第26話 衝撃のアマチュアデビュー戦
「何か色々苦しい言い訳していたわね……ジムの測りが壊れていたとか、トレーナーの指導が悪かったとか、反省の弁も謝罪も一切なし。それだけじゃなくて体が絞れているから武君の方が有利なんじゃないかとか言い出すし。こっちが試合を受けただけでも感謝してもらいたい位なのに、本当に頭にくるわよねぇ」
相手サイドと運営に試合の了承を伝えに行った妃美さんまで腹を立てていた。
「多分、試合後にステロイドとか発覚して故郷で食べた牛肉のせいとか言い出すんじゃないの?」
メキシコでは牛を育てる際に筋肉増強剤を使うらしく、ドーピングが発覚すると、その牛肉を食べたせいだと苦しい言い訳をするボクサーが複数存在するが、牛肉に残留した筋肉増強剤で人体に影響を与えるには牛一頭分は食べないと駄目だという事は既に周知の事実である。
「まぁ、階級が上でステロイドでもやって打たれ強くなっていたなら、それはそれで良いサンドバッグにしてやるんで構いませんよ」
俺はグローブハンデで使用する事になった12オンスのグローブの握り具合を確かめながら言った。
どうせ負けたらグローブのせいにするだろうから、俺としては16オンスのままでも良かっただけどな。
◇
アマチュアの試合なので後楽園ホールの様な会場ではなくActive-Network本部のジムで行われている。
アマの試合は一度の試合数がやたらと多く、今回は50試合程行われる。
これでも少ない方で、Active-Networkが全日本選手権と称する大会では毎年130試合位ぐらい行われるらしい。
「小碓選手。入場してください」
係の人に促され、俺はリングに向かった。
ビギナーズリーグから順に行われるので、それ程待つ事無く俺の試合の番が回って来た。
「緊張してるか?」
セコンドを買って出てくれた麗衣に尋ねられ、俺は首を振った。
「いや、初めて暴走族に話をつけに行った時の方が緊張したけどね」
「はははっ。あの時、あたしはブチ切れてお前の腹ぶん殴っちまったな」
「ああ。あの時の麗衣のパンチより痛いボディは受けた記憶が無いな」
「ったく、あん時吐いてた
麗衣はポンポンと俺の肩を叩いた。
「お前は強い。普通にやれば絶対に勝てるぜ。敵さんは色々と神経を逆なでしてくるかも知れないけど、冷静さだけは忘れるなよ」
麗衣の声に背を押され、リングに上がると時を同じくして、赤コーナーから褐色の肌で深い彫りのある顔で口ひげを蓄えたメキシコ人もリングに上がっていた。
俺は対戦相手を観察する。
一言で感想を言えばまず大きい。
身長160センチの俺と身長177センチらしいネロでは適正体重がフライ級とウェルター級ぐらい違うから、ジムではこのサイズとスパーリングの経験はない。
過去に一番大きかったのは身長174センチの足振がライト級の体格だが、フェザー級の選手だった。
まぁ足振程度の実力では身長もあまり関係なく参考にならないか。
腹は減量が失敗したという割にはだらしない感じが無く、よく締まっているように見える。
端っからフェザー級なんか無理がある体格だから、ライト級ならよく絞れているとも解釈ができる。
ボディを狙えば倒せるという単純なものでもなさそうだ。
相手を観察中に俺の紹介が行われた。
「青コーナー。Active-Network八皇子ジム。小碓武」
プロの試合の様に派手な紹介は行われず。淡々と紹介が行われる。
「赤コーナー。WBCスレイマンジム。ルイス・ネロ」
ネロがどういう訳か麗衣の方に向かって手を振り、投げキッスの仕草を取った。
「ぶーっ!」
「こら! 何してるの!」
セコンドの麗衣が親指を下に向けてブーイングを行うと妃美さんに叱られた。
セコンドがスポーツマンシップに欠けるような応援をしたら注意・減点の対象になるのだが、それを知っていてネロがわざとやった可能性がある。
「麗衣落ち着いてくれよ」
つい数十秒前には『冷静さだけは忘れるなよ』とか言っていたのも麗衣は忘れ去り、まるで選手とセコンドが逆になっていた。
「これが落ち着いてられっか! 良いか武! あの野郎をKOしなかったらあたしがテメーをぶちのめすぞ!」
セコンドの選手に対する暴言は何のペナルティーも無いのか?
