第11話 取り返せないもの

 ただならぬ雰囲気で踊りの列に乱入してきた幸四郎君に、城北小の子供たちや保護者が不審な目を向けていた。子供のお父さんらしき人に声をかけられる前に、私は幸四郎君の腕を引いて、列を脱した。

 ぞろぞろと駅の方へ帰り始める人の列に逆らって、うなだれた幸四郎君の腕を引く私と太夫は、商店街の横道に入った。街灯の頼りない白っぽい光に、お好み焼き屋の古びた看板や昔からの小さな映画館が照らされている。

 幸四郎君は、道の真ん中で私の腕を乱暴に振り払った。

「どうして、約束を果たしてくれなかったんだ」

 問いかける声は、その言葉を鋭いナイフで自分の柔らかい肌に刻みつけるかのようだった。もう二度と取り返せぬ後悔に傷つけられたままの幸四郎君の様子は、見ていられないものがあった。

 太夫が、幸四郎君の肩をさする。

「暁天は、君が世界樹のうろに行ったまま帰ってこられなくなるのを心配して、約束を破ったんだよ。躑躅姫に八つ裂きにされる危険まで冒して」

「余計なお世話だ! おれは、母さんと握手したいだけなんだ。あのときの握手をやり直したいだけなんだ……」

 狼の子供のような目つきでこちらをにらみあげる幸四郎君に、太夫と私は、かけるべき言葉の尻尾をつかみ損ねて、黙ってしまった。

 幸四郎君の気持ちが、私にはわかる。一昨年、お祖父さんを亡くしている太夫にも、きっとわかるだろう。幸四郎君の中では、母親の死が、いまだに過去の断層としてあり続けているのだ。

 お祖父さんが亡くなってから一年くらい経って、太夫が何かの拍子に口にしたことがあった。

「大学に入学してからしばらく経って、じいちゃんが突然、私に腕時計をくれたことがあったんだ。たまたま通販の雑誌でも見てて、目に留まったんだろうね。別に何かのお祝いってわけでもないし、私の好みを聞いてくれたわけでもない。一万円くらいの、名前も聞いたことないブランドのやつだった。私って、腕に何かを巻いてると、汗疹ができてかゆくなっちゃうんだ。髪を縛るゴムでもだめなの。だから、外出するときにももらった腕時計はポッケに入れて、時間を見たいときは、懐中時計みたいにいちいち取り出してた。そしたらわかると思うんだけど、あるときズボンのポッケに腕時計を入れたまま、洗濯しちゃったのね。文字盤のガラスの内側が水分で白く曇って、時計じたいも動かなくなっちゃった。でも、腕時計がなくても困るわけじゃないし、よく乾かしたっきり、修理には出してなかったの。

 じいちゃんが死んでから、ふとその腕時計のことを思い出して、時計屋さんに持っていったんだけど。放置してる間に中の機械が錆びついて、だめになっちゃってるから、修理は難しいですって言われちゃったの。その途端、それまでなんでもなかったのに、急に悲しさが膨れあがって涙があふれてきて。あのときは困ったな。時計屋さんもびっくりした顔をしてた。それが申し訳なくて、ますます涙が止まらなくなって。

 別に、おじいちゃんっ子だったわけでもないし、その時計に特別思い入れがあったわけじゃないんだよ。修理だって、後回しにしてたんだし。だけど、たったそんなことでも、そんな小さな取り返せないものでも、後悔になって残ってしまうのね」

 引き出しの奥にしまい込んだ動かない時計を目にするたびに、太夫はこれからもずっと、同じ後悔に傷つくのだろう。

 表通りのほうから連れ立って歩いてきた高校生男子たちが、我々を見て、何か口々に言っている。こちらに近づいてきた男子たちは、皆同じ高校のハンドボール部のジャージを着ていた。

