第13話 荒神寮の寮生たち

 スクラップ工場かと思うほど、雑然と大量の自転車が停められている駐輪場の先に、寮の玄関がある。ガラスの二枚扉には、バイトの募集や近くの銭湯の広告など、中が覗き込めないほどチラシが重ねて貼り付けられている。玄関を入ってすぐの右側には、寮生の名札が掛けられた事務室。その向かいのロビーでは、数人の男女がたこ焼きを作って食べている。

 食堂の扉を鹿島が開けると、にぎやかなざわめきにぶつかった。

 広い食堂では、寮生が晩ご飯を食べたり、勉強したり、パソコンでプログラミングをしたり、ギターを練習したりしている。長机の一つを占領して、哲学研究会がマルクスの著作を輪読している。食堂の一角の大きなスクリーンでアニメを鑑賞している集団もいれば、卓球やポーカーに熱中している者もいる。

 食堂は、朝昼晩の食事を提供するとともに、寮生たちが自由に時を過ごす多目的スペースである。春には古本市が開かれ、新年には、各々の欲望を恥ずかしげもなく書きなぐった書き初めの半紙が、運動会の万国旗のように天井を縦横に横切る。

 鹿島が目を細めて、ホワイトボードに書かれた今日の献立を読み上げた。

「チーズハンバーグ、ボイルキャベツ、もやしのナムル、おから、すまし汁。やった、ハンバーグじゃん」

 荒神寮の寮食は、寮外の学生も食券を買って食べることができる。安価で量が多く、おまけに栄養満点を謳った寮食は、昼が二六○円、夜が三九○円。確かに、大学生協で同じ質と量を求めたら、二百円は余計にかかることだろう。

 食事を載せたトレーを持って、鹿島と私は席を探した。私は、食堂のテレビで夕方のニュースを見ながら食事を摂っている、髪の短い眼鏡の男子学生を発見した。

「あ、西野君がいるよ」

鹿島が瞬時に嫌な顔を作る。

「えー? あいつと食うの? 品性が落ちるわ」

「何言ってんだ」

 同期と飯を食う前にもまずは渋ってみせる。鹿島稔とは面倒な男である。

 柱の陰に隠れて見えていなかったが、西野君は、背の低い半袖短パンの男と向かい合って夕食を取っていた。私は一瞬ためらったが、鹿島がずんずん近づいていくので、それに従う。院生らしき背の低い男のほうは、確か鹿島たちのブロックの談話室で見たことがあるような気がした。

 鹿島が、名前を知らない院生の隣に、私が西野君の隣に席を取ると、西野君はやっと夕方のニュースから目を離して、この男特有の、きょとんとしたような、無表情なような目で私を見た。

「あ、ひさしぶり。去年の寮祭以来だっけ?」

 西野君は工学部で、私たちと同じ四回生である。

 ちょっとした小学校ほどの規模の荒神寮では、会議や仕事の割り振りを各棟のフロアごとに行う。この単位をブロックという。高校までのクラスのようなものだが、学部の一回生から修士博士の学生までを、それぞれのブロックが均等に含むように調整されている。この制度は、新一回生の面倒をブロックごとに見るという、よくできたシステムである。西野君と鹿島は、同じブロックの同期らしい。鹿島とつるんでいる私は、キャンパスの学生から遠巻きにされがちの荒神寮に、しばしば遊びに来るので、自然と知り合いになった。

 鹿島が、西野君の皿を覗き込んで、鼻で笑う。

「あっ、こいつシチリアレモンだ。しょべえ」

「ええ? いいじゃん、シチリアレモン。おいしいよ。池田さんだってシチリアレモンっすもんねえ」

 西野君が、前に座った背の低い院生に加勢を求める。池田さんは、「俺は何でもいいんだけどね。別にうまいと思ってかけてるわけじゃねえし」と笑って、ハンバーグに箸を突き刺す。

 鹿島は、勝ち誇ったように決めつけた。

「お前といい池田といい、ボイルキャベツにシチリアレモンかけるやつは、味覚壊れてんだよ。ごまだれ一択っしょ」

「確かに、ごまだれは王道だけどさあ。その王道に胡座をかいてるんじゃないの」

 一体何の話かといえば、茹でたキャベツにかけるドレッシングの話である。

 無難にシーザードレッシングを選んでいた私は、無難な話題を振ることにした。

「西野君は、夏休みは何してるの?」

「サークルの練習と合宿」

 西野君は、こう見えて観世流の能サークルの会長である。私はまだ、西野君が能を演じている姿を見たことがない。寮の談話室でゲームにふけり、寝転んで漫画を読んでいる普段の姿を見慣れている身としては、能舞台に立って謡曲を詠う西野君というのは想像しがたいものである。

