6-18

「タカ兄が変わったのも、そのせい?」

 聞き逃してしまいそうなほどに小さな声だったが、それ以上に世界は静かだった。

 悠里は俺を見たまま、ソファの上で膝を抱え込む。

 パジャマ代わりのジャージをはいた膝に頬を乗せ、僅かに目を細める。

「……さぁな」

 俺は目をそらさず、ただそう答えた。

 アンジェの立場は特殊すぎて、説明するのが難しい。

 第三者から見れば、俺とアンジェの関係は男女のそれに見えてしまいがちだろう。

 俺が第三者だったら、同じように考えたと思う。

 あとはその言葉を信じてくれるかどうかだ。

「変わってるけど、いい人だよね、基本」

「悪意とはまぁ、無縁なやつだと思う」

「あの子たちが懐くんだから、そうだよね」

「……あぁ」

 ここに来た子供は、他人に対する警戒心が染みついていると言ってもいい。

 施設に来たばかりの子が、今日見せたような表情になるまでには、時間がかかる。

 個人差はあっても、避けられない問題だ。

 施設の中では笑えても、学校や外では笑えないことも多い。

 だからアンジェの異質さが際立つ。

「あれで変なミスとかドジがなきゃいいんだけどな」

 欠点らしい欠点を上げるとすれば、そこだろう。

「……特別なんだね」

「何度も言ってるだろ。アンジェは違うって」

 静かすぎる悠里の瞳からは、感情が読み取れない。

 熱くもなく冷たくもない、静かな水面のようで。

「でも、他の人とは違う……じゃなきゃ、一緒にいられない」

「……仕方なくだよ、あれは」

「…………ふぅん」

 ため息のような声を漏らした悠里は、抱えた膝に顔を埋める。

 信じているのか、疑っているのかはわからない。

 ただ悠里の中には、確信のようななにかがあるように思えた。

 俺にとってアンジェは、他の誰とも違う立ち位置にいるのだと。

 それはある意味、正解だと思う。

 特別、という言葉にどんな意味を持たせるかによるが、アンジェは確かに『特別』ではある。

 けれどそれは、一般的に考えられる『特別』とは異なる。

 俺とアンジェの間でだけ成立する、唯一の『特別』。

「――タカ兄」

「――――っ」

 ほんの僅かな時間だ。

 意識が自分の中に向き、悠里から目を離した。

 一瞬とも言うべきその隙をつくように、悠里の囁くような声が耳朶を打つ。

 抱えていた膝を離し、悠里は俺のほうへ身を乗り出していた。

 一人分空いていたスペースは、たったそれだけで埋まり、悠里の気配と匂いを俺に纏わりつかせる。

「…………」

 無言で見つめてくる視線は、どこか切なげだ。

 秘めた感情が、蜃気楼のように揺れる。

 思わず身を引いてしまいたくなるが、動けない。

 俺が引いた距離を、悠里はそれ以上に詰めてくるような気がして。

 肩が触れるか触れないかの距離で凍りつく。

 悠里はただ見つめてくるだけで、なにも言わず、なにもしない。

 主導権がどちらにあるのかも曖昧だ。

「…………」

 ほんの僅かに、悠里の喉が動く。

 動き出すための、予備動作。

 少なくとも、俺にはそう思えた。

 そして次の瞬間、世界が動く。

「…………ユウねぇ」

「――――っ」

 寝ぼけたような声にハッとして、悠里は立ち上がる。

「…………ん」

 視線の先にいる声の主は、眠ったはずの女の子だ。

「どした?」

「…………んん」

 すぐに歩み寄った悠里は身を屈める。

 優しく肩に手を乗せ、その小さな声に耳を傾けた。

「そっか。うん」

 目をこする女の子が求めるものを理解したように立ち上がり、背中越しにこっちを見る。

「タカ兄も、早く寝たほうがいいよ」

「……そうする」

 短く答え、女の子と歩いて行く悠里を見送る。

 行き先はおそらくトイレだろう。

 二つの足音が聞こえなくなったところで、俺はようやく息を吐いた。

 あの子が来なかったらどうなっていたかは、考えたくない。

「…………本当に、な」

 先ほど漏らしてしまった言葉を思い出す。

 大人っぽくなったと、本当に思う。

 成長期だからという言葉だけでは片付けられない。

 身体的にはもちろんそうだが、なによりも雰囲気がそう思わせる。

 再会してから今までにも、何度かあった。

 ふとした瞬間、異性であると実感させられる。

 心臓が跳ね、頬が熱くなるような、そんな感覚だ。

「三年、か……」

 施設で一緒に暮らした数年間。

 一番長く俺とここで暮らした、妹のような女の子。

 よく知っていたはずなのに、知らない表情や一面がいくつも見えてくる。

 そのたびに記憶と現実がズレて、ギャップに戸惑う。

「しっかりしてるよな」

 年長者という立場を、俺以上にやっていると思う。

 だから先ほどのような姿は誰にも見せない。

 同じように、外で会ったときの我がままな姿も、スマホのメッセージで見せる扱いにくさも、施設の中では見せない。

 いや、見せられないのだろう。

 子供たちの中では、頼られる存在なのだから。

 咲江さんや他のスタッフとは、やはり違う。

 似た境遇の子供だからこそ、築ける信頼が確かにある。

 その年長者という立場がどんなものかは、俺も知っている。

「……子供じゃなくても、大人でもないんだよな、まだ」

 我がままを言ったり、甘えてみたり、弱音を吐いてみたり。

 そんなことができる相手は、ここにはいない。

 だから、なのかもしれない。

 それが許される相手はきっと、俺くらい。

 自惚れだと笑われるかもしれないが、それを嬉しく思う自分が、確かにいた。

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