第8話 黒狐、奮戦
「ど、どうしますか。赤い影がこの船に乗り込んでくるなんて」
一方的に嫌っている忍者集団赤い影が接近中と聞き、声を荒げたお福を、
「お静かに。他の客が騒ぎます」と制した黒狐は、メグに対しては、つとめて明るく言った。「あっちがこそこそするなら、こっちから訪問することにいたします。いくら速くても釣り舟に毛の生えたもの、舟底に穴でも開けてやりましょう」
「まさか。そんな無茶をしなくても」
「これがわたしの役目です。それにわりかし剣は上手ですよ。泳ぎはともかく」
「狐くん」お蘭が呼んだ。
「千ほど数えて待っていればいい?」
「いや、目標は三百」
暗い色をした黒狐の外套の端から刀の鞘が二本、のぞいていた。
彼は舷側に上がると、識別用の灯りすら付いていない小型船の接近を待った。こちらの動きに相手も気づいたらしく、武器を持った影が甲板に立ち上がってうごめいているのがわかった。
黒狐は、風呂の湯加減をさぐるほどの気楽さで敵の様子を見ていたが、敵船がぎりぎりまで近づいたところで、
「じゃ、あとで」と手をあげ、身を虚空に投じた。
お蘭も人と荷で混み合う甲板を駆け、うろたえる船長のもとに迫った。
そして包丁みたいに刃の広い小刀を抜き、抵抗しようとした小頭らしい男の衣服を帯ごとすっぱり切り落として裸にすると、ちょうど差してきた月明かりを利用し、船長の顔の前で刃をぎらぎら光らせた。
「五百を数える間、このまま大人しく船を進めたら金。停船したり逃げたら鋼。どっちがいい?」
「き、金」
「よし。話が早い」
船べりにつかまり、接近する船の様子を探っていた乗組員から声があがった。
いまや客船に並走するまでになった小型船の甲板に激しい動きがあった。
ついに斬り合いがはじまったのだ。
たまらず、メグたちも人をかき分けて自船の甲板に上がり、戦いを見た。
雲の合間から出た青白い月に照らされて、見るからに剽悍な兵士が刀や手槍を振りかざしているのがわかった。八人はいるようだ。
彼女の横では、あの孔雪ですら真っ直ぐに口を引結んでいる。
揺れる船上とは思えないほど兵たちは鋭く動き、一斉に舳先のあたりにいる背中を丸めた黒い影に向かって殺到した。狙われているのは黒狐だ。
メグはお守りに触れ、黒狐の無事を願った。
だらんと二刀を下げた黒狐は、激しい剣風を受けて葦のように頼りなくゆらゆらとゆらめいたが、そのたびになにかが飛んで川に落ちた。一緒に黒いしぶきが跳ね飛ぶのは、どうやら相手の血らしい。夜のため、よく見えないのをメグはありがたく感じた。
トゲの付いた手斧を手に、ひときわ大柄な兵が突進したが、黒狐の一振りであえなくその場に沈んだ。足元にいた気の毒な漕ぎ手の悲鳴が聞こえた。船を動かしているのは兵士ではなく雇われ人だったようだ。
船体中央に進んだ黒狐に、前後から刀を構えた二人が同時に飛びかかった。
「あっ」メグたちは声を上げた。美歌など両手で顔を覆っている。
黒狐は一瞬だけ二刀を閃かせ、あとは何事もなかったかのように敵をやりすごし船尾にたどりついた。すれ違った敵二人は、最初の勢いのまま交差するように前と後ろの甲板へと突っ伏した。同時にどぼん、どぼんと水音が聞こえた。
(いまのあれ…もしかして首……ひえええ)
残る敵は二人。メグと並んだお福は両手を握りしめ、ぶつぶつと先祖になにかを祈っている。
切り掛かった赤い影の長い白刃が、黒狐に弾かれて宙に跳ね上がり、波間に消えた。
「うひゃー、あのお客、めちゃくちゃ強ええ」お蘭に裸にされた小頭が震えながら褒めた。職業柄、メグたちより夜目が効くようだ。しかしまさか、撫で斬りにされている相手が泣く子も黙る傭兵集団とまでは、判らないだろう。
歴戦のつわものぞろいの赤い影が、追い立てられ防戦一方になっている。
最後に残った赤い影二人のうち、一人が隙を見てメグの船に飛び移ろうとした。だが黒狐の刀に阻まれ、辿り着けずに川へと落ちた。水面に達する頃には絶命していた。
もう一人は短い棒状の武器を投じつつ、跳ね上がって川に飛び込もうとしたところ、足の裾を黒狐の刀で押さえられ、甲板に引き戻された。敵はそのまま体を拗り、黒狐を短剣で突こうとして、彼の拳に殴られたのか弾かれたように仰向けにひっくり返った。起き直って睨んだが、すぐに力を失ってくずれた。
