第10話 ユラとノル
ミリエルは硬直していた。
今しがたリトと拳をぶつけ合った老爺に手を握られたままなすすべもなく突っ立ってしまっている。
このような場合、いつものミリエルなら即座に手なり足なり、さもなくば魔法なりで相手の男に報復するのだが、何故か今はそれができずにいる。
いや、今のミリエルの気持ちを正確に言い表すとすれば、あっけにとられたせいか動こうという気が起こらなかったと言える。
相好を崩して年若き娘の手を握り撫でている老爺の姿はどう見てもいやらしさに溢れているのだが、不思議とミリエルに嫌な気持ちは起こらなかった。
「いやぁ、ホントにきれいな娘さんじゃのぉーわしゃぁもう幸せじゃ…いててててっ!」
いつまでもミリエルの手を握り擦りながらニヤニヤしている老爺の耳を先程の女性が親指と人差指でつまんで引っ張った。
「そのくらいにしておきなさいな」
変わらず穏やかな笑みを浮かべながらも女性の目は鋭く刺すような光があった。
「わかったわかった、分かったから耳を引っ張らんでくれぇ」
大げさに泣き言を言う老爺を流し目で見ると女性は耳を引っ張っていた指を放した。
「あ、あの……」
ことの展開についていけないミリエルは柄にもなくしどろもどろになってしまった。
「ごめんなさいね、この人ったら可愛い娘さんを見ると見境が無くなってしまうの」
そう言いながら女性は困ったような笑みを浮かべた。
「色々と聞きたいこともあるでしょうから、まずは中に入って」
そう言って女性はミリエルとリトを小屋へ入るよう促した。
「はい」
ミリエルが答え扉へと向かった。リトが後に続こうとしたところへ老爺が寄ってきてガッとリトの肩に腕を回しながら言った。
「よろしくな、勇者の坊主」
中に入ると食堂のテーブルには既に料理が並べられていた。
「さあ、座って座って。まずは食べましょう」
女性に促されてミリエルとリトは並んで座り、その向かい側に女性と老爺が座った。
老爺はすでに大きいジョッキを手にしている。
「お酒は日が沈んでからという約束じゃなかったかしら?」
横目で老爺を診ながら、女性が冷ややかに言った。
「今日はめでたい日だからの。特別じゃ、特別」
そう言いながら早くもジョッキの中身をあおる老爺。
そんな姿をみながら、仕方ないといった表情で女性は軽くため息をついた。
そしてミリエルとリトに笑顔を見せて言った。
「この人のことは気にしないでね。さあ召し上がれ」
料理は素朴な田舎料理といったものだったが、若い二人の食欲を満たすのに十分以上の量があった。
リトは貪るように、ミリエルも控えめながらもしっかりと食べた。
食事が終わり香りの良いお茶をのんびりと飲みながら、女性が話し始めた。
「まずは私達のことを話しておこうかしらね」
そう言いながらミリエルとリトを交互に見た。
「もしかしたら気づいているかもしれないけど、あなた達が持っている予言書ね、私達はその予言書と深い関わりがあるの」
ミリエルとリトは軽く頷いて聞いている。
ミリエルはその時になって彼女たちの名を知らないことに気がついた。
「あの……お聞きしたいことがあるのですけれど……」
女性は眉を軽く動かしてミリエルを促した。
「私たち、あなたたちのことは何とお呼びすればいいのでしょうか?」
ミリエルが聞くとリトが横でぼそっと言った。
「じいさんと……おば」
リトはそこまで言って凍りついた。
一瞬で部屋の空気が一気に氷点下まで下がり、リトは口を開けた状態で固まっている。
「今なんて言おうとしたのかしら、お若い方?」
絶対零度の微笑を浮かべながら女性が言った。
リトは口を開けたままでブンブンと首を左右に振った。
(ばかリト!)
