赤瞳の狼

 さっきまでの出来事が嘘のように、物音ひとつしない。木々の葉がこすれる音も、虫の鳴き声も。不気味なほどに。


 凛月は、あれから座り込んだまま一歩も動けずにいた。


 ここにいるのは危険だ。


 頭ではそう分かっていても、身体の方が言うことを聞いてくれない。


 今までの人生で感じたことがないほどの強烈な寒気と嫌悪感。血管が千切れそうなほど心臓が早鐘を打ち、ふらふらと視界がぐらつく。


 そんな身体をどうにかして落ち着かせようと、凛月は胸を押さえて呼吸に意識を向ける。


 すると、深く息を吸い込んだ鼻腔に、不思議な、けれどどこかで嗅いだことのある匂いが。


『心を強く持たないと、ようかいさんが寄ってくるわよ』


 どこで聞いたのかは覚えていない。


 だが、匂いと記憶は密接に関わっているという。


 突然頭に鳴り響いたその声の主が誰なのかは、思い出せた。


 それは、何度も聞いた母の口癖。


 そして、久しぶりに聴いた母の声だった。


「……ふぅ」


 凛月はなんとか呼吸を整え、胸に下げたボロボロのお守りを両手で強く握りこむ。


 それは母の形見。中身は何かわからない。だがこうすると、どんな時でも不思議と落ち着きを取り戻せた。


 正直、今すぐ山を下りたい気持ちでいっぱいだ。


 だが、本当の意味で帰れる場所なんて、今の凛月には存在しない。


 ついこの前まで住んでいたアパートも、ここに来る前に引き払ってしまった。


 とりあえず徒歩で山を下りて、町の宿屋に泊まるか……?


 いや、またあれが現れないとも限らない。しかもこの山には人喰い鬼がいると豊子が言っていた。送り犬らしきものに襲われた以上、その噂話だって本当かもしれない。


 恐怖に掻き乱され未だにぐちゃぐちゃの脳みそを必死にフル回転させて、凛月は最も安全な道を探る。


(……やっぱり、おばあちゃんの家しか)


 祖母が晩年まで例の屋敷で暮らせていたのなら、そこは安全なのではないだろうか?


 戻るにしても進むにしてもリスクがあるのなら、僅かでも助かる可能性の高いほうに賭けるべきだ。


 とにかく、ここにいてもどうにもならない。


 立ち上がり、服についた泥やら葉っぱやらをはたき落とす。


 ついでに自分の脚を思いっきり叩き、自らを鼓舞する。


「よし。行こう」


 相変わらず先の見通せない山道を、凛月は一歩ずつゆっくりと進み始めた。




 5分経ったか、1時間経ったか。


 緊張とそれに伴う疲労が凄まじいせいで、時間の感覚も狂ってしまっている。


 逃げているうちにスマホをどこかに落としてしまったらしく、時間の確認もできない。


「ん……? なんだろう、あれ」


 そんな中、段々と目が慣れきたのか。物の輪郭が少しずつ分かるようになってきた凛月の視界に、突然ぽぉっと小さな灯りが見えた。


「ちょ、提灯……?」


 時代劇でよく見るような提灯がひとつ、左右に揺れながら徐々に凛月に近づいてくる。


 もしかしたら、誰か人が迎えに?


 そんな爪の先ほどのわずかな希望が、凛月の胸に灯る。


 だが、肝心のその持ち主が、どんなに目を凝らしても見えなかった。


「もう……なんなの……」


 無理やり喉奥を締め付けられたような、かすれた声が鳴る。


 いつの間にか背後をつけて来た得体のしれない何か。そして今度は、暗闇に浮かぶ謎の提灯。


 もはや限界を超えた恐怖に、誰に向けたのかもわからない怒りが沸々と湧き上がってきた。


「……いい加減にしてよぉ! 私が何したっていうの?!」


 感情のままに涙を垂れ流しながら、四方八方に大声で喚き散らす。


 だが、まるで周囲の闇が全てを吸い取ってしまったかのように、凛月の叫びは誰にも届かない。


 提灯はそんな凛月の激昂も全く意に介していないのか、変わらず一定の速度で近づいてくる。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 凛月は、もうありったけの怒りを込めた瞳で睨みつけるしかなかった。


 すると。


「ついてきて」

「……へ?」


 もはや半狂乱の凛月を諌めるような、深く染み渡るような、落ち着いた女性の声だった。


 いつの間にか手を伸ばせば届く距離にいる、まるで凛月を誘うかのような灯火。


 誘われるように目を凝らすと、そこには提灯をくわえた真っ黒な狼が闇に溶けていた。


「ひっ?!」

「怖がらないで。ここで迷えば、あなたはこちらに帰ってこれなくなる」


 思わず後ずさる凛月に、赤子をなだめるような口調で語りかける黒狼。


 炎の光に揺れる真紅の両瞳が、落ち着けと凛月を諭していた。


「……あなたは誰なの。何なの」


 ついさっきまで、妖怪らしき何かに追われていたのだ。至極当然の疑問を、凛月はぶつける。


「はぁ……。少なくとも、あなたに何かするつもりはない。いつまでたっても屋敷に来ないから、わざわざ迎えに来てあげたのよ」


 狼はこの上なく気だるそうにそう答えた。


「なんでもいいからついてきてくれる? 月子の屋敷に行きたいんでしょう?」

「お、おばあちゃんを知ってるの?!」

「質問は後。とにかく急いで」


 愛想のかけらも感じられない口調でそう言うと、凛月の返事も待たずにさっさと先に進んでしまう謎の黒狼。


「…………」


 彼女? の言っていることの半分以上は理解できていない。そもそもなぜ狼が人の言葉を喋っているのか。どうして月子の名前を知っているのか。頭の上がクエスチョンマークだらけの凛月。


 それに加えて、あの素っ気ない態度からはとてもじゃないがこちらに好意を抱いているとは微塵も思えない。

 

 だけれど、不思議と彼女が嘘をついていないことだけは、それだけはわかった。


 凛月は意を決し、先を行く灯りを小走りで追いかける。


 その耳に、微かに祭囃子の笛の音が届き始めていた。

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