第2話 灯火
学生時代に自転車(チャリンコ)で、日本一週をした事が自慢ではあったが、やはり、車道から山道に入ると自転車を押すか、担ぐかしかなかった。あの時は、まだ若かったこともあるが、真っ暗闇の山道を、自転車の懐中電灯を頼りに進んでいった。この先に、小屋があると知っていなければ絶対に入り込まない山道と時間帯であった。事実、車道が尽きた最後のバス停で簡易テントで野宿しようかとも思っていたくらいだった。だが、前日に泊まったユースで偶然会った小屋仲間から、多恵が来ている事を聞いて、峠を三つも越えて来た。今回逢えなかったら一生逢えない様な気さえしていた。
多恵と会ったのは、岳(がく)が大学の3回生の夏だった。その前の年に自転車で、ほぼ全国を走り回っていたため、3回生の夏休みは、燃え尽き症候群と言った所で、特に何も計画していなかったが、そんな日々のなか、ふと北海道で出会った、自転車仲間から聞いていた、ある山小屋の事を思い出した。
「まあ、時間もあるし、ぶらっと行ってみるか」いつもなら、輪行バックを用意する段取りだが、今回は山用のリュックだけだった。寄り道はあったが、出てから3日後には、小屋に着いていた。
その時の多恵は、小屋の広間の片隅で、壁に寄りかかった状態で何かの本を見ていた。始めは、高校生かと思っていたが、事実その日は、実際に3.4名の女子高校生のグループが居た。小屋には、数名のヘルパーと呼ばれる接客や食事の支度を手伝うアルバイトがいた。もう夏休みも終わり近かったが、岳はまだ小屋にいた。なぜなら多恵が居たから。どうしても一緒に居たい気持ちにさせる、何か強く惹かれる物があった。宿泊客も減り、何となく多恵との時間が過ごせる様になると、小屋の女主人から教えて貰った、そう遠くはない、この辺の名所に連れ出していた。
「何故そんなに良くしてくれるの。もっと若くて可愛い娘が沢山居たのに。」やっとお互いの事を話せる様に成ってから、岳は、多恵が六歳も年上である事を知った。でもその事実に対して、何の抵抗もなく、できれば、この人と結ばれたいとすら考えていた。
翌年の秋に、ヘルパーの和也から聞き出した、多恵の住所に手紙を出してから5日後、居ても立ってもいられなくなって、奈良駅に来ていた。
古都の駅らしく、落ち着いた佇まいと言えば支障は無い表現なのだろうが、近くの私鉄駅から比べると、何処かの田舎の駅の様だった。「そう言えば、こんな場所、北海道の廃線になった駅にあったな」独り言とも付かない愚痴を言いながら、岳は多恵を待っていた。突然の電話で断られる事も覚悟していたが、多恵は来てくれた。
「ほんとに来ると思っていなかったわ。」ちょっと戸惑った顔で、岳に声をかけた。
「ごめん迷惑だったか?今年の夏は小屋にも来ていなかったし。」
「うん・・・ちょっと体調が悪くて、夏バテて言った所かな。」
「ええ、大丈夫」
「今は、元気なほうかな」
「ああ、良かった。奈良まで来て鹿見てかえるんじゃー、つまらないからな。」
去年の暮れに逢った、多恵と比べてちょっと瘠せた様な感じであつたが、メイク(化粧)の違いかもしれないと思い直して岳は、再び多恵の顔を見た。
「色々調べてプランは持って来たけど、多恵さんの負担にならない程度で、ぶらぶらすれば良いと思ってますが・・もう少し率直に言えば、一緒に居られさえすれば言い。」
岳の言葉に、多恵は、ややはにかんだ顔で言った。
「何時まで居られるの。」
「え、居てもいいの。」
「ええ。とりあえず四、五日は空けてある。」そんな会話の後に、古墳を巡り、三輪山を巻いた山道を歩き、長谷寺まで行った。
「小屋でもこんな風にぶらぶら歩ったね。」
「岳ちゃん、小屋から帰ろうとしないいだもの。つい甘えてしまって。色んな所に付き合ってもらったわね。」奈良公園の近くの和食屋で夕食を摂りながらその日の出来事や、小屋の仲間達の話を、摂りとめも無く話していた。そのゆっくりとした時間の流れが心地良く、岳には、心に秘めていた多恵の決意に気づく事はできなかった。その日の別れ際に
「明日は、私の家に来て。朝、今日と同じ場所で待っているから。」そう言い残して去っていった多恵を見送り、今夜の宿であるユースに向かった。
琴宮多恵、琴宮家は旧家で、古くは宮廷の雅楽隊の一員として、楽器作りや調律などを行っていた家柄であった。多恵の家は、そんな琴宮の分家で、家を継いだ弟夫妻と祖母がいた。両親は、多恵が八歳と十三歳の時に亡くなっていた。家の者は、多恵が連れて来た、岳を見て少し驚いている様ではあったが、家の人達に一通り挨拶した後で、多恵は、自分の暮らす離れに岳を案内した。琴宮の家全体がそうなのだが、母屋を囲み、夫々の工房があり、雅楽用の楽器を手分けして作っていた。そんな工房の一つが多恵の部屋であった。
「以前は、少し楽器作りの手伝いもやっていたのだけれど・・・最近は主に資料の整理をしているの。」その部屋は、何処かしっとりと落ち着いた、木造の温もりが感じられる部屋だった。多恵は、お茶やお菓子で持て成してくれたが、暫くして唐突に