こっちを向いた黒狐が「だめだった」という仕草をしている。襲撃隊の頭と思われた男が、口を割らされるのを嫌い自害したのだ。
小型船の漕ぎ手たちが動きを止め、メグたちの船との差が急にひらいた。脅して従わせていた赤い影がいなくなったためだろう。
「ほらっ、まだ三百すら読み終わってないよ。こっちも速度を落として」
お蘭の叱咤が聞こえた。船長たちは大慌てで船速を落とそうとしたが、そのうちに小型船から再度近づいてきて、手鍵のついた縄が船の手すりにかかったと思ったら、黒狐がそれを器用にたぐって乗り移ってきた。
乗組員や事態に気付いていた乗客たちが、戻ってきた黒狐をこわごわ迎えた。
「こ、この船で暴れないでくださいよ」
「当たり前だ」
さっきメグたちを見て、いやな表情を浮かべていた船員は、すっかり腰が低くなっていた。「どうぞ、お使いください」と、震える手で水の入った桶を差し出す。敵の血を洗えということだ。
「よっ、ご苦労さん」「仕事が早いですねえ」口々に声をかけつつ、お蘭や孔雪たちが近づいた。
「漕ぎ手たちはみな、雇われだ。幸い追手は一隻だけ、他は豪胆斎の相手に忙しく、我々どころではないらしい」と黒狐は報告した。
メグも謝意を述べようとして近づいたが、丁重に手で制された。返り血によって汚れているからということだった。仕方なく、持っていた気つけ用の酒が入った容器を渡した。
まもなく船は元の速度、予定の航路へと戻った。
流れの穏やかなところに出たのか、ずっと続いていた揺すぶられる感じがなくなり、メグはほっとした。あと少し揺られていたら、館を出る前に急いで腹におさめた食べ物を、そっくり戻していたかもしれない。
武将の娘という立場からすれば情けない話だが、月明かりに血潮や身体のあちこちが飛ぶのを目にして参ってしまったせいもある。黒狐は、血で汚れた衣類を取り換えると、なにごともなかったかのように見張りに戻った。
「あらあ、黒狐が蒼狐になってるう」
「ほおんと、前より男っぷりが上がって見えるよ。若々しくていい」
これまで黒狐の羽織っていた暗く陰気な外套が、明るい紺色に変わっていた。お蘭と美歌がわざわざからかいに行くと、彼は「ほっとけ」とだけ言って、また水面に目を向けた。女二人はしばらくの間、気の済むまで彼をだしに笑い転げた。彼女らは彼女らで、耐えきれないほど緊張していたのだろう。
黒狐はじっと黙ってサカナにされていた。一度、救いを求めるようにメグの方を見たが、その目は笑っているようにも思えた。
船は海に出た。外洋ではなく陸沿いをつたうように矢後の港に向かうのだ。風はほどよく吹いて、このまま無事に行けば船は朝には目的地に着いているという。
面白いのは、落ち着いたとたんにお蘭と美歌がそれぞれ菓子を出してきたことだ。孔雪まで小さな砂糖菓子を袋から取り出した。滋養があるので食料のない場合の非常食になるとの説明がついていた。
お福は「いえ、無用です」と言って水筒の水だけを飲んでいるが、残りの女たちは他の客に目立たないよう、こそこそと菓子をつまんだ。まだ命の危険はなくなったわけではないのに、なんとなく楽しく感じている自分が、メグはおかしかった。
ようやく相客に意識を回す余裕ができ、あたりを確かめた。向かい側の席には、メグと歳が変わらないと思われる若い男女が二人座っていた。
顔立ちがよく似ているので、兄妹あるいは双子かも知れない。膝に大きな荷物を抱え、静かだが不安げな様子だった。
しばらくして、話し上手の美歌が聞き出したところによると、ふたりは人形を操ったり手品をしたりする兄妹芸人であり、たまたま鷺の巣にいて今度の難にあったという。
それにしては若いと思っていたら、旅公演の途中で一座の主だった祖母が亡くなってしまって劇団は解散、二人は仕方なく美良野にいる親戚のところに身を寄せる途中だという。
「美良野。それはまた」美良野とは、メグの長姉の嫁ぎ先である江津の中心都市であり、姉と夫の居城があり、一行のとりあえずの目的地である。
女の子の顔色の悪さが気になったメグが、空腹なのかと菓子を勧めると、
「ありがとうございます。でも、結構です」と言う。声に元気がない。
「もしや具合でも悪いのですか。船に酔いましたか」と聞くと、蜻蛉丸と名乗った兄の方が「実は、乗船の前からこんな調子なのです」と心配気に言った。
「泊まっていた宿が隙間風のひどいところで、風邪をひいたのかも」
