賢者の石と愚者の雫

第1話

 ぎっしぎっしと軋む音。


 テッシーの住むアパート【なかよし荘】は、その適当極まる名付けにふさわしい安普請やすぶしんだった。最初は白かった壁に後から緑色を塗ったもののそれすらハゲたといった壮絶な風貌はゾンビに似ている。

 内階段は古ぼけた木製で、踏んづけるたびに強烈なカビ臭が木目から吹き出して鼻をぶん殴っていく。そのくせ、防犯の観点なのか木材が足りなくなった間に合わせなのかは不明だが部屋の扉だけ厚い金属製でアンバランス極まりなかった。その代わりに家賃は格安である。


 入居は自由で、空いてる部屋があったら誰でも勝手に住み着いてよい。

 大家はいるのかいないのか、テッシーも含めて住民の誰もが顔すら名前すら知らなかった。しかし、住民からは恐れられている。格安とはいえ確かに存在している家賃の滞納を続けると、罰として“干物”にされるからだ。

 以前、部屋にブービートラップを大量に仕込んで引き籠もってた機械愛好者メカニックの中年がベランダにぶら下げられていたことをテッシーは思い出していた。なので大家の正体は物理的な干渉を無効にできるような、幽霊の類いか何かだと噂されている。


 重い荷物とカビ臭に辟易しながら階段を上り、最上階の四階。その真ん中にある404号室が彼の住まいだ。


 鍵を取り出して捻ると、抵抗なくカラリと回った。鍵が掛かっていなかった。

 ノブを回すと、ドアが当然のように開いた。


 アルマの奴が来てるのか。と彼は察した。


 以前ならば強盗か敵対ヤクザ組織の侵入を心配していたが、アルマが入り浸るようになってからは必要がなくなっていた。

 その手の危険な来訪者は現代アート的オブジェ状の死体と化して外に放り出されるようになっているからだ。アルマ曰く、部屋主への敵意を察知して自動発動する高度なセンサー付きの魔術トラップを仕込んであるという。


 ――――でも、一回だけ宅配便のあんちゃんがオブジェ化したことがあるんだよな(恐らく指定時間にすっぽかされて怒った)。


 どうも感知する敵意とやらの閾値いきちは極めて低いらしい。でも安全なのは確かだ。そう彼は納得した。


「ただいまー」

「おかえりなさーい」


 気の抜けた挨拶に気の抜けた返事が返る。やはりアルマが来ていた。アルマはいつも通りの『下着よりちょっとマシ』な格好でソファーに寝転がりながら、何やら本を読んでいた。背がデカいからかソファーの長さが足りず膝の先が宙ぶらりんになっている。


 テッシーは入り口そばのキッチンに置かれた冷蔵庫を開け、買った食材を詰め込んでいく。

 野菜、魚、肉、飲み物、調味料。彼はパズルのピースが埋まっていくようなほんわかした気分を覚えながらメニューを考えていく。

 今日の収穫は白菜だ。みっちりと詰まっていながら押すと心地よい弾力を感じさせる上物。やはり店員がアサルトライフルや手榴弾で武装しているスーパーは品揃えがいい。魔絞市は石を投げると強盗に当たるような治安なので、良い商売のためにはそういうところにも気を遣う必要があるのだ。

 この白菜ならば水炊きにすると絶品だろう。よし、水炊きだ。ちょうど良い具合に鶏モモ肉もある。具材はこれだけでいい。シンプルイズベスト。ラブ&ピース。パタン。と冷蔵庫を閉めて彼は小さく息をついた。


「さて、と」


 ひと仕事を終えて大きく伸びをすると、肩とか腰とかの骨がゴキゴキ鳴る。

 買い物の何をどう手伝ってほしかったとかそういうわけでもないのだが、寝っ転がっているアルマになんだかちょっとイラっとしたのでふくらはぎを蹴ってやると「ぎゃあ」と言った。しかし相変わらず本から目を離さなかった。