「お願い、私を此処から連れだして・・・少しの旅行位なら出来るように準備しておいたから。」
岳は、多恵の意外な言葉に驚いたが、同時にすごく嬉しかった。
結局、伊勢神宮は行った事が有るので、出雲に行きたいとの多恵の言葉で、出雲行きを決め、段取を打ち合わせてから、京都に一泊してから向かう事にした。
何の違和感もなく、岳と多恵はホテルの一室にいた。そしてその夜、岳は多恵を抱いていた。
「こんなおばあちゃんでゴメンね。それと・・・」多恵のそんな、謝罪を無視するように岳は、多恵の体を求めていた。
「本当はね、何処か行きたいとかじゃ無かったの、二人の時間さえ取れれば・・・」岳の激しい求めを、多恵はすべて受け止めて、岳を優しく包んでいた。
岳が、明け方近く目覚めると、こちらを見ていた多恵の横顔があった。そして唐突に
「来週から、私入院するのよ。」そう言うと、多恵は、岳の手を自分の胸に当てた。
「しこりが在るでしょう。・・・癌なの。」
一夜を共にした、多恵の体の中に、そんな秘密が隠されていた事にまったく気がつかず、朝を向かえようとしていた自分に、嫌悪を抱きつつ、訳も分からず多恵の体を強く抱きしめていた。
多恵の病状は最悪な状態で、小胞癌はすでに体中のあちこちに転移していた。医者からは、手術をしても手遅れである事と、手術は下手に体力を奪い生存期間を短くするだけである事を告げられていた。終末医療施設を幾つか紹介されたが、行く気にはなれず、母屋の離れで過ごしていた時に、岳からの手紙が届いたのであった。多恵にとって、その手紙が、今ある唯一の希望の様に思え、どう返事をしようか悩んでいる内に、岳の方から押し掛けられてしまった。そのためか、ある種の躊躇いと共に、岳と出会いに何時になく楽しい時間を過ごせる日々を嬉しいと思っていた。
「ずっとこのままで居たい。私って、悪い女ね」
「岳ちゃんならきっと一緒に居てくれると思っていた。」
「本当わね、あの年の夏、いつまでも帰らない岳ちゃんがとても嬉しかった。でも同時に怖かった。岳ちゃんが、居なくなる事と、岳ちゃんを好きになってしまう事が。」
「あの年、すぐ上の姉が亡くなって、いよいよ私の番が来たなって気がして落ち込んでいた時、薫さんの誘いもあって、あの小屋に行っていたの。」
岳は、耳元で囁くように話す多恵の話を聞きながら、あの年の夏を思い出していた。
小屋の広間の片隅に、ひっそりと居た、少女の様な目をした多恵の横顔。その横顔は、今隣りにいる多恵の横顔と同じであった。
今は、ただ一人の女(ひと)を救えればいい。当面の出来事は問題ではなかった。多恵の灯火がつきるまでの間、側に居てやりたい。ただそれだけで、彼女が救えるのなら。
多恵との二人の生活が始まったのは、それから1ヶ月後の事であった。かつて文豪達の別荘があった、水辺に近い家を借りた。洋館の様な佇まいの居間の窓からは、湖面に揺らされる数々の光りの輪が煌めいて見えた。多恵はよく、その窓越しの風景を、何時間でも見て過ごしていた。
岳は、その家で翻訳の仕事をする傍ら、週に数回、語学の講師をしていた。そんな緩やかな時間が流れて行く中で、
「岳ちゃん、私もう少し生きていたい。だから、抗ガン剤療法を受けようと思うの。」そんな、多恵の決意を尊重して、今まで拒んでいた投薬療法を始めたが、あまりの壮絶さに見かねて、岳の願いで止めてもらっていた。
そんな中、海外の医療団体で活動していた、山仲間の薫と啓祐が二年ぶりに帰国し、岳と多恵の新居を訪ねてくれた。
「都内にも近いわね。」
「ええ、岳も都内に出やすいのを考えて、ここを選んだみたい。」
岳は、薫達のためにお茶を用意していた。
「頂いた紅茶、早速入れさせてもらいました。香りが良いですね。」
「ずっと砂漠みたいな所が、キャンプ地だったので、こんな水辺の風景なんて久しぶり。」
「夏は、大きな花火大会があってこの辺は、特等席よ。」多恵は、楽しそうに言った。
しばらく、薫達の仕事の話や、取り留めの無い会話が続いてから、啓祐と岳が近くの遊歩道に散歩に出かけていった。薫は改めて、多恵と彼女の病気の事について話始めた。
「あの病院なら、私の知り合いも居るから、モルヒネ療法を頼んでみるわ。」薫の計らいで新しい療法が始まると、多恵はだいぶ楽になったようで、この時期に一斉に咲く水仙の花を見るのを楽しみにしていた。そんな日々の中のある日、
「お墓は作らないで、出来れば山か海に散骨して欲しい。」
「私が居なくなった後、岳ちゃんの重荷にならないためにも、できるだけ私の存在を残したくない。岳ちゃんの心の中に居ることも、岳ちゃんにとってはきっと大きな重荷になるから。お墓があるときっと思い出す場所になるから。昔あった小説の一コマみたいに「君は、一生そこで墓守をする気か」なんてね」
岳の記憶の中では、そんな言葉が最後だった様な気がしていた。
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