俺に恋愛なんてあり得ない

詩野聡一郎

第一巻

日常

 春先の暖かい日差しを浴びながらも、吹き抜ける風にはまだ冷たさが感じられる。

 こんな、何でもない日常が俺は好きだ。

 多くの人が劇的な冒険――非日常を望んでいるけれど、俺は日常の方が好きだ。

 何も起こらない朝。いつもと変わらない通学路。

 周囲から聞こえる、自分には関係のない無味乾燥な言葉の数々。

 そんな「いつも通り」は、人によっては退屈かもしれない。

 でもいつも通りということは、予測可能で安心できるから。

 予測不可能な不幸は起こってないって、実感できるから。俺は日常が好きだ。


「あ、桜井じゃん。おはよう」


 俺の通う北雪学園の構内に入ったところで、一人の男子生徒が話しかけてきた。

 滝川勇気。名前の通り、勇ましくてスポーツのできる彼はクラスの人気者だ。

 去年も同じクラスだったことから、こうして話すぐらいには仲が良い。


「おはよう、滝川」

「桜井、金曜の数学の宿題ってちゃんとやってきた?」

「やったよ。まさかまた忘れたのか?」

「いやー、うっかりしててさ」


 そう言って、滝川は爽やかに笑う。

 滝川は野球部の活動に専念しており、早弁して授業中には寝てばかりいるような奴だ。

 それだけあってさすがに勉強の成績は良くない。

 ただ、滝川には人当たりの良さがあるので、あまり困ってはいない。

 将来はプロ野球選手にでもなるか、そうでなくとも人生上手くいくだろう。

 そういう星の下に生まれた奴だ。


「見せないぞ」

「えー、ケチだなぁ」

「俺より村上とかに見せてもらった方がいいだろ。俺のは間違ってるかもしれないし」

「いうて桜井だって成績良いっしょ」

「ほどほどに、な。上見たらキリないし」

「勉強できる奴は言うことが違うねー」

「はいはい」


 階段を上りながら、いつも通りの他愛ない会話を滝川と交わす。

 二年生になってからというもの、教室はより天空に飛び上がり、俺たちの踏む階段の段数も二倍に増えた。

 それに伴い、こうした雑談の時間も増えたというわけだ。

 まあ、大体は二段三段飛ばして上っていくから、時間も二倍になることはないが。


「村上ーおはよー」


 いつも通り三階に辿り着き、教室に向かって歩いていると、滝川が声をかけた男子生徒――村上が振り向く。

 眼鏡をかけ、身長は高く、勉強はたぶん学年一位。

 それどころか全国模試にも名前が載っているほどで、ゆくゆくは良い大学に行くだろうと、誰もが思ってる。

 俺はそんな村上とも、去年同じクラスだった。

 こうした縁が華となってくれるおかげで、俺の日常は退屈なものとならずに済んでいる。


「お、滝川。昨日夜のドラマ見た?」

「あー見た見た。いま瀬戸とその話してんの?」

「そうそう。あそこで脇役の男がさ――」

「あ、桜井おはよー」


 声をかけてきたのは瀬戸愛美。同じクラスの女子生徒だ。

 髪の毛は茶色のショートカットで、勉強はそこそこ。

 男子とも気さくに話すタイプで、彼女に恋愛的な意味での好意を持ってる奴を何人も知ってる。

 部活は……どうだったかな。

 二年生になってからの知り合いなので、まだそこまで詳しくは知らない。


「おはよう」

「ところで村上さ、三限の数学の宿題見せてくんね?」

「えぇ? また忘れたのか?」

「いいじゃん、頼むよー」

「はいはい。それじゃあ、瀬戸」

「あ、うん。また後でねー」


 図らずとも瀬戸と一緒にクラスに向かう感じになったようだ。


「桜井ってさぁ」

「ん?」

「女子に対してやたら距離取るよね。なんで?」

「なんでって言われてもな……」

「本当は普通に話せるのに自分から女子に声かけないじゃん」

「それは俺が自分から声かけるのが苦手なだけで、男子に対してもそうだぞ」

「えー、ホントかな」


 本当にいつも通りの、本当に他愛のない話。

 誰が好きだとか誰が嫌いだとか、自分はどういう奴だとか、他人がどういう奴だとか。