「よければ、手首を出して見てください」メグは灯りをつけるよう頼むと、橘という名の女の子の脈を取り、舌を出させた。
メグの母は、神事や星詠みよりも医術を念入りに娘に教え込んだ。人を診るということでは同じだという理屈だ。彼女が毒薬に関心を持ったのも、この影響があった。
「疲れと冷えによって、胃がうまく働かなくなってしまったのかもしれませんね」そう言いながら、メグは傍に置いた荷から薬箱を出した。残念ながら得意の毒の多くは置いてきてしまったが、冷えや腹下し用の薬、痛み止めは体調を崩しやすいお福のために持ってきていた。
「お湯がないのが残念ですが」と言いながら、薬を調合し、渡して飲ませた。
「これは体を温めるものばかりですから、飲んでも悪い影響はないと思います。苦くありませんか」
「いいえ、大丈夫です」橘の歳はメグより下の十六だという。
「あなたさまは、お医者様ですか?」
「わたくしは、えー、一種の占い師かな。古来より、占い師に薬はつきものです」
世にも適当なメグの言い訳を本気にしたのか、
「占い師。私のいた一座にも、占い師のいたことはありました。なら、わたしたちと生業はそんなに違わないんですね。それじゃ、他の皆さんは?」と聞いた。
「そ、そうねえ。私の得意は手裏剣打ちかな」お蘭が言うと、「私は先の二人がひやりとさせた相手のこころを、優しく慰めてあげるのが得意。歌とか踊りとか。お酒を勧めるのも上手よ」と、美歌が冗談めかして言った。それを聞いて橘はやっと笑みを浮かべた。
薬の効き目より、同性の話し相手が一度にできて安心したのだろう、橘のほおに赤みがさしてきたのが薄暗い船内でもわかった。表情がやわらぐと、とても愛らしい顔をしている。
「こんなに幼いのに、大変ね。まあ、うちには五十女みたいな十五歳もいますがね」とお福がいうと、皮肉が通じたのか通じないのか、孔雪がもっともらしくうなずいた。お蘭と美歌は声を出さずに笑っている。
橘と蜻蛉丸はお蘭が貸した肩掛けにくるまって目を閉じたが、さきほどまでよりはずっと眉のあたりが柔らかく見え、メグは少しだけ安心した。
「あと戻りするようで申し訳ないのですが」メグはかたわらに控える孔雪がまだ起きているのを見て、話しかけた。
「聞きたいことがあります。どうして未の守り手ばかり狙われるのか。それが知りたい。二人の姉もそれぞれ守り手を持っています。二人とは置かれた状況が全く違いますが、それにしても差が激しいのにも引っ掛かる。館であなたは、わたくしのお守りが一番人気、理由は調査中といいました。あなたほどの人が言うなら黙って受け入れるべきかもしれない。しかしどこかに、そう、飛躍を感じます」
「……」
「世間の抱く印象はともかく、孔雪は本来とても情熱的なひとだと思います。探究心は筋金入りだし、不正や欲に溺れる人間が大嫌い。それがあまりに平然としているのに、かえって疑問を感じました。もしや、まだなにかを隠しているのではありませんか。あるいは、すでになんらかの対策を講じているとか」
「いえ、遺憾ながら対策はまだです」そう言って、何度か静かに呼吸してから、孔雪はうなずいた。
「わかりました、我が主。少々長くなりますが説明いたします。しかし、決してたばかろうとしたのではないことは、ご理解ください」
「もとよりそんなこと、考えてもいません」
「あまりに確証がなく、言上をためらっておりました。今から申しますのは、すべて私の推理に過ぎないのをあらかじめご了解を。また、打開策はこれから考えねばなりません」孔雪は淡々と前置きを語った。この娘の場合、こんな口調の時の方がやばい。
「では結論から。メグ様の鐘がにわかに注目を集めた背景には、何者かの指嗾があると私は見ています。そしてその人物は、藤の国の中枢にいて、それなりの影響力を持つ者」
「家老の内藤ではないのですか」
「実行は内藤様ですが、立案者、すなわち入れ知恵をしたのは別人と思われます。むろん豪胆斎でもない。あの者は内通者から情報を受け取ったに過ぎません。私の説では、真贋騒ぎのもとをつくったのは十中八九、祭司長の山内ランドウ様」
メグは目をぱっちりと見開いた。すなわち、今回の黒鷺における祭儀の総責任者こそ、黒幕というのだ。
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