 ひときわ背の高い茶髪の男子が叫んだ。

「幸四郎! お前なんでこんなとこにいんだよ。一緒に祭り回ろうって誘ったじゃんか」

 びくり、と顔を上げるも、何も言えないでいる幸四郎君に、茶髪の男子は重ねて声をかけた。

「おばさんのことは大変だろうけどさ。お前も大学行くんだろ? 部活引退してからは、ハンド部のみんなで、放課後勉強しようぜ」

「このメンツで勉強しても、あんま捗んないかもしれないけどな」

「ぜってー帰りに寄り道するわ」

 ハンドボール部の他のメンバーが口々に言う。

 その様子を見た私と太夫は、顔を見合わせて、その場から離れることにした。

 人の死を受け入れるのには、物語が必要だと思う。

 身近な人の突然の死による日常の断絶が、断絶のままである間、過ごしていく日々は、私たちの心の中で空転し続ける。それまでの日常、死、そしてそれからの日々が、切れ目なくつながったときに、はじめて死を受け入れることができたと言えると、私は思う。

 大学受験は、幸四郎君が母親の死を受け入れることを、きっと助けるだろう。仲間と支え合いながら勉強し、母親の死を乗り越えて大学に合格した。そんな物語が、幸四郎君にはきっと必要なのだ。

 そして母親の死からの日々を振り返ったとき、今夜の出来事も、母親の死を乗り越える助けとなった事件として、幸四郎君の物語の一つの章を成していたらいいな、と私は願った。

 太夫と並び、間隔の空いた街灯をつなぐようにして、静かな裏通りを歩いていると、ぽん、と軽快な音がして、目の前に暁天が現れた。

「見事逃げ切りやがったな」

「こんなちゃちなゲームに勝利することなど、おれさまにとっては屋台の買い食い前だ」

 暁天は、大事そうに手に持ったいちご味のかき氷をひとさじすくって口に入れる。

「たまたま音楽が再開したおかげで、九死に一生を得たくせに」

「それにしてもなんで、最後に唄がもう一回流されたんだろう。アンコールのアンコール?」

 太夫が首をひねる。暁天は、ストローのさじをくわえたまま、「さあな」とそっぽを向いた。

「暁天、置いていかないでおくれよ」

 アナウンサーか声優でも生業にしている人のように深みのあるきれいな声がして、私と太夫は声が聞こえたほうを振り返った。暗闇から街灯の光の下に現れたのは、髪を長く伸ばした若い男の人だった。右腕をバンダナで覆っている。

 長髪で思い出した。この若い男は、確か駅前ステージで演奏していた、いやおいどんどんスペシャルバンドの一員のボーカリストである。

 声に違わぬ美しい顔をした若い男は、冗談のように暁天をにらみつけた。

「まったく、君のお人好しも大概にしたがいいよ。私のアシストがなければ、今頃君、太郎山の主に連れ去られていたところだよ」

 暁天は嫌そうな顔をした。

「なあに言ってんだ李魚りぎょ。あの小僧で遊んでたら、うっかりしちまっただけだよ。本気で逃げれば、こんなゲーム、あっという間に終わってたんだけどよ」

「相変わらず君は素直じゃないな。千年前に出会ったときから、全然成長しない」

「悪かったな」

「でも残念だ。君が太郎山の主に目をつけられてちゃあ、もうこの町を訪れることはできないな。さっき、実行委員長じきじきに、来年も演奏よろしくって頼まれて、握手してきちゃったのに」

