二十九話 翠の国へ
翌朝、宿屋で目を覚ました僕たちは朝食をとった後、アルフェと共に蒼の国の東へ向かっていた。この街は早朝でも人が多い。商人の街とも呼ばれるこの街ならではの活気に包まれている。人の発する喧騒に混じって、カモメの鳴き声が頭上を通過する。朝日に照らされる白い街は、薄っすらと黄色に染まっていた。
次の目的地である翠の国は、東へ真っ直ぐ向かえば辿り着く。だがその間には海があり、船が無ければ渡ることはできない。
「数日前に、蒼の国に駐屯している軍に頼んでおいたから、東の港に停泊しているはずだよ」
アルフェの用意周到な立ち回りには助けられているが、こうも人任せにしたままでいてもいいものだろうか。かと言って、この旅は僕に主導権があるわけでもない。何にせよ、今はおそらくアルフェの予定通りで問題無く進行しているのだから、余計な考えはしないでおこう。
「船か……」
リアンが憂鬱そうに呟いた。珍しくげんなりとした表情を露わにしている。
「船に乗るくらいなら、泳いで行く」何言ってるんだ。
「あれ?リアンって船苦手だっけ?」
僕は過去の記憶を探ってみたが、特に思い当たらない。そもそも、船に乗る機会自体が非常に少ないので判断材料に乏しい。
「知らなかったな、リアンにも苦手なものがあるなんて」
「苦手じゃない。嫌いなの」
「砂河舟は普通に乗ってたじゃないか」
「あれは砂。こっちは海」海と船という組み合わせが苦手ということか。
「あー……あれ?」ノンが思い出したように声を漏らす。「でも昔、訓練で海の魔物討伐に行ったことあったよな。船に乗って、討伐するまで帰れないやつ」
「ああ……そういえば、そんなのもあったな。リアンとは別の船に乗った気がする」
「あの時は全速力で討伐して帰ったから」
なるほど。全速力で魔物を討伐するリアンか。ちょっと見てみたかった。
「嫌いな理由は何なんだ?」
僕の質問に、リアンは黙り込む。少しだけ眉根を寄せて、不快そうな顔をしている。過去の苦い思い出でも振り返っているのだろうか。
「言いたくない」すっぱりと切られた。
「……そうか」
下手に詮索しない方が良さそうだ。もし無理やり聞き出そうものなら、海の中へ投げ飛ばされるに違いない。
「あれ、アルゲニブは?あの人も一緒に行くんだよな?」
ノンがあたりを見回しながら言った。今日はまだ姿を見ていない。宿屋には来ないだろうと思っていたが、ここで合流するわけでもないのか。
「アルゲニブはもう船の場所にいるよ」
アルフェが答えた。今朝の間に移動は完了していたようだ。あの目立つ風貌でこの街の中を歩いて行ったのだろうか?ドラゴンの姿で飛んで行くよりは目立たないとは思うが、なんだか想像しづらい。
「ここから降りるよ」
アルフェが階段を降りていくのに続く。
階段の下には、岩場をくり抜いたような大きな港があった。蒼の国の正面に位置する海にはあの聖域があるので、船を置く港は東西に分かれている。東側の海は岩礁に囲まれているため、西側の港に比べて漁業船や大型の船は少ない。反面、釣りには適しているため人の出入りや浅瀬を渡るための小型のボートは多い。こんなところに軍の船が停泊していたら、えらく目立ちそうなものだが、それらしき船は見当たらない。
「船はこっちに置いていないんだ。ここだと狭くて場所を取れなかったから」
僕の心を読んだように、アルフェが否定する。こっちとはどういうことだろう。
「ここから北側の岩場に行くと、今は使われていない港があるんだよ」
「ここのボートでそこまで移動して、乗り継ぐってこと?」リアンが問う。
「そうだよ。もしかして、知ってた?」
「誰でも分かる、そこまで言われたら」
「あはは、そっか」
二人の言う通り、僕たちはボートを借りて岩の間を縫うように北へ回ることとなった。船尾で櫂を漕いでいるのはアルフェだ。子どもの見た目でも力はその通りではない。
海上の船を嫌がっていたリアンは不服そうにしていたものの、強い抵抗をすることはなく乗ってくれた。乗った後のリアンはというと、帽子の下で目を伏せて「行くなら早く……」とうめいていた。なんとも弱々しい。こんな姿を見る日が来るとは。
