第5話

 土日が終わり、学校へ赴く。またも憂鬱な平日が始まったな、と気分が落ちたけれど、考えてみれば何をするでもなかった休日のときの自分の心持ちと今の心持ちに、特に差があるわけでもないことに気がついた。つまり、学校が面倒だと言うのはただの口癖だ。

平日が嫌であるという風潮。学校や会社に行くのが面倒だという不満。そうしたものを、自分は無意識のうちに周りから取り入れてしまっているのだろう。そして、僕が平日に嫌悪感を抱くようになるきっかけを作った人間たちも、先代の人たちからの受け売りとしてそうした考えをインストールしたに過ぎない。結局、そうした風潮を生み出した元凶がどこかは今となっては分からないし、そんな憂鬱な考え方を布教した人を突き止めて責めたてることも、今となっては不可能だ。

 そんなことを考えているうちに学校に到着し、下駄箱から上靴を取り出した時点で、僕はほとんど出くわしたことのない状況に置かれた。誰かから挨拶をされたのだ。

「おはよう!」

 元気で女子特有の高い声を聞いて、僕は瞬時に声の主を思い浮かべた。振り返ると案の定、風野咲がいた。この間の金曜日に終始見た笑顔を浮かべる彼女は、長年の旧友であるかのように僕に捲し立てた。

「今日もいい朝だね! ちゃんと空は見上げた?」

「そういえば、あの芸能人二人、結婚したんだってね! おめでたいよね!」

「今日は同じクラスの子の誕生日なんだ。花をあげようと思って、前から準備してたんだぁ」

 僕と彼女は同じ学年のため、教室は違えど向かう階は同じだった。そこへ向かう僅かな時間で彼女は濁流のように大量の情報を僕に流し込んできた。まさか本当に話しかけてくるとは思っていなかった僕は、ひとまず彼女の言葉は右から左に流し、状況の整理に努めた。そして、導き出した結論は、こうだった。

「君は、これから僕にずっと付きまとってくるの?」

 僕が言うと、彼女はきょとんとした顔をした。

「え、前の金曜日に言わなかったっけ? そのとき、諏形くん、頷いてくれてなかった?」

「……あれは」

「私は君の花を見つけるまで、側にいるつもりだよ」

 彼女は悪びれもせずにそう言った。

 迂闊に首を縦に振った金曜日の僕を恨んだ。僕に付きまとうという彼女の言葉に嘘はない。それは金曜日に過ごした彼女から、そう感じ取ったため断言できる。僕はしばらく、彼女から解放されそうにない。

「あ、そうそう。今日、放課後空いてる? 行きたい場所があるの!」

 困惑する僕をよそに、彼女はどんどん話を進めていった。僕が断る余地は全くなく、彼女の勢いに圧倒されてあれよあれよと事は運んだ。結局、僕は彼女と放課後に海に向かうことになった。自分で決めるのが大切なんじゃなかったのか。

 学校にいる間、僕は今日の放課後のことばかり考えていた。考えても仕方がないことなのは分かっていたけれど、いつもと違う日常が今の先にあると思うと、やはり考えずにはいられなかった。そして、奇妙なことに、彼女と海に行くことを楽しみにしている自分がいた。そんな自分に思わず苦笑した。最近の僕は、少し変だ。

 放課後、僕と彼女は学校の最寄り駅から電車に乗って海を目指すことにした。彼女は僕の分の運賃も出すと言ったけれど、他人に恩を預けるのは憚られたので、僕は頑なにそれを断った。