 李魚と呼ばれた男が肩を落とした。暁天が仏頂面になる。

「祭りのときだけ、また来ればいいだろ。そんな短時間町に留まったところで、躑躅姫にとっ捕まるおれさまではない」

「いいのかい? ありがとう暁天」

 李魚は、子供のようににこにこした。まるで李魚自身が音楽の化身であるかのように、演奏できる喜びがあふれ出すようだ。

「さあ、もう行くぞ。旅館の温泉にでも浸かって、うまい酒を飲みながら、お前の歌が聴きたい」

「はいはい」

 素っ気ない暁天に対して、李魚はすべて心得たように微笑んだ。

 暁天は「世話になったな」とだけ言うと、ふんぞり返って去っていった。突っ立ったままの私と太夫に軽く頭を下げて、右腕にバンダナを巻いた李魚が続く。

 私は、椿さんが話してくれた悲しい昔話の平行世界を想像した。

 危篤の状態になった琴の名人から「なぜ私のためにそこまでするのか」と尋ねられたとき、神仙は、迷った末に、素直なたちでない自分の殻を破って、「大事な友だから」と答えた。そして、仙界から命がけで盗んできた桃を琴の名人の口に押し込んだ。桃の雫を飲んだ友は、たちまちにっこりと笑い、体を起こす。桃のおかげで病は癒え、琴の名人は神仙と同じく不老不死になった。琴の名人の呪われた腕が回復することはなかったけれど、いまもどこかで、一人は大好きな音楽を続け、一人はその楽の音を愛でながら、二人で旅を続けている。

 美しい悲劇よりも、こちらのハッピーエンドのほうが好きだな、と私は思った。

「ていうか、来年も暁天がいやおいに来るってことは、躑躅姫との追いかけっこがまた繰り返されるのか?」

 私は脱力して、勘弁してくれ、と膝に両手をやる。かたわらの太夫は、楽しそうに頬を緩めた。

「いやおいどんどんの裏で、山神と神仙の鬼気迫る戦いが繰り広げられているっていうのも、面白いんじゃない? 何だかいやおいらしくて」

 少なくとも来年は、争いに自分が巻き込まれませんように、と私は天に祈ったのだった。

 

 どくだみの白い花が咲き群れる庭を通って、私は家の玄関の前に立った。どくだみの独特な匂いが足元から立ち上る。外から見る限り、家には明かりがついておらず、真っ暗である。竜胆はまだ、いやおいどんどんから帰ってきていないのだろう、と思いながら戸に鍵を差し込もうとしたとき、中から声がした。

 耳に馴染んだ竜胆の声である。なんと言っているかまでは聞き取ることはできないが、声の間隔からして、誰かと話しているようだ。

 そこまで考えて、うなじから腰まで私の背中に電撃が走った。祭りに繰り出す前、太夫が私をからかうように言った「竜胆ちゃん、実は彼氏と出かけるんじゃないの」というセリフを思い出したのである。

 カッと頭に血が上った私は、反対側に叩きつけるようにして戸を開け放ち、「竜胆、ただいま!」と叫んだ。その瞬間、家の奥からの物音は途絶えた。

 私は、板敷きの廊下をわざとドンドンと踏み鳴らして、台所のガラス戸を開けた。

「ただいま、竜胆」

「……晶博、おかえり。早かったね」

 真っ暗な台所には、竜胆が素足で立っていた。竜胆のほかには誰の気配もなかった。私の姪は、私が来る前に何かを慌てて隠したように、息が少し乱れていた。私は、竜胆をじっと見つめながら慎重に問いかけた。

「誰かと話してなかったかいや?」

 竜胆は、手元のスマートフォンを手に取った。

「友達と電話で話してたよ」

「ほうかい」

 しかし、私が聞き取った物音は、竜胆とあともう一人、確かに二人分だった。

「夜食に何か食べるかい」

と私が尋ねると、竜胆は「ううん。屋台で焼きそば食べたからお腹いっぱい」と首を振った。誰と話していたか追求されなかったことに、安堵したように見える。

 竜胆と話していた人物が、台所に隠れているわけでもなく、当然玄関から出ていったわけでもないとすれば、残る可能性は、台所の勝手口である。だが、その出入り口は普段は使わないので、勝手口の外には自転車や石臼などが雑然と置いてあり、とても通行できる状態ではない。

 先ほどまで竜胆と話していた人物は、真っ暗な台所から忽然と蒸発してしまったのである。


第十二話 ホームの怪 につづく

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