まぁ、俺も麗衣の言うとおりにするつもりだったから何の問題も無いか。
「勿論そのつもりだよ」
俺は短く言うとネロの方に視線を向けた。
俺とネロ、それぞれのコーナーからお互い向き合う―
「ラウンド1……ファイト!」
ついに試合のゴングが鳴らされた。
ネロは身を低く、クラウチングスタイルに構え16オンスのグローブで顎を守る様にしてどっしり構えていた。
足振とのスパーリングの時もそうだったが、この構えだとほぼ正面からのパンチは通らない。
俺が12オンスでネロが16オンスのグローブによるハンデで攻撃面では俺が有利に見えるが、大きなグローブを付けている分、ネロの方が防御面では有利なのだ。
だが、以前から防御を固められた場合、16オンスグローブの利点を打ち崩す手段を考えており、その練習はしてきた。
俺はガチガチにガードを固めるネロとは正反対に左手のガードを鳩尾付近に敢えて下げながらネロに接近し、半歩踏み込めばパンチが届く距離から腰を回転させ、腕が伸ばし、手首のスナップを効かせ体重を乗せた左のパンチを放った。
「NO!」
ネロの短い唸り声が聞こえた様な気がするが構いやしない。
左のジャブ、いやストレートが固められたガードを突き破り、顎を跳ね上げたのだ。
「そうか! 縦拳かあっ!」
セコンドの麗衣が感嘆したような声を上げていた。
俺は先日、姫野先輩が通う日本拳法の道場で稽古の体験をさせて貰い、特に側拳と呼ばれる縦拳の前面前突きを集中して練習してきた。
16オンスのグローブでガードを固められたら普通にパンチを打っても中々ガードを崩すのは難しい。
今回の様に体重差がある場合は猶更だ。
だが、縦拳であれば隙間からガードをこじ開けるのも可能である。
俺が12オンスのグローブを使えているのもガードを開けるのに役に立った。
そして、俺は左手を引く直前に右ストレートを放ち、直後に後ろの右足を前に出す。
このようにして打つ事によりパンチの距離が延び、右足の推進力も加わる為、パンチの威力も普通にワンツーを打つよりも強く打てるのだ。
かつて魔裟斗選手が放っていたワンツーのワンを縦拳に変えて、相手の防御を破りやすいようにアレンジしたパンチである。
ネロのヘッドギア越しに拳に強い感触が伝わる。
手応えは充分。
だが、この感触では却って相手は倒れない事を俺は知っていた。
そしてこのパンチは打った後に体勢を崩しやすいという欠点があり、体勢が前のめりになった。
でも、この欠点はパワーに変換させる利点もある。
俺は前のめりになった体勢を戻す反動を利用し、右膝をバネにして左アッパーを突き上げた。
ヘッドギアで守られていない顎部分を打ち抜くと、ネロは天井を見上げていた。
手応えがそれほど無く、拳が突き抜けるあの感触だ。
俺はネロに背を向けリングサイドに向かった。
振り返るとネロは反対側のリングサイドまで吹き飛ばされ、ロープの反動で押しかえされると完全に脱力した身体がバタリと倒れた。
会場が一瞬で静まり返る。
レフェリーは両手を振って試合終了を宣言すると束の間の沈黙を破り、大歓声が沸き起こった。
1ラウンド7秒KO。
俺のデビュー戦はアマチュアKOタイムの最短記録を大きく更新した。
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