恥しそうにうつむいてミリエルがつぶやいた。
「わははは、これでひとつ賢くなったのう勇者の坊主。まあ、わしはじいさんでもかまわんがの」
老爺が愉快そうに言った。
「とりあえず私はユラ、この人はノルと名乗っておきます」
ユラが付け加えた。
「ユラ様とノル様ですね」
心に刻むようにミリエルが言った。
「なんだかこそばゆいのう」
脇腹を掻きながら言うノル。
「……じゃあ……ノル様、オレはじいちゃんって呼ばせてもらってもいいかな……」
さすがに多少遠慮がちな様子でリトが聞いた。
「ああ、構わんよ。そのほうが気楽だしの」
横目でリトを見ながらノルが言うとリトはややはにかむような笑顔を見せた。
「予言書を読んであなた達も既に知っているでしょうけど『裂け目』の災厄はまだ終わっていません」
ユラが話し始めた。
「時期を特定することは難しいけれど、遠くない将来にまた『裂け目』が開かれて、この世界が
ミリエルとリトは心配そうに顔を見合わせた。
「そして恐らく、次の攻撃は先の攻撃以上のものとなるでしょう」
「あの……質問をよろしいでしょうか?」
ミリエルがやや遠慮がちに聞いた。
「ええ、どうぞ」
穏やかに答えるユラ。
「『裂け目』から出てくる大魔の目的は何なのでしょうか?『裂け目』の向こう側は魔物が
「そうね……まずは『裂け目』ができてしまった経緯から話しましょう」
ユラは考えをまとめるように心持ち顔を上げた。
「世界というのは1つではないの。いま私たちがいるこの世界の他にも数え切れないくらいの世界があって、そこには歩いても、馬に乗っても、船に乗って海を超えても、はたまた鳥になって空を飛んでいってもたどり着けないの」
ミリエルとリトは真剣に聞いている。
「夜空の月や星は遥か彼方、気が遠くなるような長い距離の先にあるのだけれど、月も星もこの世界の一部なの」
「わしらは宇宙と呼んでいるけどな」
ノルが言った。
「「うちゅう……?」」
初めて聞く言葉にミリエルとリトが同時に聞き返した。
「今私たちがいるのも宇宙の中の星の一つなの」
ユラが言うと、
「星?ここが?でも……それにしては、なんというか……キラキラしてないというか……」
困惑顔で言うリトに微笑みかけながらルナが言った。
「確かにそうね。星にはそれ自体が光っているものと光っていないものがあるの。光っているのはいわゆる太陽ね」
ミリエルもリトもユラの言うことの半分も理解できていないという顔をしている。
「まあ、そのへんのことは追々話していけばいいじゃろう」
「そうね、今のところは私たちがいるこの世界の他にも別の世界があると理解してちょうだい」
「で、その別の世界からこの世界が攻撃を受けているというわけじゃ」
「恐らくはこの世界を向こうの世界の生き物で満たすことを目的としてね」
ユラは続けた。
「それで、あなた達には今以上に力をつけて危機に備えてもらうために、この谷で修行をしてもらうわ」
「もちろん、
「ええ、ミリエルは私が」
「リトの坊主は儂がな」
「は……はい、お願いします」
ミリエルがそう言いながら頭を下げると、リトも慌てて頭を下げた。
「こちらこそ。世界の命運を背負わせてしまうことになってごめんなさいね」
ユラは慈愛に溢れつつも悲しげな表情で言った。
「うむ……儂らには直接手を出せない理由があっての……」
ノルも申し訳無さそうに言った。
「今日は、ゆっくり休んで修行は明日からにしましょう」
柔らかく微笑みながらユラが言った。
「「はい」」
ミリエルとリトが同時に答えた。
「それからね」
付け加えるようにユラが言った。
「こうやってあなた達がこの小屋にたどり着いて、するべきお話もできたから、今夜あたり新しい予言が現れるかもしれないわ」
「「!!」」
ミリエルとリトはそれぞれが予言書に手を当てた。
ミリエルがユラとノルを見ると、二人とも何かを期待するような、心なしか面白がっているような、そんな笑みを浮かべていた。
「それじゃ、お部屋に案内するわね」
ユラがそう言いながら立ち上がり、ミリエルとリトもついて行った。
そしてその夜……。
「「えええええーーーー!?」」
ミリエルとリト、それぞれの寝室から上がった驚愕の叫びが小屋を満たした。
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