他のボートや岩の上で釣り糸を垂らす人々の姿が次第に少なくなっていき、やがて途絶えた。ボートは洞窟へと進む。海蝕洞というやつだ。外から入る太陽の光が海の青を反射して、仄かに天井が色付いて見える。洞はそう長くなく、すぐに抜けることができた。そして、その先で船は待ち構えていた。
この港は岩が崩れたせいで、蒼の国から続く道を塞いでしまったようだった。そうなってしばらく時間が経っているようで、桟橋はところどころ板が外れたままになっているし、木板は海藻や苔で緑色になっている。
風の入らない洞穴のような空間の中で、船は静かに佇んでいた。黒い船体には二本のマストがあり、帆は縦向きでヨットのような見た目だ。
「この船で翠の国へ向かうよ」
「へー、意外と小さいな」ノンがそう零す。
「大きすぎても、変に目立っちゃうからね。今回は僕たちを乗せるだけだし、こっちの海は岩がたくさん突き出ているから」
「旋回しやすい方が事故になりにくいってことだな」
「そういうこと」
ボートを横につけ、僕たちは黒い船へと乗り移る。
「来たか」
先に来ていたのであろうアルゲニブが突如姿を現した。どうやら接岸していた岩場に隠れていたらしい。
「出航の準備、しておいてくれた?」とアルフェが確認する。
「問題ないが、お前が操縦するのか」
「そうだよ。この船は舵一つでおおよその操作が効くように術式制御してるから、難しいことでもないけど……ボクしか経験無さそうだから」
たしかに、僕たちには心得は無い。普段は軍の転移ゲートを使ってばかりいるので、軍用車両以外の乗り物に馴染みが無いのだ。
アルフェが船の状態を確認している最中に、口を閉ざしていたリアンが怪訝そうに訊いた。
「……こんな面倒をしてまで、転移魔術を使いたくないの?」
「うん。言ったでしょ?それは緊急時の手段だって。みんなに転移魔術を覚えてもらう手も考えたけど、現実的じゃないし。転移ゲートの復旧をのんびり待っているわけにもいかない。時間と手段のすり合わせだよ」
「アルフェだけだったら?」
「ん?」
「アルフェだけが自分で転移魔術を使うことはどうなの?あたしたちに巡礼祭のことを告げに来たとき、同系統の空間魔術を使ってた」
「ああ、そうだったね。うん、ボクだけなら必要に応じて使うよ」
「えー、ずるい」
リアンはそう言って、何か考え込むように俯いた。海面を視界に入れたくないだけかもしれない。
アルフェの言い分は理解できる。自己にかける場合と他者にかける場合では、魔術の種類によっては桁違いに複雑さや魔力の消費量が違ってくる。アルフェにとってそれらのリスクが大きなものであるかは不明だが、持てる余裕は持っておきたいのだろう。逆に言えば、真に危機的な状況に陥った時にはアルフェも動くということだ。それがどのレベルの危機であるかは……考えたくもない。
「出航できそうだね」
係留しているロープを解くようアルフェに言われて、係留柱に一番近い場所にいた僕が引き受ける。が、あることに気付いて手を止めた。
「アルフェ、このボートはどうするんだ?」
ここまで来るために乗ってきたボートを指して訊く。返さないといけないんじゃないのか?
「ああ、それは買い取ったから」しれっとした様子でアルフェは言った。
「え?」
「ごめん、言ってなかったね」
借りたと思っていたのだが、買っていたらしい。そういえば、ボートを管理しているらしい人に何かが入った袋のようなものを渡していたような気がする。中身は金だったのか。
「使い捨てってことか?なんつー大胆さ」と隣にいたノンがつぶやく。同意。
僕がロープを引き上げて、船は桟橋を離れていく。青空の下をゆっくりと進み始め、風と共に次第に速度を上げていく。
向かう先は翠の国。そこでようやく本当の旅が始まる。
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