(4)あなただけ、みつめてる
また逢いましょう、将棋大会で。
神社を後にしても、雫さんの残した言葉が頭にこびりついていた。
あの人が狐なら、私は地に伏せた竜か? 何も言い返せなかった。情けない。
しゅーくんに相応しいのは、ああいう女性なのかもしれない。
一瞬でもそう思ってしまって、慌てて首を横に振った。
「雫さんのことなら、気にするな。冗談で言ってるんだよ」
彼はそう言ってくれるけど。
私にはあれが冗談だとは、到底思えなかった。
一方的に、宣戦布告をされた気分。
「……ねぇ、しゅーくん。私、勝ちたい」
強くなりたい。
初めて、心の底からそう思った。
負けたくない。
「ああ。俺もだ」
雫さんの棋力はどの程度だろうと、ふと考える。
あの自信溢れる口振りから、少なくとも初段以上はあるだろう。
平手どころか二枚落ちでもりんちゃん、しゅーくんに歯が立たない私にとっては、遥か高みに居る存在なのかもしれない。
それでも、私の手で勝ちたかった。
時間が無いとか言ってられない。
その足ですぐに道場に向かった。
式場見学の予約はキャンセルした。
しゅーくんは無言でついて来た。
大森さんは指導対局中のようだ。
なら。私はしゅーくんと向かい合う。
「やろ。平手で」
「……本気、なんだな? わかった、なら容赦はしない」
「うん!」
振り駒の結果、私が先手になった。
彼の全身から、湯気のようなものが立ち上る。
闘気を具現化できたとしたら、こんな風に見えるのかもしれない。
私はこれまで、本気の彼を相手にしたことは無かった。
鷹のように鋭い視線が盤を射抜く。剥き出しの殺意が、ナイフのように私に突き刺さる。勿論痛くは無い。ただ、心が傷付いた。
今この瞬間においては、夫も妻も関係ない。
あるのは対局相手という関係のみ。
対局で、殺される。
ごくりと唾を呑む。
震える手で、駒を掴んで初手を指した。
角道を開ける。
間髪入れず、彼も角道を開けてきた。交換されそうで怖い、が、せっかく開けた角道を閉じる気にはならなかった。
飛車先の歩を突く。
彼も突いて来た。
これは。
鏡写しに、彼は私と同じ手を指して来る。
角頭を守ろうと金を上げれば、彼もまた金を上げる。
急かされている気がした。
さあ、お次は何だ? と。
どこまでも私と同じ手を指し続けるというのか。
だけどそれには限界がある。私が飛車先の歩を突き越せば、同歩とせざるを得ないはずだ。
それはわかっている。
けど、それを突いてしまったら最後、取り返しのつかないことになってしまいそうで。
私には勇気が無かった。
臆病な私は、囲いを優先する。
やはり彼は同じ囲いにしてきた。
さて。囲ったら後はいよいよ、仕掛けるしか無い。
先手にはその権利がある。あるのだが。
歩を手にしたまま、私は硬直する。
駄目だ、この先どうなるか全く予想できない。
私には無いが、彼には選択肢が多い、気がする。その全てに対応できる自信が無い。
けど、いつまでもこうしている訳には。
「かおりん。思いきって踏み込んで来い。俺が全部、受け止めてやるから」
顔を上げると、そこには普段と変わらないしゅーくんの笑顔があった。
先程までの殺気は微塵も感じない。
本気は本気なのだろうが、そこには愛がある気がした。私の錯覚でなければ。
私が怯えているのを見て、可哀想に思ったのかもしれない。ごめんね、ヘタレで。
「でも。怖い」
正直な気持ちを口にする。
未知への恐怖。無知なる者の悲鳴。
私がもっと将棋を知れば、ここまで萎縮することは無いのかもしれないが。
「大丈夫。勇気を持て。俺を雫さんに取られたくないんだろ?」
それはそうだ。
勝ちたい。負けたくない。
しゅーくんへの愛だけは、誰にも負けない自信がある。
でも、だけど、何を指せば良いのかわからないんだ。
神経が焼ききれそうだ。
頭がガンガン痛い。考えれば考える程、頭の中が白く塗り潰されていく。
駄目だ、何も考えられない。
もう限界だ。
もう投了しよう。
そうだ、投げてしまえばこの苦しみから解放されるんだ。さっさと終わらせよう。
「負けま──」
「俺に勝てたら、キスしてやる」
……ぷつん。
限界を超えた。
その瞬間、神経の糸が切れた。
顔が熱くなるのを感じる。
頭の痛みが消えた。
迷いが消えた。
歩を打ち込む。同歩同飛、歩を打たれて横の歩を取る。
視界が滲む。
涙を拭ったその後には、綺麗に開けた視界があった。
盤全体が見通せる。その中にある、しゅーくんの心までも。
全てがクリアになる。不思議。今まで曇りガラスのようにしか見えなかったのに。
思考するまでもなく、見えていた。
私は彼の妻だから、彼の考えていることは全部わかるんだ。
彼の棋風には実直さと不器用さが存分に現れている。
そこが可愛い。たまらなくいとおしい。好き。大好き。
意識が変わる。
彼との将棋を楽しむ。
勝ち負けには拘らない。
だって私は、ずっとこうしたかったのだから。
こうなることを、願い続けて来たのだから。
将棋を指し始めてから、いや、指し始めるずっと前から。
私の攻めを全部受け止めてくれると彼は言った。嬉しかった。
今、彼は私だけを見てくれている。
だったら私も、彼とのこの一局だけを考える。他には何も要らない。
雫さんに勝つだの何だの、もはやどうでも良い。私は彼だけを見る。
彼の指し手は既にわかっている。
実直に受け止める。不器用に弾かれる。それが楽しい。
ごめんね、本当なら対等の棋力で戦いたかったね。
でも嬉しい。
いつまでもこうして、指し合って居られたら。
私はそれだけで、最高に幸せなんだ。
彼の盲点を突く。
彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐさま対応した。流石。
けど、これは見えてないでしょう?
