第18話 荒神寮の盆踊り

 まだ時間が早いので、うちでお茶を飲みながら少し涼んで、頃合いになってから出発した。

「そういえばお前、頼まれてた雑誌の原稿は完成したの?」

 取材と称して炎天下、ガイコツ池や鹽田に拉致された手前確かめてみると、鹿島は「そんなの楽勝よ」と答えた。自堕落な生活態度をしているくせに、タスクを早々と終わらせるところだけは見上げたものだ。

「俺も取材手伝ったんだから、多少は分け前をくれよ」

「やらねえよ。てか、謝礼なんてねえよ」

 だらだらと歩いているうちに、いつのまにか荒神寮に着いてしまった。

「相変わらずここは、九龍城みたいだね」

 荒神寮の正門の前に立ち、建物を見上げて太夫が、かつて香港に存在し、「東洋の魔窟」と恐れられた違法高層建築の集合体の名を挙げた。

 竜胆も、言わないほうがまだましなことを付け加える。

「わたし、小学生の頃、ここって廃墟かと思ってました」

 鹿島が、居室棟の脇の小さなグラウンドに私たちを連れて行く。日頃、近所の小中学生が勝手に入り込んで、バスケットボールやキャッチボールをして遊んでいるグラウンドは、すっかり祭りの会場に作り変えられていた。

 四方には、ぎっしりとテントの出店が並んでいる。近辺のカフェや居酒屋が多いようで、上等なソーセージやサングリアなど、普通の縁日の屋台のラインナップとは一味違うようである。

 グラウンドの中央に、盆踊りの唄の演奏者が上る櫓が組まれている。紅白の提灯や笹でにぎにぎしく飾り立てられた櫓は、子供か、子供心あふれる大人が作った秘密基地みたいに見えた。

 会場にはすでに、楽しいムードを作り出す陽気な音楽がかかっている。寮生らしい若者たちのほか、家族連れが出店を冷やかしていた。子供向けの企画もあるようで、どこからか巨大な虹色のしゃぼん玉が流れてきては、目の前でぱちんと弾けてしまう。

 私は、周囲を見回した。

「お前のブロックの人、あんま見かけないね。西野君とか池田さんとかは、帰省してるの?」

「あいつらは陰キャだから、談話室に引きこもってんだよ」

 陰キャとはきっと、陰気キャラとか、そういう言葉の略だろう。対義語は陽キャである。

 私たちは、ワインを売っているテントの前まで、鹿島に引っ張っていかれた。一杯五百円でワインを売るそのテントの前には、白い椅子と机のセットが何組か置かれており、ちょっとしたオープンテラスのようになっている。大学院生や、寮を出た社会人らしい男女がそこに座り、静かに盛り上がっている。

 早速知り合いを見つけたらしく、鹿島がテーブルの島の一つに向かって笑顔で手を挙げる。そこで私はようやく、鹿島の目論見を悟った。

 洗練された知的な会話好きな鹿島は、ワインバーの輪に加わりたかった。しかし、鹿島は一人で夏祭りに参加できるほど、タフなハートの持ち主ではない。基本的に人見知りで、見栄っ張りなのだ。夏祭りには、「陰キャである」談話室メンバーは姿を現さない。そこで、私に白羽の矢を立てたのだろう。

「よくも、俺たちをダシに使ってくれたな」

 私は、横目でやつを軽くにらみつけてやった。鹿島は、貼り付けたような笑みを崩さぬまま、わざとらしく顔を横にそらした。

 鹿島に、私と太夫のワイン、竜胆のフルーツジュースをきっちり奢らせて、三人でテーブルに座を占める。鹿島は、さっさと知り合いのテーブルへと歩み去った。

 それにしても、荒神寮の敷地は広い。百数十名が居住可能な居室棟が三棟と広々とした駐車場、そして祭りの会場になっているグラウンド。加えて、物好きな寮生が、荒神寮だけの閉鎖経済を夢見て開墾している畑。もう一つか二つ、同じ規模の居室棟を増築することだってできそうだ。いまより三百人程度学生の増えた寮の自治が、実現可能であるとするならばだが。

 鹿島から、ちゃっかり二杯目のワインをせしめた太夫が、楽しげな祭りの様子を眺めながら、私の思考を読んだように言う。

「荒神寮のあるここは昔、おっきな寺があったところらしいよ。だから、こんなに広い敷地が取れるの」

 中世には、かなりの経済力を持つ守護大名が、いやおいを治めていた。その守護大名は、数々の寺院を擁する鎌倉に憧れて、寺院を厚く保護した。そのため、この辺りにはいまでも、八角三重塔などの重要文化財を持つ古刹が点在している。