「私から誘ったからいいのに」

「いいよ。お金に関しては、きっちりしておきたいから」

「真面目だなぁ」

 彼女は呆れているような、感心しているようなよく分からない表情で僕を見つめた。

 電車に揺られながら数十分、電車は僕たちを目的地まで運んでくれた。改札を出て数分歩くと砂浜が見えてきた。もちろん奥には夕日に照らされながら蠢く海が横たわっている。

「わぁー、久しぶりだなぁ」

 彼女は一音分調子を上げた声で、感慨深そうに海に対する感想を述べた。

「こんなに迫力あったんだね、海って」

 僕は随分と久しぶりに見る海にそんな印象を持った。小さい頃は、この海の迫力に慣れるほどには足繁く通っていた。それがいつの間にか、こんなにも雄大で心が落ち着く海を見に行くことを、時間の無駄だと一掃してしまうようになっていた。行っても何もない。何も得るものはない。そうした損得勘定が働いて、僕たちはいつの間にか、彼女が言うように、自分の好きなものを選ぶ機会を失ってしまったのではないのだろうか。いや、機会ならいくらでもある。ただ、自分が好きなものを選ぶ。そのこと自体をやめてしまったのだ。

「潮風が気持ちいいね」

 彼女は心底リラックスした様子で伸びをした。

「うん、そうだね」

「無理やり連れてきちゃったけど、来てよかった?」

 彼女は僕の心を見透かしたように訊いてきた。それもそうだ。彼女にとって僕は、一昔前の自分と同じ心を持った人間であるのだから。

「まあね」

「素直じゃないなー」

 彼女はニヤニヤとしながら僕に肘でつついてきた。少し、いや、それなりにイラっとした。

「もうちょっと近づこうよ」

 彼女はそう言うとおもむろに靴と靴下を脱いで、小走りで波打ち際に向かった。呆気に取られていると、彼女は僕に向かって、「諏形くんも、はやくー」と叫んだ。

 仕方なく彼女の元に向かおうとすると、彼女は「ストップ!」と手の平を前に突き出した。

「裸足で!」

「いや、汚れちゃうから」

「聞こえなーい」

 確かに潮風が吹いてはいるけれど、僕の方は彼女の声が聞こえる。もしかすると彼女はすでに老化が進行していて難聴になってしまっているのではないかと、僕は結論付けた。

 そんな皮肉を誰に言うでもなく、僕はため息を吐きながら彼女の言葉に従った。そうしたのは、彼女に逆らうことができないという諦観めいた気持ちがあったからであるのは確かだけれど、彼女の言葉に心が躍ったからというのも密かにあった。彼女の言葉に共鳴すれば、きっと楽しいに違いない。そうした確信が僕の中にあったから、僕は表向き嫌そうに靴を脱ぎ、そして靴下を脱ぎ捨てたのだけど、そんな僕の思惑は彼女にはお見通しなのだろうと思った。

 ビールの泡のような海水の先端が、乾いた砂と湿った砂の境目で行ったり来たりを繰り返している。

 彼女は僕の到着を乾いた砂の上で待っていた。僕が彼女の元に向かうと、彼女は突然、僕の手首を掴んできた。そして、二人同時に海水に足をつけた。

「きゃーっ、冷たい!」

 彼女はそう言って足をバタバタと動かした。まだ海開きはしていないにしても初夏であるはずの季節に揺れる海水の冷たさに、彼女だけでなく僕も脅威を感じた。

しばらく海水に足を浸けていると、潮風との相乗効果もあって、身体が冷えてきた。

「いつまで浸かったままでいるつもり? このままだと風邪引いちゃうよ」

「えいっ」

 バシャリ、と彼女は両手で掬った海水を僕に投げつけてきた。

「子どもはかぜのこっていうでしょ」

 彼女は悪びれることなく、間髪入れずに僕に海水を浴びせ続けた。

「きっと、その子どもっていう言葉には、僕たちの年代は含まれないよ」

 そう反論したと同時に、物理的にも彼女に対抗して海水を両手で飛ばした。

「そんなこと言っちゃって、本当は楽しいくせに」

 まあ、確かに悪くはないけれど。

 顔に出ていたのか、彼女は僕の顔を見てニヤっとした。一発、それなりに本気の勢いで海水を彼女の顔に命中させた。彼女は機嫌を悪くした僕を宥めようと、帰りに駅で売っていたジュースをおごってくれた。これに関しては素直に受け取ることにした。僕と彼女はジュースを飲みながら駅のベンチで他愛のない話をし、海から離れる名残惜しさと一緒に、やがてやって来た電車に乗った。