防がれた後の手は既に用意していた。
しゅーくん。
あなたが将棋に夢中になっている間、私はあなたのことをずっと考えていたんだよ。
ううん。結婚する前、付き合う前、そのずっと前から、私はあなたを見ていた。あなただけを。
あなた以上にあなたのことを、私は理解している。
けど、あなたは。
私を、どこまで知っているのかしら?
棋力の差を埋めるのは、圧倒的な情報量(あい)の差だった。
彼は反撃を試みる。
うん、絶妙な一手だと思うよ。だけど、残念ながら対策済。
もっと私を見て。でないと、あなたは勝てないよ?
もっと私のことを考えて。
もっと、私を愛して。
深く、より深く。
愛の証を、棋譜(たましい)に刻み込んで欲しい。
「──っ──!」
不意に、視界が揺れた。
頭痛が私を襲う。さっきよりもなお強い、割れるような痛みが。
……そうか。
本来の私の棋力はせいぜい5級程度。それなのにまるで有段者のような指し方をしていたから、肉体が限界を迎えたんだ。
タイムリミットは近い。
名残惜しいけど、手早く終わらせよう。
頑張って、しゅーくん。
これに耐え切れたら、あなたの勝ちだよ。
盤上に爆弾を投下する。絨毯爆撃のイメージ。
彼の勝機、勝つ可能性を一つ一つ丁寧に潰していく。
ぱちん、どかん。ぱちん、どかん。ぱちん、どかん……。
「……負けました」
全ての手を爆破する前に、彼は投了した。
疲れ果てた、呆けた表情だった。
やがてその表情は、乾いた笑みへと変わる。
「やっぱ凄いな、かおりんは。敵わねぇや」
「ありがと、しゅーくん。おかげでわかった気がする」
棋は対話なり、とはよく言ったものだ。
私は将棋を通して彼にメッセージを送っていた。彼はそれに応えようとしてくれた。
これが将棋なんだと、実感できた。
「素晴らしい」
声が上がった。いつの間に見に来ていたのか、大森さんだった。
いや、大森さんだけじゃない。道場に指しに来ていた多くの人達が、私達の周りを囲っていた。
彼らの視線は、皆一様に盤上へと注がれている。
私としゅーくんの、愛の結晶へと。
心の奥底まで覗かれている気分になった。
何だか恥ずかしい。
拍手が起きた。
皆が祝福してくれている。新しい棋譜(いのち)の誕生を。
ああ、ありがとう。
私はお礼を言おうとしたが、言葉が出なかった。
眩暈がする。後ろに倒れる。
それを支えてくれたのは、しゅーくんだった。
疲労困憊だったが、満たされた気持ちだった。
「皆さん。実は俺達、結婚しているんです」
感極まったのか。しゅーくんは告白する。
本当のことを。私達の、真実を。
「なんと! 本当ですか?」
驚きの声を上げる大森さんに、しゅーくんは頷いてみせる。
それから、私を抱き起こした。
「彼女の名前は園瀬香織。この俺、園瀬修司の妻です」
そう言って彼は、私に向かって微笑んだ。
「香織。約束だったよな」
え、何? 約束ってまさか、ちょっと待って。
こんな、皆が見てる前で──。
抵抗できないまま。
唇を、塞がれる。
どよめく観衆。
それはそうだろう。
いい歳した男女が、公衆の面前で接吻なんてしているのだから。
私は耳まで真っ赤になったが、しゅーくんはやり切ったような清々しい表情をしていた。
くっそー、間近で見るとやっぱりいい男だなあ。皆が居なかったらもっとキスできるのになあ。
恥ずかしいったら、ありゃしない。
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