 その通りのことを口にすると、「八月の末に発表があるんだけど、見にくる?」と誘われた。

「城跡公園で毎年やる薪能なんだけど」

「それって、結構すごいことなんじゃないの?」

 私が驚いて問い返すと、西野君は手を振った。

「いや、薪能自体には東京から観世流のすごい人が来るんだけど、俺たち学生はその前座だよ。翌日のプロの公演とはチケットが分かれてるんだけど、どうする?」

 鹿島が、例のごとくひとまず気難しい顔をしてみせる。

「やめとけやめとけ。能ってつまんねえしな。中学の音楽の授業で見て、爆睡した記憶あるわ」

「お前が誘われたわけじゃないじゃん。いいじゃん、せっかく西野君が夏じゅう練習して発表するんでしょ。行ってやれよ」

 池田さんが、お茶をすすりながら口を挟む。西野君が、池田さんに話を向けた。

「じゃあ、池田さん来ます?」

「いや、俺は行かねえ。寝ちまいそうだし」

「結局寝るんじゃねえか。いまさっきの発言を秒で覆したよ」

 鹿島が吹き出す。私は、西野君に話しかけた。

「夏休み暇だし、行くよ。帰る前にチケットくれよ」

 食堂の横の廊下から、誰かの弾くピアノが聞こえる。食堂の中央のテレビが消され、長机に十数人の人が集まり、寮内の委員会の会議を始めた。

 私たちは、夕飯を食べながらしばらく雑談をした。鹿島、西野君、池田さんの間の雑談は、ほとんど寮内に関することで、私一人おいてけぼりにされることもしばしばである。時折、食堂のスピーカーから「残食のこり十食です。食べに来てください」などと放送がかかる。

 ハンバーグ定食を食べ終えると、誰からともなく「ごちそうさまでした」と手を合わせて、食堂を出た。

 食堂を出たすぐのところで、大学生というには少し歳のいった学生服の男性に、「現政権を打倒しよう!」という言葉と野性味のある笑顔とともに、薄っぺらい新聞を渡される。一面には、「同志松本君を救出しよう」と、黒地白抜きゴチック体ででかでかと印字されている。

 これは、荒神寮をアジトにする学生運動組織とも縁の深い、反体制組織の機関紙である。革命家のあしらいに慣れた鹿島や西田君、池田さんは受け取らなかったが、私は学生服の男性から機関紙をもらった。私は、この機関紙独特の語彙に満ちた、威勢のいい文章が好きなのである。この機関紙の執筆者は、きっと文章を書くときに辞書を引かない類の人間に違いない。革命的文脈とでも言うのだろうか、言葉を独特な組み合わせで用いる。

 食堂の横の廊下は、本来かなり幅があるはずなのだが、半分以上が製作中の立て看板やペンキで占領されており、人がすれ違うのもやっとのありさまである。廊下に住んでいる奇矯な人までおり、重ねた畳と大量の本を衝立にして、一組の布団が敷かれていた。

 居室のある棟の階段を上る。居室の扉に面した廊下には、埃をかぶった冷蔵庫や炊飯器、望遠鏡などが転がっている。居室の扉もペンキの色や磨りガラスのバリエーションが豊かである。中国人留学生が多いため、「福」と墨書した赤い菱形の紙をドアに貼る中国風の居室もある。

 階段の踊り場の壁には、寮の運営に関係したり関係しなかったりするポスターが大量に貼られている。剥がれ落ちかけて変色した貼り紙の中には、全共闘時代、決起集会に参加せよ、と力強く謳った年代ものまで見受けられる。ただ、壁面いっぱいを使って描かれた見事な毛筆の落書きの上には、敬意を表してか、ポスターは一枚も貼られていない。

 階段を三階まで上った私たちは、そのまま談話室になだれ込んだ。談話室は、先ほど説明した各ブロックに一つずつある。

 鹿島は扉を開けてすぐのソファに座り込んでスマホを触り、西野君は床の絨毯に直接仰向けになって、テーブルの下に積まれていた漫画を開き、池田さんはテレビゲームのコントローラーを手にする。磁石に砂鉄が吸いつくように、談話室に足を踏み入れると、即座に所定の位置に収まった三者から一拍遅れて、私はテレビ画面に展開されている格闘ゲームを、池田さんの後ろから覗き込んだ。