 僕は先ほど彼女にタオルを借りて海水でべたついた足を拭ったけれど、それでもその名残はまだ靴の中におさまった足に絡みついている。彼女も同じなのか、空いた電車の中で足をぶらぶらとさせている。それがおさまったかと思うと、彼女はこの間のように真剣な表情をして僕に言った。

「いつしか、私たちは自分の好きなことを選ぶのを諦めるようになった。まるで、それが悪いことのように思って、みんなが自分を捨てる。自分っていう言葉は抽象的だけれど、私が言う『自分』っていうのは、何かに向いた感情全てのこと。嬉しい、楽しい、大好き、うっとおしい、悲しい、大嫌い、腹立たしい、寂しい。私たちが日常を送る中で感じたこと全て、『自分』なんだと、私は思う」

 彼女はその表情に切なさを落として、自分の足元を見つめている。

「みんな、大人になるっていう言葉を履き違えちゃってるんだと思う。大人になるっていうのは、周りに合わせて、自分の本心は押し殺す。そうして苦労する人間になることを、みんなは大人になることだと思ってる。でも、それは大人になるってことじゃなくて、自分を諦めるってこと。そうしちゃうと、みんな自分以外に責任を求めることができちゃうし、実際自分のせいではないことで自分が責められたりするから、辛くなる」

「ちゃんと自分で、責任を持って生きる」

 彼女の言葉を咀嚼しているうちに、自然と口をついて出ていた。僕の言葉に彼女は頷いた。

「自分で生きるための訓練として、まずは自分が好きなものに遠慮しないようにすること。何だっていい。これを今食べたいから食べる。眠たいから眠る。いつもは身体を洗ってから湯舟に浸かるけど、本当は先に湯舟に浸かりたいから今日はそうしてみよう、とか」

「…………僕たちはいつの間にか、誰かの色に染まっていて、自分の色を見失っていたんだね」

「うん。だけど、それは誰かのせいじゃない。生きているうちに誰かの色に晒されるのなんて当たり前だもん。大事なのは、自分がどの色に染まりにいくのか、ってことだよ。自分の好きな色ものに共鳴すれば、それは自分の色になる」

 彼女はもしかすると、進路選択の時期に差し掛かっていることを見越してこの話をしているのだろうか。このままだと、彼女の言う「花」を持たない僕が、今のように主体性を持たないまま人生を歩んで行ってしまうことを察して、彼女は僕にこの話をしてくれているのだろうか。

 僕と彼女は学校の最寄り駅に着いてから、途中までは同じ帰り道を並んで歩いた。その間はさっきのような真面目な話ではなく、他愛のない話をした。高校に入学して以来、彼女と過ごした二日間が一番僕の口数が多く、密度の濃い時間だった。

 彼女と別れて家に帰ると、母さんはまたも帰宅時間が遅くなった僕を不思議に思っているようだったけれど、無理に事情を訊いてくるようなことはしなかった。海水で濡れた制服を洗濯物に出してからリビングを覗いてみたけど、そこに父さんの姿はなかった。まだ仕事から帰って来ていないらしい。僕は思わずほっとした。

 急いでお風呂に入り、ご飯を食べて、父さんが帰って来るまでに自分の部屋に籠った。

 ベッドに寝転んで、僕は今日の出来事を思い返した。そして、彼女の言葉を思い出した。

「好きなものを選んでみる、か」

 僕はそう呟いてから、海で遊んだからか、金曜日のときと同じような疲労感に襲われた。そして、ゆっくりと意識が遠のいていった。

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