第14番 月に寄せる歌

 いま僕は、練習しているピアノ曲がある。

 ドヴォルザークのオペラ『ルサルカ』の中の『月に寄せる歌』というアリアだ。

 『ルサルカ』は、水の精であるルサルカが人間の王子様に恋するという物語。

 彼女は湖のほとりにひとり佇み、月に向かってこう語りかける。


 お月さま、教えてください。あの人はどこにいるの?

 お月さま、伝えてください。私はここで待っていると。

 お月さま、どうか消えないで……


 僕はこのメロディーを初めて聴いたときに心を奪われ、いつか絶対にピアノソロで弾いてみたいと思っていた。

 ここ数日、仕事から帰ってきたら晩飯もそこそこにすぐ電子ピアノに向かい、動画を見ながら少しずつ耳コピしてアレンジを進めている。

 ちゃんと弾けるようになったら、ユーチューブに演奏動画をあげてみようかなと思っている。



 しばらくは仕事が忙しくてピアノに向かえない日もありつつ、それでも何とか『月に寄せる歌』のピアノアレンジが完成した。

 華やかさが出るように技巧的な部分も作ったから、淀みなく弾けるようになるまでに多少の練習が必要だった。

 今はかなり指に馴染んできたし、今日は初めて最後まで止まらずに弾けそうな手応えがある。

 よし、やってみるか。

 ピアノの左側の壁をちらりと見る。

 そこには、満月の夜の湖が描かれた、紺色の絵葉書が貼ってある。

 いつだったか、旅先のフリーマーケットで買ったものだったから、誰の絵なのかは知らないし、そこにあんまり興味もない。

 シンプルに、ただ気に入ったから貼ってあるものだ。

 僕はこの絵葉書の情景を頭の中に写し取ってから『月に寄せる歌』を弾き始めた。



 最後の和音を弾いた瞬間、できた!という達成感が押し寄せた。

 その充実を噛みしめるため、最後の音をちょっと長めに伸ばしてみる。

 とてもいい気分だ。

 そして静かに鍵盤から指を離した。

 思っていた通り、ピアノだけで弾いても充分に美しい。

 ちらりと絵葉書を見た。

 そのとき、満月がいつもより明るく見えた。

 そればかりか、湖の周りの草木も月明かりでいつもよりはっきりと見える。

 あれ、気のせいだろうか?

 軽く目をこすってもう一度見てみると、絵葉書はいつもの紺色に戻っていた。



 それから更に練習を重ねて、『月に寄せる歌』のピアノソロ・バージョンは、だいぶ演奏に表情をつけられるようになってきた。

 そろそろ動画の撮影をしてもいいな、なんて考えていたある日、練習している最中に突然、電子ピアノの電源が落ちた。

 電源ボタンを押しても点かないし、どのボタンを押してみても全く反応しない。

 コンセントを抜き差ししてみたり本体を叩いたり軽くゆすってみたりしたけど、やっぱり何も起こらなかった。

 この電子ピアノ、もう長いこと使ってるから、そろそろ寿命だったのかな。

 おそらく修理するよりも、本体を買い替えた方が安いんだろう。

 それでも愛着があったから、とりあえず楽器店でみてもらうことにした。



「これ、雨の日に野外に持ち出して演奏してましたか? 中が水でやられてますね」

 そう楽器店の人に言われて、びっくりした。

 心当たりは全くなかった。

 確かに持ち運びできるタイプの電子ピアノだったけれど、それは予算と部屋のスペースの問題であって、実際に持ち出して使ったことはない。

 それに、電子ピアノの上には物を置かないようにしていたから、水やジュースをこぼすようなこともなかった。

「そうなんですね……。他に何か心当たりはありませんか?」

 どんなに考えてみても、電子ピアノに水が入るシチュエーションは思い当たらなかった。

 いや、まてよ。



 電子ピアノは、とりあえず楽器店で預かってもらうことにした。

 一応は、修理するか新しいピアノを購入するかの二択だけれど、ほぼ間違いなく新しい電子ピアノを買うことになるだろう。

 部屋に帰ってくると、電子ピアノが置いてあったスペースはぽかんと空いていた。

 僕は、そのスペースの左の壁に貼っている絵葉書を見た。

 絵の中の月は、分厚そうな雲にすっぽりと覆われていた。

 その空は、湖が描いてあるかどうかもわからないぐらい暗くなっていた。

 今度は目をこすって何度見直しても、月がもとに戻ることはなかった。

 やっぱり、そうか。



 水の精であるルサルカは、魔法使いにお願いして、声を失うことと引き換えに人間の姿にしてもらい、王子様と恋をしました。

 でも、いつまでも口を利かないルサルカを冷たい人だと感じた王子様は、別の国の王女様に心を移してしまいます。

 絶望したルサルカは森に戻りますが、後に真実を知った王子様は森の湖にやってきて、彼女に抱擁と口づけを求めます。

 ルサルカは「それは死をもたらします」と拒むものの、王子様は「喜びのうちに死にます」と答えて口づけをしました。

 王子様は安らかに息絶え、ルサルカは湖の底に沈んでいきました。



 ルサルカと王子は、僕のピアノとともに湖の底に沈んでいったのだ。

 この絵葉書は、ルサルカが住む湖だったのだろう。

 そして僕が『月に寄せる歌』を完成させた瞬間、時を動かしてしまったに違いない。

 ルサルカは王子と出会わず、思い続けているだけの方が幸せだったのだろうか。

 それとも……。

 僕には、わからない。

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