 談話室の壁面は、漫画を詰め込んだ棚で埋め尽くされている。三台あるテレビのうち、一台では外国映画を、二台はゲームの画面を映している。談話室の中央に置かれた大きなテーブルの上には、栓の空いた一升瓶やポン酢やら、作りかけのジグソーパズルやらが雑然と置いてある。黄緑色の絨毯は、何かの液体をこぼした染みで変色しており、慣れない人は素足でその上を踏むことにまずためらう。ソファとクッションの隙間を縫うようにして、パソコンやスマホの充電コードがのたくっている。そして寮生が、大きなぬいぐるみを枕にして、だらだらと思い思いの姿勢で転がっていた。

 これだけの人数が狭い部屋に密集していても、談話室には冷房が効いているので涼しい。このブロックでクーラーが機能しているのは、談話室と、あとは限られた居室だけなのだという。

「鹿島さん、麻雀やりましょうよー!」

 一回生と思しきいがぐり頭の男子が、勢いよく叫ぶ。誘われた鹿島は、スマホから一瞬顔をあげたきり、「やらねえ」とすげなく断る。西野君は「俺やろうかなあ」と、芋虫のように伏せていた体勢からもぞもぞと麻雀卓に這い寄り、一人で外国映画を見ていた寮生も振り返る。

「おっ、尾原さんもやりますか? あと一人! 鹿島さんの友達も一緒にやりましょうよー、麻雀」

 いがぐり頭の一回生に、やけにフレンドリーに誘われたので、私は苦笑しながら、麻雀卓の一角に席を占めた。

「鹿島さんの友達さんも、西野さんの能、観に行くんすか?」

「須賀だよ。うん、観に行くつもり」

 私は、右手に座ったいがぐり頭の一回生に、苦笑しながら答えた。卓袱台に広げた緑の麻雀マットの上で、麻雀牌をじゃらじゃらと音を立ててかき回す。

「あ、おれ、武田っすよ。いいっすねえ。なんか日本の伝統っぽくて」

「誰が親やる?」

 西野君が、自分の手元に麻雀牌を丁寧に並べた。

「日本の伝統ねえ……。俺には侘び寂びとか、ちっとも面白えと思えねえんだけど」

 武田君から尾原と呼ばれていた寮生が、眠そうに目をしばしばさせる。硬そうな黒髪の彼はなぜか、「人類の九○パーセントが死滅した最後の核戦争から二十年……」という書き出しであらすじの始まる、ディストピア映画の登場人物が装着しているような防塵マスクで口と鼻を覆っている。

「まじっすか、尾原さん。日本人失格っすよ。いいじゃないっすか、能。見ると日本人でよかったあって思いますよ」

「別に俺は、能をやってても日本人でよかったあ、とはならないけどね。親、誰やる?」

 西野君が苦笑した。

「日本人でよかったあ、か。ジャンプ漫画を原語で読めるところは気に入ってっけど」

「尾原さん、少年ジャンプ派っすか! 俺も、ヤングジャンプ読むとき同じこと思います!」

「お前ら日本人やめちまえよ」

 ゲームから目を離した池田さんが野次を入れた。

 談話室の開けっ放しの扉からは、洗濯籠や入浴セットを持って廊下を通る寮生が見える。共同の炊事場から、野菜をトントンと刻むリズミカルな音が聞こえる。地下の音楽室でバンドの練習をしているらしい。ベースの重低音がかすかに鼓膜を震わせる。

 草ぼうぼうの中庭の池から、ばちゃんと魚の飛び跳ねる音が、やけに大きく響いた。

 麻雀の途中、トイレに立ったとき、廊下の窓から見える光景に惹きつけられた。

 駐車場になっている中庭を挟んで、渡り廊下でつながれた向かいの四回建ての棟が見える。部屋の窓とドアを背景に、明るく照らされた向かいの廊下を、絶えず寮生たちが通り過ぎていく。