「……何読んでんだ、そんな熱心に」

「んー、研究論文のようなものです。魔女の世界の」

「へえ。何か収穫でもあったか。上物の白菜みたいな」

「マンドラゴラの研究なら知ってますが、白菜は聞いたことないですね。特に目新しいのは……まあ、賢者の石の製造に成功したとかいう魔女の主張くらいですね。見ます?」


 巨木が倒れる映像の逆再生みたいにむっくり起き上がると、ページを開いたままテッシーに差し出す。

 それは魔女語などと形容されるような象形文字ではなく、普通に日本語で書かれていた。電化製品のカタログみたいなサイズをしていて、持つと不思議に重かった。


 目を通すと、びっちりと書かれた文字の合間に、そこら辺にいてもおかしくなさそうな中年女性の写真が挟まっているのが見えた。これがその魔女らしかった。

 テッシーの知る魔女はデカいし赤いし露出度が高いしでやたら目立つが、どちらが魔女として正道な姿なのかは彼にはわからなかった。


『賢者の石の製造に成功したというミロク・アルゼス氏』

『愚者の雫問題について』

『今後の課題について』


 論文の内容を見たってわかりそうもなかったので、見出しになってる太字の部分だけ追って読んでみたがそれでも同じことだった。

 ただ、愚者の雫という聞き覚えのない単語だけが気になっていた。


「なあ、愚者の雫ってなんだ?」

「あー、詳細に説明すると長くなるので最大限簡潔に言うと、世界を滅ぼせるポテンシャルのある最悪の危険物ですね」

「……簡潔に言いすぎだろう。どういうことだよ」


 これ見よがしなお手上げポーズをするテッシーを横目に、アルマが「ぬーん」と呻いて改めて言葉を紡いでいく。


「賢者の石はわかりますかね。あらゆる物質の源となる、無限のエネルギーを持った超存在なのですが」

「ああ、漫画とかで聞いたことある。むかーし存在してたっつう錬金術師? てのが追い求めたアレな。エネルギー保存がどうとかいうソレに違反してそうだが」


 アルマがピシッと膝を打つ。


「まさしくそういうことなんですよねぇ。無限を得るためには無限を失わなきゃ辻褄が合わなというのが愚者の雫問題なんです」


 適当に返した相槌が図らずも確信をついたらしい。テッシーはちょっと嬉しくなった。


「つまりですね、無限の有である賢者の石というのを生み出してしまうと、その帳尻あわせとして反物質である『無限の無』も同時に誕生するというのが古来よりある仮説なのです。それを私どもは愚者の雫と呼んでいます」

「……無限の無ぅ? なんだか矛盾してる気がするな」

「そうとしか言いようがないのです。実際に観測された例はないのですが」


 アルマは言葉を句切ると、夜更かしをする子どもを驚かすような口調を作る。


「もし愚者の雫がこの世に誕生するとですね……あらゆる物質を溶かして吸収する最強最悪の溶剤として、針の先程度の量ですら世界を丸ごとドロドロに溶かし綺麗さっぱり滅ぼしてしまうことでしょう……」

「……うわ、こっわ」

「だから賢者の石製造は難しい……というか無理なわけです」


 アルマは「無理なわけです」をわざとらしく発音して話を切ると、本をひらひらと弄びながら嘆息した。


「でも成功したって言ってるぞ」

「いえ、よく読むとただ主張してるだけで具体性がなくて……要は飛ばしですよ。現物の写真もないし。適当こいた魔女に適当こいた記者のダブル適当です」

「なんだ、つまらん」

「つまらんのです」


 アルマはそう吐き捨てると、読んでいた本をゴキブリでもぶっ叩くようにくるくる丸め、両端を手のひらで抑えるように挟んだ。

 パンッ。という軽い音がした。それはアルマの手のひらが拍手のように打ち合う音だった。

 手の間にあったはずの本がなぜか消えていた。

 アルマはこういう手品をよくする。テッシーには既に見慣れたものだった。


「おなかが減りましたね」

「よし。良い白菜があるから水炊きにでもするか」

「いいですね。お酒も持ってきましたよ」


 アルマがまた拍手をした。その手をゆっくり開いていくと、何もない空間から生えているみたいにワインボトルが出てきた。

 どや顔を見せるアルマに、彼は「やめろ、それ」とだけ答えた。

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