいだけど、近いうちに連絡が来ると思うよ」
「あっ……」
小さく声をもらし、美以子はうなずいた。
つくったような笑顔を浮かべながらも、心の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(あんなに怖がってたのに……。私って、ほんと単純。名前を聞いただけで、こんなに嬉しいなんて)
その夜、美以子は自室に戻り、ベッドに身を投げ出した。
そして――不思議なことに、すぐに眠りにつくことができた。
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