第45回 崩壊

 実績が無いから、企画を通すことは厳しい。

 仮に通せたとしても、発行部数は極端に少なくなる。


 私は悩んだ。頭を下げて、少部数でもいいから、『金沢友禅ラプソディ』を出してもらうか?


 いや、そんなのはダメだ。

 最初から少部数では勝負にならない。出版社だってどれだけ後押ししてくれるかわからない。こんな酷い扱いを受けて、この先、良い待遇を受けられるとは思えなかった。


 私は、本心を押し殺して、返信のメールを書いた。


「ご状況について、承知しました。ご連絡いただきまして、大変ありがたく思います。実績については、以前、電撃文庫の担当編集より、釘を刺されていましたので、覚悟はしておりました。生活環境が変わり、なかなか思うように活動できないことも拍車をかけているので、その中でも今ここからどうやって頑張っていくか、色々と試行しているところです。いただきましたアドバイスを胸に、積極的に、頑張っていきたいと思います。私のために、お時間を割いていただき、まことに感謝しております。また、相応の実績を積みましたら、その時はあらためてご一緒にお仕事できればと思います」


 メールを送信した後、しばらく放心状態になっていた。


 約二年……X社を紹介してもらってから、それだけの時間が経ち……いきなり話は白紙へと戻ってしまった。


 これから、どうなってしまうのか……。


 家のローンがあって、お嫁様も養っていかなければならなくて、将来の蓄えのこともあって、何としてでも商業小説の世界へと戻らなければならなかったのに、このザマである。


 完全敗北――頭の中にそんな言葉が浮かんでいた。


 自分の努力不足だったのだろうか。だけど、仕事があって、拳法のことがあって、家庭のこともあって、色々なことに時間を使っている中で、やれるだけのことはやってきた。頑張ってきた。

 それでも、また、商業の世界から拒絶されてしまった。


 自分の足元が音を立てて崩壊するような恐怖を感じた。

 未来が消えていくような予感がした。


 どうしよう。どうしよう。

 そのことばかり頭の中で渦巻いている。


 何とか立て直して、小説を書くしかない。

 でも、もう、書ける気がしない。


 書かないといけない……でも書けない……。


 とうとう、自分の中から文章が出てこなくなってしまった……。


 ※ ※ ※


 そして、ある日。


 会社で仕事をしている中で、ネチネチと私に対してパワハラを繰り返していたY課長が、またもや嫌みったらしいメールを送ってきた。それは、私が作った報告書に対してのもので、「書いてあることに納得いきませんが好きにしてください」という内容だった。

 私は出来るだけ怒りを抑えて、Y課長へメールを返した。


『Y課長は、具体的にどこが納得いかないのでしょうか。後学のために教えてください』


 そうしたら、Y課長からはこのように返事が来た。


『回答は控えさせていただきます』


 なんだよ、それ――!


 怒りで頭の中が真っ白になった。

 やはり、この人は、自分をいじめるだけいじめて、溜飲を下げているだけなんだ。同じ部署で一緒に仕事をしている、という感覚は無い。単に、自分のことが気に食わないから、なぶっているだけなんだ。


 動悸が激しくなる。

 呼吸も荒くなる。

 パソコンの画面を凝視したまま、動きが止まった。


 気が付けば、三十分も、硬直したまま動けなくなっていた。


(仕事をしないと……)


 疲弊しきった頭を無理やり動かし、マウスを持った手に力を入れようとする。

 しかし、指先はピクリとも動かない。


(駄目だ……せめて会社の仕事は、ちゃんとしないと……)


 なんとか頭を回転させようとするが、脳みそは、キュルキュルと空回りしているような状態になっている。


 何も考えられない。


 何もしたくない。


 涙が出そうになる。


(やばい)


 さすがに自分の状態がおかしい、と気が付いた私は、震える指を動かして、スマホで近くのメンタルクリニックを探した。


 ちょうど、会社から徒歩一分ほどの場所に、メンタルクリニックがあった。


 すぐに「気分が悪いので」と会社を早退して、クリニックへと向かった。


 診断結果は、適応障害だった。


 鬱とはまた違う形の、心の病気。

 度重なるストレスに耐えきれなくなった私の心は、とうとう病を抱えることとなってしまったのだ。


 薬局で、処方された薬を買い、トボトボと帰途につく。


 帰りの電車の中で、Twitterを何となく見ていると、見知った作家達の華々しい仕事ぶりがタイムラインに上がっている。続刊の話や、重版の話……みんな、輝いて見える。


 一方で自分は負けてしまった。

 こうして心を病み、惨めに肩を落として、家へと戻っている。


 なんて私は情けなくて卑小な存在なのだろうか、とますます気分が落ち込んだ。


 ※ ※ ※


 数日後、私は、家にある小説をほとんど全て売り払った。


 ごく一部の親しい人の本、十冊くらいは残して、後の本は全部古本業者へと送ってしまった。


 名作もあれば、今では手に入りにくい貴重な文庫本もあった。青春時代に苦楽をともにした本、社会人になってから気晴らしに読んだ本……そんな思い入れの深い本もあった。


 でも、私は、もう二度と小説と向き合いたくなかった。


 この世に存在するありとあらゆる小説が憎く見えた。


 自分がこんなにも愛してやまず、夢と希望と未来を見出していた小説の世界は、自分の居場所ではないと知った。その瞬間に、小説というものが嫌悪の対象となった。


 親しい人を除いて、Twitterの小説家のアカウントはほとんどミュートにした。

 小説に繋がるようなキーワードもミュートにした。


 こうして、私の中から何もかもが無くなった。

 空っぽになった。


 ※ ※ ※


 適応障害になったことを部長に伝えた。


 会社には少しずつ出勤し、体を慣らしていった。時には出勤途中で気分が悪くなって引き返すこともあったが、それでも稼がなければいけないという思いから、出社できる時はなるべく出社するようにしていた。


 そうこうしている内に、年末年始休暇に入った。


 お嫁様とのんびり過ごしている内に、ある程度心は浄化されていった。


 年が明けてから、Y課長の異動が公示された。

 理由はわからないが、本人も望んでのことのようだった。元々、Y課長は部長とそりが合わなかった。そのストレスを八つ当たり気味に、私にぶつけていたのかもしれない。

 とにかく、一番の元凶であるY課長が部署を離れてくれたお陰で、私の心はだいぶ落ち着きを取り戻した。


 ほどなくして、私は社会復帰できた。

 Y課長のいない環境は、本当に過ごしやすく、仕事もしやすかった。


 だけど――それでも、小説に対する負の感情は、残ったままだった。


 私は、自分の人生から、小説という存在を抹消しつつあった。

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