 本音がどうだとか建前がどうだとか。喧嘩しただの友達になっただの。

 そんな話を傍で聞くのが、俺は好きだ。


「あっ――」


 俺のクラスの前にいた一人の女子生徒と目があった。

 口が閉まり切ってないのは、きっと幽霊でも見てびっくりしたから。

 肩甲骨の辺りまで伸びた栗色の髪を、今日はまとめてポニーテールにしているようだ。

 制服の隙間から伸びる肌は白く細く、胸は程よく豊かで、外見だけでも思わず見惚れてしまいそうな魅力を持っている。

 表情は明るく、愛想と愛嬌が綺麗なバランスで同居しており、誰もが印象に残るだけの存在感を持っている。

 でも、時々どこか陰のある感じが色っぽくて男子にとっては堪らないらしい。

 この学園で彼女の名前を知らない人は、まずいないだろう。

 彼女の名前は――七瀬紗花。


「あ、七瀬さんじゃん。おはよう」


 瀬戸の声を聞いて現実に戻った俺は目を伏せ、視界から七瀬紗花をかき消す。


「あっ……うん、おはよう」

「七瀬さん、B組でしょ? なんでAの前に?」

「あー、うん。ちょっとね」


 二人の会話を聞き流しながら教室に入ろうとすると、誰かの手が俺の肩を掴んだ。


「ちょっと待ってよ桜井」

「え?」


 俺の肩を掴んだまま、瀬戸は七瀬に目線を向ける。

 その目線を追うと、当然のことながら、再び七瀬紗花と目が合った。


「さっき目合ってたじゃん。知り合いじゃないの? 話さなくていいの?」


 七瀬は下唇を噛みながら、不安そうな目でこちらを見ている。


「いや――」


 瀬戸に好意を持っている人間は数人知っているが、七瀬に好意を持っている人間は数十人は知っている。

 告白されたのも一回や二回ではないそうだが、全員断っているらしい。

 去年だけで玉砕された数は百を超えるという噂も流れているとか。

 それでいてお高く止まっているわけでもなく、本人は普通の良い子で人当たりも良いことから、女子に嫌われてもいない。

 滝川と同じように、誰にでも好かれるタイプだ。

 使い古された表現だが、いわゆる学園のアイドルだ。実際にそう言ってる人間は、男女を問わず多い。

 そんな何ランクも上の存在と俺が知り合いだなんて、そんなことあるわけがない。


「知り合いなわけないだろ」

「でも同じ東原中学出身でしょ?」

「同じ中学でも、知り合いでも友達でもないことだって普通にあるだろ」

「七瀬さんは? 桜井のこと知らないの?」

「わ、私は……」


 七瀬の目が不自然に動いて、俺と瀬戸の間を何度も往復している。これはまずいかな。


「七瀬さんも急に変なこと言われて困ってるだろ」

「うーん、ワケありげな感じがしたんだけどなぁ」

「ドラマの見すぎだ。根も葉もない噂が立ったらどうするんだよ」

「えー」


 チラリと目線を向けると、七瀬は呆然としたような表情でこちらを見ていた。

 誤解されるからやめて欲しい。


「んーまあいっか。七瀬さん、ごめんね」

「あ、うん……」


 二人のやり取りを眺めていると、ちょうど担任教師の吉田が歩いてくる姿が目に入った。


「おーい、お前ら教室戻れー」


 吉田の声が近づいてくる。これが、この教室における朝のHRの合図だ。


「おい、瀬戸」

「それじゃあ七瀬さん、またね」

「あ、うん」


 俺と瀬戸は教室に入って、すぐに席についた。

 俺たちの席は教室の廊下側の列の、しかも最後尾。

 授業中に内職するのとHRの直前までだらだらできるのは、俺たちだけの特権だ。

 その代わり、冬は寒いけども。


「あー、朝一で英語はだるいなー」

「そうだな」


 チラリと廊下を見ると、七瀬が隣のB組に向かうのが見えた。

 俺の方に視線を向けながら。


「はぁ……」

「どしたの? ため息」

「いや、何でもない」


 本当に、誤解されるからやめて欲しい。

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