(10)闇に沈む
「君が為すこと、これから成し遂げようとすること。全ては無意味だ。君は我には勝てない。そして最後には愛を失う。全ては運命によって定められているのだ。君達を待ち受けている未来は、破滅なのだよ」
彼の玉を守っているのは、今や歩と桂馬のみ。
ならば、こじ開ける。93香打。歩の頭に、香車を打ち込む。
「強引に攻めて来たか。土足で我が陣に踏み込んで来るとは、何とも図々しい」
俺の指し手を見て、彼は呟きを漏らす。悪態をつきながらも、その表情は穏やかだった。
「だが、善い手だ。流石は園瀬竜司の息子だけのことはある」
「……親父を、知っているのか?」
「ああ。忘れたくとも、忘れられない」
苦笑混じりに、彼はそう答えた。
引っ掛かる言い方だと思ったが、今は対局に集中しなければ。
ここが正念場だ。もはや一手のミスも許されない。考えられうる最善手を指し続けろ。寄せ切るんだ。
「あの一局が、きっかけだったのだからな」
同歩、同歩成、同桂と進む。
今こそ食らえ。95香打!
親父と穴熊さんの間に昔何があったのか、気になる所ではあるが。
今はとにかく、対局に集中だ。
95に打った香車を眺め、穴熊さんは嘆息する。
端を突破する。この上なくわかり易い攻めだが、わかっていても受けにくいだろう。
92に歩を打って来る。93香、同歩と進む。
そこで、更に94歩を打ち込んだ。
「ぬう。破滅の未来が待ち受けていると知ってなお、食らいついて来るか」
「俺の未来を決め付けるな。俺はあんたとは違う。香織とあんたの奥さんを、一緒にするな!」
「明鏡止水を極めるには、心を将棋で満たすことが必要不可欠。つまり君の妻は、一時的とはいえ、君への愛情を自ら排除したのだよ!」
俺の叫びに、穴熊さんは声を荒げる。同歩と取られる。
「だからどうした!」
「……何?」
「俺はそれでも、香織を愛し続ける! 見返りなど求めない!」
たとえ将来、愛してくれなくなっても構わない。
そんなことで、俺の彼女への愛情は揺るがない。
気合を込めろ、園瀬修司。今こそ最後の勝負だ。
「──そう、か」
彼は絞り出すように言葉を紡ぐ。苦しいのか胸を押さえて、俺から視線を逸らした。
ふっと、今まで轟々と燃えていた黒炎が消える。盤上からも、周囲からも。穴熊さん自身からも。
心境が変わったのだろうか? 俺の気持ちを理解してくれたのなら良いのだが。
「ならば。味わってみるが良い」
彼が静かにそう告げた、次の瞬間。
「──っ……!?」
突然、頭の中に棋譜が流れ込んで来た。凄まじい速度で、脳が情報に侵食されていく。
それは、これから指すはずだった終盤戦の模様。俺は端攻めを更に続けようと果敢に挑み──結局は逆転することも無く、無様に敗北した。
え? 負けるのか、俺?
もはや、手遅れだというのか……?
「観たかね?」
彼の言葉に、ハッと我に返る。
頬を、冷たい汗が流れ落ちた。何だ、今のは? 一体、何をされた?
「今のが、普及指導員としての、そしてサロン棋縁席主としての能力。初級者に理解してもらうには、口で説明するより指し示してみせた方が早いからな」
実際に指すまでも無く、俺は既に負けているのだと。
彼は、淡々と告げて来る。
「棋譜は人生と同じ。過去(序盤)があり、現在(中盤)があり、それらを起点として到達する未来(終盤)がある。未来は既に存在している。君が認識できていなかっただけだ」
「今観たのが、そうだと?」
「理解したか? 納得できたか? 君がこれから為そうとすることの無意味さが、よくわかっただろう?」
確かに棋譜を見る限りでは、俺に勝ち目は万に一つも無い。穴熊さんの攻めは鋭く速く、手番が渡るや否や、あっという間に必至にされた。逆転する余地など一切与えない、回避不可能の詰みだ。
棋譜の意味を理解し、絶望する。どうしようもない。もう既に確定している敗北の未来があるのに、これ以上指し続ける意味はあるのだろうか?
破滅を前にして、終局まで指す覚悟が無い。どうせもう勝てないのなら、早く投了してしまった方がマシだ。その方が、心に傷口が広がらなくて済む。
簡単だ、負けましたと口にすれば良い。それで全て終わる。家に帰ろう、香織と一緒に。家に帰りさえすれば、今までと同じ平穏な暮らしが俺達を待っている。
ごめんな、香織。俺は穴熊さんには敵わなかった。残念だが、俺達の大会はここで終わりだ。
でも、相手は最強の穴熊使いとして名高い人物なんだ。負けたとしても、許してくれるよな?
頭を下げる。叫び過ぎて、カラカラに乾いた口を開く。
「負けま──」
ばぢっ!