 あきれるほどあっという間に赤ワインを飲み干した太夫が、「あ、猫!」と小さく叫び声を上げる。制止する暇もなく、アルコールで頬を赤くした太夫は、グラウンドのフェンスの向こうにいる黒猫へと走り寄って行ってしまった。

「……」

 無言のまま顔を見合わせた竜胆と私は、吹き出した。

 折よく、司会役の寮生が、盆踊りがそろそろ始まる旨をマイクで叫ぶ。櫓の上で、太鼓とボーカルが、盆踊りの唄を流しはじめた。実行委員らしい学生たちが、真っ先に櫓の周りに連を作り、ほかの祭り客を誘導する。寮生たちや家族連れは、周りの動きを伺って照れたように笑いながら、踊りの輪に加わろうとぞろぞろと動き始める。

 私は、気恥ずかしさからためらったが、竜胆の差し出す手と笑顔につられて、まんまと踊りの輪の中に引き入れられてしまった。

 時間はすでに夜である。櫓の上の投光器や、周囲の出店の灯りがまばゆい。

 参加者があまりにも多いため、踊りの列は三重になっている。人々は、少々恥ずかしそうにしながら、見よう見まねで手足を動かしている。小さい子供たちも、親に手を引かれながら、綿あめで口をべたべたにしたままで踊る。何より竜胆が楽しそうだったので、私は満足した。

 いつのまにか、私と竜胆の左右には、鹿島と太夫が合流していた。太夫は、手に持った缶ビールを、なんとかこぼさないようにテンポに合わせて腕を上げたり下げたりしている。鹿島の黒縁眼鏡は、少しずれていた。

 櫓の上の女性のボーカルは、最初こそ伝統的な盆踊りの唄を歌っていたものの、いつしかしれっと、最近学生の自治活動に対して弾圧を加えてくるようになった大学当局を批判する歌詞を、盆踊りのリズムに合わせて歌っている。

 そのことに気づいて、すぐ後ろで踊る太夫に、笑いながら伝えようとしたけれど、彼女には、私がただ口をぱくぱくさせているようにしか見えなかったに違いない。隣の人の大声さえ聞き取れないほど、周りは喧騒に満ちていた。

 盆踊りの曲が次第にスローテンポに変わっていき、ついに終わりかと思われた瞬間、盆踊りは急に、ファイヤーストームでおなじみの、マイム・マイムのメロディに転じた。

 中学校時代に強制的に叩き込まれたフォークダンスを、参加者の体がそれぞれ思い出して、何とか踊りとしての体裁を保つ。私は太夫と、竜胆は鹿島と手を繋いで、狂乱的なマイム・マイムの輪に何とか追いついた。

 酒にさほど強くない私も、最初に飲んだワインで、すっかり酔っ払っていた。いや、何よりも、この場の空気に酔っていたのだろう。フォークダンスの輪は、回転のスピードを次第に増していき、ついには天に昇っていきそうに思えた。

 私は、本当に一瞬、天に昇っていたのかもしれない。

 私の意識は盆踊りが行われているグラウンドを離れて、鳥のように中空を飛んでいた。寮の居室棟の間の中庭、その浅い池のほとりに、否応なく視点がフォーカスする。渡り廊下からの光がほのかに照らす水際には、鹿島が立っていた。

整った顔に、見たことのないような酷薄な笑みを浮かべて、鹿島が見やる闇から、誰かが姿を見せる。それは、こちらも滅多に見ないほど厳しい顔つきをした太夫だった。

 我に返ると、私はまた、どんちゃん騒ぎの只中に舞い戻っていた。

 竜胆の右手は、さっきまでの鹿島ではなく、見知らぬ少女とつながっている。はっと振り返ると、後ろにいたはずの太夫が姿を消している。どうせ酒が切れて、どこかの屋台に買いに行ったのだろうと思ったが、何となく胸騒ぎがして、私は踊りの輪をそっと抜け出した。にぎやかなマイムのリズムに乗って、竜胆が何も気づかぬまま遠ざかる。

 グラウンドを出ると、居室棟の裏手は思いのほか暗かった。夏草がぼうぼうに生えているうえに、空き缶やタイヤが捨てられている。ゴミに足を取られないように、気をつけてそろそろと歩いた。

 さっきの幻覚が、まぶしい光源を直視した直後のように、現実の風景に重なって見えている。私は、池のある中庭を目指した。

 中庭に足を踏み入れた瞬間、緑の残像のように揺れていた幻が、現実の景色の上にぴたりとはまって溶け合った。

 渡り廊下からの光がほのかに照らす水際には、鹿島が立っていた。整った顔に、見たことのないような酷薄な笑みを浮かべてやつが対面しているのは、こちらも滅多に見ないほど厳しい顔つきをした太夫だった。


第十九話 濃藍の水に浮かぶ金魚 につづく

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