(7)キュン死寸前、五秒前
片美濃囲いを構築するしゅーくんに対し、袖の人は飛車を四段目に浮かし、縦横に使い易くする。
囲いでは勝っていても、これでは。
仕掛けの権利は、完全に向こうにある。
「不甲斐ないな、園瀬修司。そっちが仕掛けて来ないのなら、更にアドバンテージを広げさせて貰うぜ」
左側の香車を上げる袖の人。
まさか、これは。
「穴熊に組もうとしていますね」
安藤さんが呟く。
居飛車穴熊。
言わずと知れた、最強の囲いの一角である。
この状況で更に囲いまで強化されたら、もはや打つ手は無くなってしまう。
「──そう来ると思っていた」
なのに、しゅーくんは微笑んでいた。
満を持して、歩を突き出す。
7筋、5筋、9筋、8筋。
それまで微動だにしていなかった歩兵達が、しゅーくんの合図をきっかけに活動を開始する。
穴熊は最強の囲いだが、組むまでに手数がかかるという弱点がある。
しゅーくんの狙いは、その弱点を突くことだったようだ。
自陣を低く囲って、手堅く受け続け、焦れた相手が囲いに手を出す瞬間を待っていた。
「けっ。なんてつまんねー指方をしやがる。主導権を握られっぱなしじゃねーか。そんなんで楽しいって言うのかよ!」
「ああ、楽しいさ。お前にはわかるまい」
構築途中の穴熊は、駒同士の連結が弱く、意外な程に脆い。
加えて、玉の逃げ場も少ない。さながら棺桶のようだ。
しゅーくんの攻めが突き刺さる。
角道が開かれる。
角交換後の隙は、穴熊側が大きい。
袖の人は角道を閉じた、が、今度は角頭を攻められる。
角を逃げても、片美濃の桂馬が跳ねて来る。
端歩をもぎ取り、しゅーくんの歩が玉頭に進撃する。
「クソが! 狙い筋だってのかよ!」
先程までの余裕が嘘のように消え去り。袖の人は舌打ちした。
自らの金銀が壁駒となり、逃げ道を塞いでしまっている。
「静から動へ、なんて鮮やかな転換でしょうか。旦那さん、本当に級位者ですか?」
感嘆する安藤さん。
私も驚きを隠せない。
しゅーくんの将棋は、誰よりも詳しく知っているつもりだったんだけど。
これは、認識を改める必要がありそうだ。
「ヤバい。かっこいい」
似合わないとか言ってごめん。
しゅーくんは彼オリジナルの戦法として、立派に三間飛車を使いこなしていた。
形勢、逆転。
「園瀬修司。お前は最初から、こうなることを読んでいたのか?」
呻くように尋ねる袖の人。
流石に強い。飛車の横利きを利用し、ギリギリで凌ごうとしている。
「まさか。袖飛車に三間飛車で合わせてみたものの、そこからの構想なんて全然無かった」
「何? だってさっき、そう来ると思ってたって」
「あれは嘘。格好付けて言ってみただけさ。本当は端香を上げられるまで、想像してもいなかったんだ」
そう応えて、しゅーくんは舌を出した。
彼のお茶目な一面に、私の中の乙女心がキュンとする。
「は、ははは。そう、かよ」
「どうだ? 楽しいだろ?」
「ふん。勝てない将棋が楽しい訳ないだろ」
そう応えながらも、袖の人は笑っていた。
あ、何かいいなあ、こういうの。
拳を交えた男同士が共感するって奴? 少年漫画とかでよくあるよね。
「そうだな。負けたら悔しいよな。わかるよ」
飛車で止められるのにも構わず、しゅーくんは攻撃を続行する。
香車を交換し、同飛と回った所に歩を打ち込む。
放置すれば飛車を取られた上に、拠点を作られる。
飛車で歩を取れば、横利きが消える。
かといって飛車を逃がせば、空いた地点に駒を打ち込まれる。
「園瀬。俺は怖い、負けるのが怖いんだ。だからくれよ。お前の玉を」
袖の人の全身が震えた。
彼は飛車には手を付けず、端に角を打ち込んだ。
王手を掛けられ、しゅーくんの顔が歪む。
角の、タダ捨て──!
