お江戸の火消し、鬼退治記録

落花生

第1話プロローグ


喧嘩と火事は江戸の華――と呼ばれていた。


 木造建築の多い江戸では気の短い江戸っ子同士の喧嘩と同じぐらいに火事が多発しており、いつしか江戸に住まう人々に火事を楽しむような風潮が生まれたからである。むろん、巻き込まれれば怖いことに変わりはない。命に家財に家族、すべてのものを一気に失う。けれども巻き込まれない限りは江戸の家事は、一種の娯楽であった。


その江戸の華に舞う一匹の鴉がいたことを歴史は語らない。


「火事だ。火事だぞ!!」


 半鐘の金が響く。


 火花舞う、江戸の夜。


 江戸の人々は、火事から逃げまどっていた。自分の家財や財産を持ち出そうとするもの。子供を抱えて一心不乱に逃げるもの。逆に火事を見物しようとするもの、といった具合に火事は様々な人間模様を生んでいた。遠くからみれば、それはいっそ曼陀羅の模様のように奇妙な具合に均整がとれていた。人々の娯楽と混乱が、偶発的な模様を生み出していたのだ。むろん、そんなことを当の本人たちは知らない。



 そんな夜に、一匹の鴉が舞う。



 平屋と平屋の間を舞う鴉。紫色の半纏を身にまとい、誰よりも身軽に、誰よりも早く火事の中心部にたどり着く。


 正確には、彼はカラスではない。紫色の半纏を身にまとった青年である。その青年が、家の屋根と種との間を飛んでいた。青年の足元には、底に杭を打ち込んだせいで高下駄を思わせるような不安定な履物。その履物の底についた杭を屋根に刺して、滑り止めに使って青年は舞う。その青年には左腕はなく、本来持つべき刀は口にくわえていた。


あまりに身軽な度の姿。


 人々は、そんな鴉の登場に沸き立つ。


 中には「遅いぞ!」とヤジを飛ばす者もいたが、大抵の人間が鴉の活躍に胸を躍らせて手に汗を握っていた。


 そんな青年が、目指すは天をつくような巨大な鬼。


 火事の中心部に鎮座する巨大な鬼は、江戸に家事という災厄をなすものである。青年は、その鬼を倒すべき仕事に従事していた。


 燃え盛る鬼の肉体に屋根と同じように下駄の杭を打ちこんで、青年は鬼の肉体を駆け上がる。その様子は、まるで天狗が木を登るかのような身軽さであった。


そうして、駆け上がった彼は咥えていた刀の鬼の脳天に突き刺した。


 巨大な鬼の体がかしいで、江戸の町に倒れ行く。


 だが、その巨体が地面につく前に鬼は消える。


 こうして、炎の鬼の脅威は消え去った。


 これが江戸の火消し――定火消の仕事である。

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