 私はふと、蟻の巣を思い浮かべた。子供の頃に毎月届いた科学雑誌の付録に、蟻の巣観察キットがあったのだ。ちょうど単行本ほどの大きさと形の、透明なプラスチック板でできた飼育ケースで、土を詰めて蟻を拾って入れれば、蟻の巣が作られ、張りめぐらした細い道を働き蟻たちが行きかう様子を観察することができると説明書きがあった。いま考えると、蟻のコミュニティだって女王蟻が必要だろうし、そんなにうまく蟻の巣を作ってくれたのだろうかと疑問である。幼い私は結局、その蟻の巣セットをどうしたのだろう。

 夜の荒神寮は、さしずめ光り輝く通路と巣穴を抱いた蟻の巣である。築五十数年の建物は、寮生たちの活動する光に満ちた部屋を数十も抱えて、闇の中でとてもきれいに見えた。

 私は十一時ごろまで麻雀に付き合い、竜胆が一人で留守番をしていることを思い出して、日付が変わる前には帰らねば、と荒神寮を辞した。


 浅科川を北から南へと渡る荒神橋を越えて、私は大学の裏の道を歩いた。住宅街を通る道には、街灯がぽつぽつと灯っている。どこかの家から、テレビの音が切れぎれに聞こえる。

 見上げれば、電線の上に白い三日月が浮かんでいた。昔の中国では、望月に向かって満ちていく月を既生覇といい、望月から欠けていく月を既死覇といった。あの三日月が既死覇に転じるころには、竜胆の短い帰省も終わりに近づいているのだろうと、ふと考える。

 視線を地上に下ろした私は、そこで不思議なものを見た。

 数十メートル先の、街灯の人工的なしらじらとした光の中に、何かがひらひらと舞っているのである。鼓動が一瞬にして速まる。じっと目を凝らすと、それは、帯みたいな白い布のようで、風に巻き上げられているというにはいささか不自然に、中空を泳いでいる。

 私は、思い切って街灯の近くまで走った。しかし、たどり着いたときには街灯の光の輪の中には、息を乱した私がいるだけで、ひらひらと泳ぐ帯は姿を消していた。

 どこかの民家からは、テレビの声が相変わらず聞こえている。しかし、Tシャツの袖口から剥き出しになっている私の腕には、はっきりと鳥肌が立っていた。

 須賀神社の周囲では、年に二、三度不思議なことが起こるのだという。須賀山の周りは、断層のせいか地形がひずんでいる。そしてその断層は、空間自体もゆがませているのではないかと私は空想している。ずれた空間と空間は、思わぬところで途切れたりつながったりしており、ある場所では存在するはずのないものが見え、ある場所では見えるはずのものが消えてしまう。

 生まれたときからここに住んでいるのだから、その手の話は耳にタコができるほど聞かされているはずだった。しかし、先ほど目にしたゆらゆらと泳ぐ白い帯は、何かこの世のものならぬ禍々しい存在である気がしてならなかった。


 夜中に、ふと声が聞こえたような気がして目を開けた。

 畳の上に布団を敷いた私の寝床の頭側には、天井まで届く本棚が据えられている。床に近い段には、兄の蔵書である大蔵経が詰まっているが、上の段に行くにつれて、私が集めた小説の文庫本が多くなる。竜胆が読んでいた絵本や椿姉ちゃんが好きだった大長編ヒロイックファンタジーのシリーズを入れた段には、埃が積もっている。もし寝ている間に地震があれば、倒れてきた本棚に押し潰されることは明らかなのだが、今のところ何の対策も取っていない。

 荒神寮から帰宅し、ただいま、と小さく声をかけて家の戸を開けたときには、家の中はすでに静かだった。玄関にある靴を確認して、竜胆はすでに寝ているのだな、とひとまず安心した。

 闇の中で耳をじっと澄ますと、やはり上の方で誰かの話し声が聞こえる気がする。私は玄関脇の座敷で、竜胆は二階の和室で寝ている。こんな夜中に、また高校の友達とでも電話しているのだろうか。

 私は少し胸騒ぎがして、トイレにでも行く、という素振りで、ふすまをわざとガタガタと音を立てて開けた。すると、二階のくぐもった話し声はぴたりとやんだ。

 用を足して戻るときに、二階の窓が開いて、風が吹き込むような音が聞こえたようだったが、それもすぐに静かになった。

 寝床に入ろうとかがむと、外が急に、かすかな足音のような気配で満ちた。

 障子を開けると、むわっとするような湿気が押し寄せる。ささやかな細い雨が、静かに降り始めていたのだった。


第十四話 怪人 につづく

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