投了を告げる、その瞬間。
左手に持った扇子が、放電した。
あっ、と叫び、思わず手を離す。白き軌跡を描いて、香織の化身は地面に落ちた。
その衝撃で、閉じていた扇子は開かれる。四つの文字が目に入り、俺は呻いた。
敗北を、認めてくれないというのか? これ以上頑張っても、どうしようも無いというのに。
戦えと。勝ち筋が無いと知ってなお、諦めるなと。
「君の妻は、よほど決勝戦に勝ち上がりたいようだな。決勝では、あの竜ヶ崎と将棋が指せる。将棋指しとして、胸が躍るのだろう。
故に、君に無理を強いる。我に勝てと、絶対に投了するなと、君を苦しめ続ける。愛という名の呪縛によってな。
本当の愛があれば、夫の無謀な挑戦を引き止めようとするはず。どうやら、買い被っていたようだ」
君達の愛は、まやかしだ。
そう言って、穴熊さんは扇子を踏み付けた。呆気なく、真ん中でへし折れる。
光が消える。辺りは暗闇に包まれていく。穴熊さんを中心に、絶望と哀しみが広がっていく。
俺は呆然と佇んでいた。何もできなかった。言い返すことも、泣き叫ぶこともできず。
ただ、身体が闇に同化していくのを、見つめることしかできなかった。
取り込まれる。
穴熊さんの中へと。意識が、沈む。
「──彼女と結婚した当初は、夫婦仲は円満だった。少なくとも、私はそう思っていた」
闇の中、独り漂う俺の頭に、穴熊さんの声が直接響く。
鼓膜というフィルターを通さないその声には、感情の色が付いていない。無機質で、淡々と、抑揚も無く。記号のようなメッセージを、脚色せずに伝えて来る。
「新婚生活は楽しかった。二人で様々な場所に旅行に行った。慣れない家事に苦闘する私を、彼女は笑って手伝ってくれた。思い出すのは、彼女の笑顔ばかり。不平不満があるようには見えなかった。
平穏な日々は楽しかった。が、心のどこかで刺激を求めている私が居た。
将棋と出会ったのは、そんな時だ」
対局席に座っているはずだが、感覚が無い。何も無い真っ暗闇の空間に浮遊していて、地に足が着いていないのだ。
それでいて、脳内には全く別の光景が広がっている。ミスター穴熊になる以前の彼と、見知らぬ女性が織り成す日常。
言い知れぬ不安感に襲われる。この先に何が待っているか、知りたくない。
「もう忘れてしまったが、将棋を指すきっかけは些細なことだったと思う。当時の職場の同僚に誘われたか、テレビでプロの対局を目にしたか。自然と、私は盤に向かうようになっていた。
確かに覚えているのは、初めて対局に勝った時のことだ。他では得られない刺激と快感が、私の全身を駆け抜けた」
一度知ってしまった勝利の美酒の味は、そう簡単に忘れられるものではない。彼は対局を続け、数知れない敗北の苦みを味わった。
勝ちたいという欲求が彼の心を支配し、将棋にのめり込むようになっていった。
……ああ、俺と同じだ。
早く強くなりたいと焦って、大切なものを見失っていた、昔の俺と。
「将棋に勝つためには、膨大な勉強時間が必要だ。ましてや私のように、成人してから指し始めた者なら、なおさらだ。遅れを取り戻そうと、必死に勉強に取り組んだ。
その分、妻との時間はどうしても減ってしまう。それをわかっていながら、私は将棋をやめることができなかった。いつしか、夫婦の会話も無くなった」
俺の場合は、幸いにも香織が将棋に興味を持ってくれた。おかげで、将棋を通して夫婦関係を修復できた。
だが、彼の場合は違ったのだろうか。修復できないまま、すれ違い続けたのか。
「それなりに腕を上げた私は、大会への出場を決意した。自分が一体どの程度の棋力か、腕試しをしたかったのだ」
当時は級位者ながら、道場で格上にも作戦勝ちすることが多くなっていた。序盤の研究を徹底した効果が出たと、彼は密かに自信を付けていた。
選んだ大会は、町が開いた小規模なもの。級段位が入り混じり、弱者は容赦無く食い尽くされる、過酷なリーグ戦だった。
そこで彼は、意外な人物と遭遇する。
「そこに居るはずが無かった。現実を受け入れられない私に、『彼女』は冷たい視線を向け、こう告げて来た」
──さあ。殺し合いましょう?
その言葉を聞いた瞬間、背筋に震えが走った。俺が言われた訳でもないのに、恐怖を感じる。
他人事とは思えなかった。俺にだって、もしかしたらありえたかもしれない。
夫に黙って、自分も将棋を始める。香織のように、ちょっとしたサプライズ程度なら良い。
だが。彼の妻の場合は、明確な悪意が感じられた。
「その後のことは、よく覚えていない。気が付けば私の玉は詰まされていた。何もできなかった。一方的な殺戮だった」
彼女の目的は、夫を将棋で殺すことだった。
そこに愛は無く、憎悪と殺意のみが在った。
自分を置き去りにして大会に出場した夫への復讐は、こうして完了した。
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