愕然とする。
確かに終盤は駒の損得より速度というけど。
こんなにもあっさり、大駒を捨てて来るとは。
逃げれば追撃が来る。
やむなく玉で取るしゅーくん。
「園瀬。お前の発想力は見事だった。だが、将棋で最も重要なのは、終盤力だ」
そこで飛車で歩を取り、更に王手をかける袖の人。
歩で受けるしゅーくん。
続いて桂馬で王手をかけられる。
しゅーくんは玉を逃がす。
飛車が飛び込んで来る。
この展開はまずい。
端攻めを逆手に取られてしまった。
受け続けてもジリ貧だ。しゅーくんは玉を逃がす。
飛車成り。
そして、桂成りが実現してしまう。
止められない。
この攻めは止まらない。
玉を安全圏に逃がそうとするも。
香車を打たれ、退路を絶たれる。
成桂一つで、金銀の守りが剥がされていく。
呆気なくひっくり返される形勢。
敗色濃厚な中、しゅーくんはそれでも指し続けた。
歯を食いしばって、懸命に活路を探す。
額から、汗が流れ落ちた。
しゅーくんの反撃。
穴熊の玉頭を、直接歩で叩く。
香車の守りが居ない今、同玉とするしかない。
そこに、更に歩を打ち込む。
同玉に、もう一度。
──今度は同玉ではなく、龍を退かれた。
恐らくは同玉を予想していたのだろう。
しゅーくんの手が止まる。
「旦那さん、頑張りましたね。見応えのある、実に素晴らしい一局でした」
安藤さんが締め括る。
つまりは、もう、どうしようもないということなのだろう。
万策、尽きた。
「……負けました」
しゅーくんが頭を下げる。
袖の人は、遠くを見つめていた。
「園瀬。俺は負けていたよ。終盤で何とか盛り返したが、終わっていた将棋だった。
こんなんじゃ、とても奴には敵わない」
奴?
「竜ヶ崎雫のことです」
心に浮かんだ疑問に、即座に答えてくれる安藤さん。
何か、すっかり仲良くなっちゃったなあ。
「去年の大会で、彼のチームは決勝戦まで勝ち残りました。そして決勝で竜ヶ崎と対戦し──チームは、跡形もなく崩壊したそうです」
「安藤さん。それ以上は言わないでくれ」
竜ヶ崎の将棋は、心を破壊する。
前に大森さんから聞いた言葉を思い出す。
そうか。袖の人は、雫さんと指したことがあったんだ。
それで自分を見失って、ルナ何とか言う名前で、奇行を繰り返すように……可哀想に。
「あ、彼が変わっているのは元からです。竜ヶ崎のせいじゃありませんよ」
私の心、読まれてる?
まあいいや。
そんなことより、私には大事なことがある。
「すまん、負けた」
しゅーくんが落ち込んでいる。
妻として、しっかりケアしなければ!
「矢倉を指せば良かったのかもな。袖飛車を見て、つい魔が差した」
「ううん、そんなことない。格好良かったよ、三間飛車。惚れ直しちゃった」
「……本当か?」
「うん! 元気出して。次頑張れば良いじゃない」
私の言葉にしゅーくんは、
「元気をチャージしたい」
と言って。
私の胸に、顔を埋めてきた。
「え、ええっ……!?」
悲鳴に近い声が出た。
「しばらくこうしていたい」
「む、ムリ! 恥ずかしいよ」
周囲の視線を感じる。
「おおー。旦那さん、意外と積極的なんですね」
「へっ。見せ付けてくれるじゃねーか。奥さん、俺にも元気を分けてくれよぉ」
口々に感想を言ってくる安藤さんと袖の人。
み、見ないで!
お願いだから黙ってて!
離れようともがくも、逞しい腕でがっちりホールドされてて、身動きが取れない。
胸元に、しゅーくんの吐息を感じる。
うひぃ! 変な声が出そうになる。
このままじゃ、私──おかしくなっちゃう。
「苦しいよ。お願い、離して」
「……ぐー」
「え? しゅーくん?」
何と言うことだろう。
疲れたのか、胸の中で彼は寝ていた。
まさか。
彼が起きるまでずっと、このままってこと……?
うう。人前でなければ、最高のシチュなんだけどなあ。
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